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第1章 ガーゴイルのまなざし 1.怪物の顔

 壁から怪物が身をのりだしている。  中庭の芝生を踏んだとき、一有(いちう)の頭に浮かんだのはそんな言葉だった。怪物は庭をかこんだ校舎二階の屋根から石の胴体を突き出していた。いったい何の意味がある装飾だろう。蛇めいた体にはうずまき模様が刻まれ、蜥蜴のような頭に猫のような耳がついている。丸いぎょろりとした目の下側に、尖った鼻と牙を剥きだした唇。  ヘンな顔。そう思って目をそらしたとたん、後ろから声が聞こえた。 「きみが(さかい)君? 俺を騎士(ナイト)にしてくれないか」  あーあ。またか。  一有はのろのろとふりかえる。頭一つ高い位置から二年生の襟章をつけた生徒が一有を見下ろしている。身長一七五センチ、そんなところか。一六〇センチにぎりぎり足りない一有にとって、身長は劣等感をもつ要素のひとつだ。そのせいか、自分より背の高い人間の身長を即座に目で測る癖がある。 「2-Aの斉藤だ。境君は高等部からの入学なんだろう?」 「ええ、そうですけど」 「騎士(ナイト)制度のことはきいているだろう? 学園(ここ)では伝統的に、オメガの生徒にベータの騎士(ナイト)役がつく」 「それは知っています」  一有はひとまずおとなしく答えた。目の前の二年生は一有より背が高いだけでなく、肩幅も広く顔も首も日焼けしている。スポーツ系の部活でもやっていそうな顔つきだ。行く手をさえぎるように立たれるのは好きじゃないし、誤解を解くのも面倒だが、相手は一応上級生。  しかし斉藤という二年生は一有の返事をろくに聞いていなかった。 「公立中学にこんな制度はないから、驚くのはわかる。それにこの学園、他の生徒はみんな中等部の持ちあがりだから、境君と同じクラスのオメガにはみんな、もうベータの騎士(ナイト)がいるんだ。誤解しないでほしいんだが、これは」 「――アルファのつがいとは無関係なんでしょう?」  思わず一有は顔をあげて二年生の言葉をさえぎった。身長差のせいで上目遣いになってしまうのはどうしようもないのだが、斉藤と名乗った二年生はハッとしたような表情になった。無意識に睨みつけたのかもしれない。一有はそろりと半歩引いた。 「聖騎士学園の学園騎士(ナイト)制の目的は、オメガが好きでもないアルファにハラスメントを受けないようにするためだ。そうですよね」 「その通り。だから騎士(ナイト)の志願者を断った新入生がいると聞いて……」  斉藤は一有に目をあわせ、急に口ごもった。 「きみはだから、危ないと……その……」 「あのですね」  一有は思わず声を大きくした。 「何か勘違いされてますけど、俺はオメガじゃありません」 「え?」 「俺はベータです。ナイトがどうとか、全然関係ない」 「でも境君、クラスは」 「――失礼します、先輩。彼は俺と同じ寮ですよ」  唐突に斜めうしろから声がかかる。一有は飛び上がりそうになった。まったく気配に気づかなかったのだ。二年生の斉藤も驚いたようだ。飛び上がりこそしなかったものの、肩をいからせたような姿勢になったのは声の主が自分より背が高いせいだろうか。  こいつはきっと一八五センチ。身長至上主義に毒されている十六歳の一有は反射的に目で測った。相手は穏やかな声でいった。 「境君はアルファの俺と同じ寮です。だからオメガじゃないです」 「鷲尾崎(わしおざき)」  ああ、彼が鷲尾崎か。  二年生が声の主を呼ぶのを聞いて、一有は寮の名札を思い出した。たしかにおなじ寮で、おなじフロアに名札があった。記憶しているのは「鷲尾崎」という三文字姓のためだ。名族と呼ばれるアルファのエリート一族は必ず三文字姓だし、鷲尾崎家の名前はニュース――警察庁長官がどうしたとか検察がどうしたといった堅いニュースで聞く名前だった。一有の後見人も仕事柄かかわりがあるらしく、ときたま口にする。 「外見でオメガと決めつけるの、よくないですよ」  一有との身長差(推定)二五センチの鷲尾崎は、推定一七五センチの二年生をすこし下の目線でみながら穏やかにいった。 「あ、ああ……」 「高等部入学生はめったにいないから先輩がたが期待したのはわかりますけど、確かめもせずにベータの境君に迫るの、失礼だと思いませんか。三性の区別はクラス表には載りませんけど、先生に聞けばわかることです」  鷲尾崎の口調は、淡々としているのに奇妙な圧力を感じるものだった。一有は二年の斉藤の目が泳ぐのをみて、鷲尾崎が二年生に何を要求しているのかをやっと理解した。ようするに一有に謝れといっているのだ。  たしかにたとえ善意の申し出だとしても、オメガと間違えられるのは(一有にはよくあることとはいえ)気持ちのいいことではない。とはいえこんな状況でベータをオメガと間違えたなんて、二年生の斉藤も恥ずかしいだろう――と一有は思ったが、鷲尾崎はそんな上級生に配慮する気はまったくないらしい。身長差にくわえ、アルファに生まれながらに備わっているような、意味不明の迫力で斉藤をみている。  一有は首がだるくなってきた。十五センチ差も二十五センチ差も、みあげる首の角度は同じようなものだ。 「先輩、あの」  面倒くさくなって口をひらくとほぼ同時に斉藤がいった。 「悪かった、境君。勝手に誤解して」 「いえ……はい。大丈夫です」  一有が答えると斉藤はほっとした表情になった。「それじゃ」とかなんとか、もごもごと口の中でいって芝生を歩きだす。一有もほっと息をつき、首をまわした。コキッと音がして、視野の端にまた怪物がみえた。鷲尾崎の顔もその隣にみえた。身長とすらっとした体形に似合う男らしい顔だった。眉はキリッとして目は切れ長、ひたいからまっすぐ通った鼻筋にひきしまった顎。  うらやましい――なんて思う必要もない。なにせ彼はアルファだし、聖騎士学園なんて仰々しい名前の私立全寮制男子校にいるのだから、名前の通り名族の生まれのエリートにちがいない。でもこっちが卑屈になる必要もないか、と一有は思いなおした。わざわざ上級生に謝らせたことについても大きなお世話だとは思わなかった。  オメガに間違われる外見のおかげで、一有はこれまでも厄介な状況に陥ったり、不利益を被ってきた。それにくらべれば今日の出来事はたいしたことではないが、鷲尾崎はアルファの立場で気まずさをそらしてくれたのだ。 「ありがとう、鷲尾崎……君?」  同級生なのにこの身長差は詐欺だ。そう思いながらも一有は鷲尾崎を見あげた。ほっとしたせいだろうか、自然に笑いが漏れた。 「あ、ああ、いや……」  鷲尾崎はさっきまでのすらすらした口調から打って変わって歯切れ悪くなった。 「この学園の習慣には……独特なものがあるんだ」  一有はまた笑った。 「たしかに独特だ。ナイトになりたいっていわれたの、あの先輩で三人目だった。鷲尾崎君が来なかったら怒らせていたかもしれない」 「悪い。初等部からいる連中はきっと常識だと思っている」 「オメガにベータの騎士(ナイト)がつくのが?」 「ああ。ここは聖騎士の中庭って呼ばれている」  鷲尾崎はふりかえり、庭を囲む壁をみあげた。つられて一有も彼の視線を追った。壁から突き出した怪物が四つの壁にそれぞれ一匹ずつ、中庭を見張っていた。 「学園とおなじ名前?」  一有が聞き返すと「ガーゴイルがいるだろう?」という。 「ガーゴイル?」 「あれ」 「あの怪物?」一有も手をのばし、指さした。 「ああ。この学園名の由来になっている聖騎士があいつを倒して、殺さないかわりに学園を守らせている――という話がある。この中庭でかわした約束は破ってはいけない。破るとガーゴイルが襲ってくる」 「へえ……」  一有は半信半疑で聞いていたが、鷲尾崎はからかっているわけではないらしい。怪物をみつめたまま真面目な顔で話を続けている。 「だからこの中庭はいろいろな告白や約束に使われるんだ。他の上級生もみんな、ここにいたときに声をかけてこなかったか?」 「あ、そういえば!」一有は声をあげた。 「そうか。それで……ベンチもあるし、人も少ないし、一息つけそうな場所だと思ったのに……」  鷲尾崎は一有をみおろし、ふっと笑った。 「人が少ないのはガーゴイルがみているからだ。やましいところのある人間は近寄らない」 「そんなに怖いのか、あれ?」 「この学園ではそういうことになってる。いや、ほんとうはただの飾りだろうけど、中等部のはじめ、最初に寮で寝た日は夜中にこの顔を思い出してすこし怖かった」 「ははは、そんなもんか」  なるほど、この中庭は学園のなかで特別な場所なのだ。一有はあらためて壁の怪物――ガーゴイルをみつめた。そんな話を聞くと、石に刻まれた丸い目が自分をじっと観察しているような気分になってくる。 「その、俺はキョウだ。鷲尾崎(わしおざき)(きょう)」  唐突に鷲尾崎がいった。一有は目をぱちくりさせた。名乗りをあげるとはサムライみたいなやつだ。 「キョウ?」 「叶えるって書く。よくカノウって読み間違えられるけど、キョウだから」 「あ、そう……俺は(さかい)一有(いちう)」 「イチウ?」 「漢数字の一に有るって書いて『いちう』。俺もよく読み間違えられる。カズアリとかイチアリとイチユウとか」 「イチウ」  鷲尾崎は確認するようにくりかえした。深い意味はない行為だろうに一有は妙にこそばゆくなり、会話の続きをさがした。 「鷲尾崎君が口出してくれたの、おなじ寮だから? オメガに間違われることはよくあるけど、助かった。あの先輩が広めてくれるといいな。俺がベータだって」 「もう大丈夫だ」  鷲尾崎がぼそりといった。ほんとうに? と一有は思った。入学式からまだ三日、入寮日から数えてもまだ四日しか経っていない。一有は教室の配置もろくに覚えておらず、寮と校舎を往復する道にやっと慣れたくらいで、クラスメイトの顔もろくにわからないのに。  ところがほんとうに大丈夫だった。一有をオメガに間違える生徒はこのあと一人もいなくなった。  かわりに一有は「オメガ並みに綺麗なベータ」と影で囁かれるようになったが、このことを当人が知るのはずっとあとの話である。

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