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第2話

(マー)主任のような理解者がいて良かったです〉  ビジネス用の笑顔でニッコリとして、郎威軍(ラン・ウェイジュン)はパソコンを閉じ、立ち上がった。 〈さ、帰りましょうか。地下鉄の駅までご一緒にいかがです?〉  馬主任と郎主任が肩を並べて歩き出した時、ちょうど会議室のドアが開いた。 「お疲れ様でした」  2人の主任が頭を下げたのは、このオフィスの総経理(社長)・額田(ぬかた)凪沙(なぎさ)だった。 「ああ~、お疲れ!(ろう)くん、相変わらず美人ね~。眼福(がんぷく)~♪」  40代後半とは見えないほど、若々しく溌溂とした美人のやり手社長は、あからさまに陽気に見えた。部下の中で一番の美青年である郎威軍を見かけて、声を掛けずにはおれなかったようだ。 「それって、逆セクハラですやん、社長」  会議室から関西弁で声を掛けたのは、営業部の部長、加瀬志津真(かせ・しづま)だ。  会議が円満の内に終わって、他の出席者たちも、それぞれ自分のカップや水筒を手に会議室を出てくる。その中で残って、機材の電源を落とし、片付けを任されているのは、今日の会議の進行担当の加瀬部長1人だった。  その加瀬部長は、額田社長が郎主任にいったセリフが、男性上司から女性社員に同じことを言えば、今どき必ずセクハラと認定されるような内容であると、加瀬はやんわりと社長を注意した。  それは、その場にいた他の男性重役が女性社員に似たようなことを言わないよう、忠告する効果もある。 「あら、いけない!郎くん、訴えないでね」  加瀬部長の賢い立ち回り方に、聡明な社長もすぐに気づいた。  冗談にしてしまおうとサラリと受けかわした社長に、郎主任は静かに頭を下げた。 「じゃあ、気を付けてね~。馬主任も、また来週!」  陽気な社長の様子に、このオフィスの経営状態が悪くないことが知れた。今の幹部会議で、よほどいい報告がなされたのだろう。美魔女で、有能で、魅力的な額田社長だが、彼女が愛するのはなにより現金(おかね)だった。売り上げの数字に「0」が増えれば増えるほど、彼女は上機嫌になる。  ご機嫌な美人社長が社長室に消えるのを見送って、馬主任と郎威軍は帰るためにエレベータへと向かった。  エレベータのドアが閉まる前に、一瞬、郎威軍は加瀬部長の方を見た。  部長の方は、経理の課長と立ち話をしていたが、郎威軍の視線に気づいたのか、チラリと視線だけ送り、あとは素知らぬ態度を見せた。まるで、郎威軍に関心が無いかのように。  期待をしていたわけでは無かったが、ほんの少しがっかりした郎威軍は、いつも以上に無口になり、地下鉄の駅までは馬主任の娘の自慢話に虚ろな相槌を打つだけだった。  馬主任とは同じ地下鉄の駅まで歩き、ホームで、それぞれ反対方向の車両に乗り込み、別れた。利用するのは同じ2号線だが、馬主任は空港のある虹橋(ホンチャオ)地区に自宅がある。  一方の郎威軍はすぐ近くの世紀大道(シージーターダオ)の駅で下車する。  そこから自宅のアパートまで10分ほど歩くと、ちょうどアパートのセキュリティゲートの手前で、郎威軍のスマホが鳴った。 「はい」  誰からの電話か知っていた威軍は、ほんの少し緊張する。  ゲートの横に立っている警備員に会釈をしながら、郎威軍は真っすぐに自分の部屋がある建物に向かった。 ≪もう、帰ったか?≫  スマホの向こうから柔らかい関西訛の日本語が聞こえてくる。 「ええ。間もなくドアの前です」  例え今すぐに引き返せと言われても、決して受け入れまいと固く決意して、部屋の前まで帰ってきていると、威軍は大げさに答えた。 ≪嘘つくなや。まだ建物の手前や≫ 「え?」  まるで見ているような言い方に、威軍は驚いて周囲を見回した。スマホの向こうから、楽しそうにクスクスと笑い声が聞こえる。 ≪そんなに必死で捜してくれるんか?≫  気が付くと、ちょうど加瀬がスマホで決済して、水色のタクシーから降り立つところだった。 (わざわざタクシーで追ってくるなんて…)  それほどまで、この自分を求めているのか、そう思うと「人造人」と呼ばれる郎威軍の頬も熱くなる。  そして、なぜかすでに顔見知りなのか、片手を上げただけで、住人でもないのに加瀬は警備員の前を笑顔で通過した。  そのまま真っすぐに威軍の目を見つめて、薄い笑みを浮かべながら、加瀬は近付いてきた。

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