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第3章 歳月には雲雀の血が滲み 3.記憶の底の棘
「よくある話だが、過激なファンが何人かいるんだ」
藤野谷天藍はこともなげにいい、叶 と一有 は同時にうなずいた。芸能人やアーティストが行き過ぎたファンを阻止するために警護を依頼するのはありふれた話である。
「対策は何年も前からとっている。今回の件についても、実は脅迫状を送った人間の見当はついている。今は証拠を集めているところだ。早ければ当日までにそちらは動ける。作品の公開についても、会場全体のセキュリティや管理に万全を期すよう鷲尾崎家に依頼している」
叶が胸ポケットからタブレットを取り出す。
「鷲尾崎家の警備計画については私の方でも把握しています」
藤野谷天藍はうなずいて話をつづけた。
「問題は非公開情報だったにもかかわらず、流出元が特定できていないことだ。鷲尾崎か藤野谷か、身内が流出元である可能性は否定できない。当然その人間は情報の対価を得ている。こちらが危惧しているのはサエに対する逆恨みだ。不確定要素が残っている以上は近くに警備が欲しいが、身内が噛んでいる場合を考慮して、エスコートに見えないようにふるまってほしい」
叶が念を押すようにたずねる。
「この依頼について鷲尾崎で知るのは|平良《たいら》ひとりと聞いています。お間違いないですか?」
「ああ。そのようにお願いした」
「了解しました。当日のエスコートについては、鷲尾崎家の警備計画を検討して詳細を決定します。当日私は鷲尾崎家の都合で移動することもありますが、零さんの近くに常時いるのは境の担当になります。アウクトスのCP部門には十年以上在籍しているベテランです」
自分の名前が出たので一有は頭を下げた。
「よろしくお願いします。友人としてふるまう場合の服装の指示や、その他知っておくべきことについて、調査票に記入をお願いします」
「あ、境 さん。えっと――イチウさんか」
藤野谷零がまっすぐに一有の目をみつめた。
「ふりでも友達ということだから、言葉遣いは当日、崩してもらっていいですか。あ、今からでもいい。俺もそうするから、呼び方はそう――イチウ君、でいいかな? 歳は三波とおなじくらいだから、イチウ君は三波の知人で、俺と知りあったことにしよう」
「三波?」
一有は怪訝に思って問い返す。
「ごめんごめん、朋晴のこと。さっき紹介した美人。三波家は大家族だから、家族つながりの知りあいが突然あらわれてもおかしくない。これでいい?」
「もちろんです」
「パーティには朋晴も招待されているけど、出席できるかどうかが微妙なところだ。出席する場合は彼とも親しい様子でお願いします……」
突然零が遠い目つきになったので、一有は面食らった。
「えっと、何か?」
「ごめん、峡にもこの話をしてかまわないかな。気にするかもしれないから」
あの美貌のオメガの夫か。一有は苦笑した。
「かまいませんが、余計な心配じゃないですか。俺はベータですよ」
零は首をふった。「峡もベータなんだ」
意外なひとことに一有はまばたきしたが、表情を出さないようにしてうなずいた。たしかにアルファ、ベータ、オメガの三性が揃う大規模なパーティは人間関係の行き違いや衝突といった事件が起きがちな場所で、事前に誤解の種を摘んでおくに越したことはなかった。
これはデリケートな問題なのだ。夫がアルファなら他のアルファを牽制できるが、ベータの場合はそうはいかない。つがいになっていないオメガはどうしても、つがいのいないアルファを惹きつけてしまう。彼らはオメガを見るのである。
ベータとオメガのカップルには独特の困難がある。アルファのなかにいるとベータは往々にして透明人間になってしまう。三性がそろっている場合は、たとえつがいのいるアルファであってもオメガに目が行きやすいが、ベータには意識をとめない。オメガはオメガで、アルファだけでなくベータの注目を集めることもある。佐枝朋晴のようにとびぬけた容姿ならなおさらだ。
一有は名刺を指さした。
「気になることがあればすぐご連絡ください。当日の朝でも。対処します」
必要なことをすべて聞くと、藤野谷天藍は最初よりも穏やかな表情になった。
「前回の名族会で鷲尾崎さんに紹介してもらえて幸運だった。平良氏の次の当主がアウクトスの担当部門長というのはこちらとしても都合がよすぎる話だ。ありがたい」
叶は自分が着任したばかりだということはおくびにも出さなかった。
「次期当主については決定事項ではありませんよ。私は独身ですし」
「そうなのか?」
藤野谷天藍は意外そうな声を出し、一有は思わず叶をみたが、彼はあっさり「鷲尾崎には後継候補が複数いますから、自分は独身主義でもいいかと思いまして」と答えただけだ。天藍がおもしろがっているような、同情するような目つきになった。
「どこかのオメガと結婚しろとうるさいのが名族というものだ。平良氏が当主になった今はなおさらだろう」
「そうですね。平良にはときどき、藤野谷さんのように〈運命のつがい〉を待っているのかと笑われる」
「シングルの オメガが揃うところでは、主義を貫くのも大変だろうに」
叶は平然とした顔でいった。
「もう慣れました。プロの独身を標榜しているのも悪くない」
プロの独身だって?
思わず吹き出しそうになって、一有はあわてて無表情の仮面をかぶった。ふいに叶のコロンが鼻につき、シダーの香りを意識する。
「名族の相続権はいつも悩みの種になる。パーティみたいな場所は戦場だ。気をつけるんだな。健闘を祈るよ」
「まったくです。こんなことで戦うのもおかしなものだ」
天藍も叶も笑っていなかった。名族のアルファだけが知っている暗号でもあるのだろうか。何の話をしているのか理解できなかった一有は、ふとそんなことを思った。
昼食を食べていかないかという誘いを固辞し、叶とふたりで坂を下りてコインパーキングに戻った。秋の日差しは暖かく、車にはムッとした空気がこもっている。椅子に座ったとたんまた叶のコロンを嗅いだ。独身ね、と一有は頭の片隅で考えた。三十五歳にもなれば、里琴のようなオメガと結婚しているものだとばかり思っていたのに、違ったとは。
「アーティストと実業家。息のあった夫婦ですね」
会話の糸口として口に出したのは我ながら月並みな感想だったが、叶はシートベルトを締めながら「ああなるまでは大変だったと聞いてる。藤野谷零の家族関係は複雑でね。それに天藍と零は〈運命のつがい〉だ」といった。
「運命のつがい?」
「名族では有名な話なんだ。十年ちょっと前にはマスコミでも騒がれたから、調べればわかる」
それで藤野谷天藍にあんなことをいったのか。〈運命のつがい〉とは特別な相性のアルファとオメガのことをいう。小説やマンガ、映画ではよく題材にされているが、実在するとは知らなかった。
「じゃあ藤野谷零は藤野谷天藍の運命のオメガだったわけだ。ロマンチックだな」
一有はまたありきたりの感想をもらしたが、深く考えたわけでもなかった。自分が当事者にならないとわかっていれば何とでもいえるというだけの話だ。
ところが叶は真面目な声で「それはどうだか」といった。
「俺は怖い。運命に相性を決められて、離れられないなんて」
一有は気おくれして黙り、カーナビを起動した。
「部長、今日は直帰ですか? どこへでも送りますよ」
「イチウ」
突然名前を呼ばれ、心臓が大きく跳ねた。
「その言葉遣い、やめてくれないか。昔からの友達なのに」
カーナビの画面をみつめているにもかかわらず、叶が自分を見ているのがわかった。一有はしぶしぶ答えた。
「そっちは部長だけどな」
「イチウの方が先輩だ」
「弁護士先生のくせに」
「友人としてふるまうことになったじゃないか」
目的地を入れてください、とカーナビがいった。一有はタッチパネルを放棄し、ため息をついた。
「おまえがいきなり上司になるからだ」
叶が困ったように目尻を下げている。
「偶然なんだ」
「マジかよ」
嘘つけ、と返そうとした言葉を一有は飲みこむ。嘘だとしたらどうなんだ、という考えが頭に浮かんだからだ。自分がいるとわかっていたから、叶がアウクトスのCPへ来たとでも?
一有は気を取り直してカーナビに触れた。
「キョウ、どこまで送ればいい」
「家だ。前と同じ」
「は?」思わず呆れた声が出た。「おまえまだあそこに住んでんの? ひとりで?」
叶はばつの悪そうな表情になった。
「便利なんだ」
「たしかにな」
一有は車を発進させる。あの家ならナビは必要ない。一気に時が巻き戻されたような、おかしな気分だった。
次の月曜、一有は部長室に呼び出され、日曜の現場について詳細を打ち合わせた。藤野谷家でいった通り、叶は警備計画や出席予定者のリストを持っていた。ふたりで会場の図面を確認し、非常口や屋内動線を検討し、出席者のプロフィールを把握する。数百名分のリストを眺めていると、見覚えのある名前が目についた。
宇田川里琴 。また時が巻き戻されたようだ。
一有の手が止まったせいか、叶がこちらをのぞきこんだ。
「リコは歌会の関係者として招待されてる」
「おなじ名前なのか。結婚したって前に聞いたような」
「いまは斎川里琴 だよ。歌人としての名前は宇田川里琴のままで、公的な場所では旧姓で出る」
「なるほど」
「歌会仲間は何十人か出席するはずだ。平良が好きでね。この日までに五十だか百だか歌を詠んで披露するといっていた」
そういった叶の口調はかなりうんざりした調子で、一有は昔、やはり同じように短歌や歌会の話をきいたときのことを思い出した。
「鷲尾崎家には、当主がこういう場所で短歌を披露する伝統でもあるのか?」
「そんなものはない」
きっと面白がっているのがわかったにちがいない。叶がしぶい表情になったので、すこしからかいたくなって、一有はいった。
「そういえば、おまえも歌集を出したんだって?」
図面をめくっていた叶の手が急に止まった。
「どうしてイチウが知ってるんだ?」
「むかし神宮寺さんが教えてくれた」
叶の表情まで凍ったので、一有はそれ以上のことを口にしなかった。こうして口に出すまで一有自身もすっかり忘れていたのだが、実はその本は一有の手元にあるはずだった。アウクトスに就職して数年経ったころ――今から十年ほど前か、謹呈印を押した封筒が神宮寺から送られてきて、あけると「著者 鷲尾崎叶」と表紙に書かれた冊子が入っていたのだ。
それよりずっと前、里琴か叶に以前聞いた話では、個人で短歌をまとめた歌集はほとんど書店に流通せず、こうやって知りあいに贈られてくるもの、ということだった。神宮寺が気を利かせたのだろうか。一有はページをめくらずに封筒へ戻し、本棚の隅に押しこんだ。それっきり見ていないから、たぶん今もそこにあるだろう。
叶はあわただしく書類をかき集め、時計を見た。
「一度は出せといわれるんだ。名刺代わりに」
わざとらしい動作に一有はますます面白くなった。
「せっかく作った本じゃないか。どうして喜ばない?」
「苦手なんだよ」
叶は心底嫌そうに顔をしかめた。よほどの黒歴史なのか。以前もおなじ会話をしたような気がする。既視感を感じながら一有は声をあげて笑い、部長室を出た。
席に戻ると脩平が一有の椅子に座っていた。昼飯に誘いに来たらしい。研修漬けで大忙しだから暇で暇で腹が減ってしかたがない、と矛盾したことをいう。ふたりで社外の定食屋へ行った。脩平はどんぶり飯をかきこみ、味噌汁を音を立てて啜ると「土曜はどうだった」と訊ねてくる。
「日曜の現場に一緒に出る」
「どんな現場?」
「パーティ。エスコート。むくつけきおっさんだと困るとさ」
「それでいっちゃんの出番ってわけか。部長とは仲良くなったの?」
「なんで?」
「さっき笑いながら出てきただろ」
「よく見てるな。仲良くというか、昔に戻った感じだ」
「ふうん。いっちゃん美形だから気をつけないと」
「何を気をつけるんだ。あ、お茶のおかわりください」
伝票をひっくり返したとき、ふと何かがひっかかった。
「なあ、脩平。パーティで名族のアルファが「気をつける」って、なんだと思う?」
「何に?」
「それを聞いてる。クライアントと部長がそんな話をしていたんだ。部長が独身だって話のあとで、パーティが戦場だって……」
「ああ、それはきっと、オメガの話だ」
脩平はこともなげにいった。
「オメガからアルファを守る依頼もある。たまにいるんだ――既成事実を作って無理やりつがいになろうとするオメガ。世間は彼らの味方だし、名族は血統にこだわるから子供を産むと立場が強い」
「でも……オメガが発情期 に入ってないと、つがいにはなれないんだろう?」
「ヒートのオメガにナマでつっこんで、ラットしたアルファがうなじを噛んで、つがい成立だ。ヒートは抑制剤と誘発剤で多少は時期をコントロールできる――という話だね」
そのとたん一有の頭をよぎったのは里琴の顔だった。棘が記憶の底をチクチクとひっかく。
「そりゃ……アルファも大変だな。それで戦場」
「俺らベータには無縁な戦場だ」脩平は呑気な顔で茶を啜っている。
「まあ、俺としては、オメガに反撃ができたっていいと思うね。どうせ世界はアルファが牛耳ってるんだ。ハニートラップにひっかかるまえに自分の意思でつがいを決めないのが悪いのさ」
「そうかな?」
「そんなもんだろう。この世でいちばん選択肢が多いのはアルファなんだから」
選択肢か。またも棘が記憶の底をひっかいた。一有は黙ったまま伝票をつまみ、立ち上がった。
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