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第3話 

「会いたかったやろ?」  加瀬(かせ)志津真(しづま)が、タクシーを下車して、真っ直ぐに恋人へと近づいた。  寄り添うほどの距離になると、部下たちに、無駄に魅惑的だとからかわれて「声優部長」などと綽名(あだな)されている甘い声で、茶目っ気たっぷりのウィンクを添えて、加瀬は恋人に囁いた。  警備員に見られていたとしても、疑われるような動作ではなかったが、(ラン)威軍(ウェイジュン)は2人の関係が(さら)されているような気がして、落ち着かなかった。 「部屋へ、行きましょう」  加瀬を急かすようにして、威軍は小走りにアパート内のエレベーターへ向かった。 (自分から誘ってきてるがな)  職場では、感情のない「人造人」と呼ばれながら、自分の前ではこれほど簡単に動揺を見せる初心(うぶ)な恋人が、加瀬には愛しくて、笑ってしまうほどだった。  この、浦東地区にある独身者向けの新築アパートの住人たる郎威軍の、迷惑になるようなことをしたい加瀬ではなかったが、ちょっとしたイタズラ心は抑えきれなかった。  エレベーター内の監視カメラの死角になるような位置を確かめ、加瀬はそっと郎威軍の手を握った。 「やめて下さい」  何事も無いような素振りをして、小声で威軍がたしなめる。  そのまま振り払おうとするが、加瀬に強い力を込められていて、放れられない。 「何が?」  そっぽを向いて、加瀬が言う。 「手を…、放して下さい」  加瀬の握ったところから熱を感じてしまい、すこしずつ郎威軍は呼吸が早くなる。 「この手、放したら、逃げへんか?」  もはや監視カメラも気に留めず、いきなり加瀬は腕を引いて、郎威軍の腰を抱いた。その強引さに、威軍は眉を寄せるが、抵抗は出来ない。  いつもそうだ。  郎威軍は、加瀬志津真の熱に絡め捕られて動けなくなる。そして、変わってしまうのだ。冷徹で完璧な仮面を着けた「人造人・郎主任」から、恥じらいも慎みも忘れて恋人を欲しがる濃艶な寂しがり屋の「ウェイ」に…。 「どこに、逃げるというんですか?」  このまま引き寄せられ、抱きすくめ、貶められたいと疼きだす内なる自分に怯えながら、威軍は身を捩った。 「逃がさへんけどな」  意地悪い目つきで、加瀬は言った。そして、次の瞬間には恋人の動転ぶりに苦笑しながら、ようやく扉の開いたエレベーターから急いで飛び出す郎威軍の手を解放した。 「…逃げませんよ」  小さく呟いて、威軍は急いで自室のドアの前に向かった。  手早く鍵を開けると、ドアを開く前に、一瞬もの言いたげに加瀬を振り返った。そんな一連の仕草が、加瀬には誘われているようにしか思えなかった。  部屋に着き、先に入った威軍を追って加瀬も部屋に入る。恥ずかしさからなのか、急いで威軍は奥へ向かう。 「逃げるなって、言うてんのに」  後を追わずに、廊下の真ん中で、加瀬は立ち止ったまま言った。 「逃げていません」  ベッドサイドのテーブルの上に鞄を置いて、威軍は加瀬を振り返る。 「じゃあ、何やねん」  距離を取って、加瀬は壁にもたれながら恋人を見つめた。加瀬は通勤に鞄など持たない。スマホと財布をスーツの内ポケットに入れているだけだった。ネット上のクラウドを利用はしても、仕事は持ち歩かないことにしているのだ。  それだけ、プライベートを大切にしている。そのプライベートの大半は、恋人に捧げられているのだが…。  そして、やっと2人きりになれた。  ようやく秘した関係から、普通の恋人同士に戻れる時間だ。「加瀬部長」と「郎主任」の関係から、「志津真」と「ウェイ」と呼び合う関係に戻れる。 「早く、2人きりになりたかったんやろ?」  にやけた志津真に、ようやく他人の視線を気にする必要が無くなった威軍が、微かに、はにかんだ笑みを見せた。すでにその眼は語っている。 (そんなこと、分かっているくせに)

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