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第4章 いつか帆を歌う日が 1.仮面の下にあるもの
「いっちゃん、なにがあったの」
脩平がいった。一有 のデスクの正面に空いた椅子を引っ張って、どっかり座ってため息をつきながらのコメントである。
一有はキーボードを叩く手をとめ、反射的に部長室の方向へ視線をやり、叶 が一日外出だったことを思い出して正面に向き直った。
「何もないよ」
「バレバレだっつーの。今もあっち確認したじゃん」
勘づかれるのは当たり前だった。CP部門の現業班は他人のささいな行動から心理を読むのが半分仕事みたいなものだ。依頼人は正直に事情を喋っているとはかぎらないし、しぶしぶエスコートをつけている場合などは、護衛している当人に脱走されるのを防ぐためにも行動分析は欠かせない。
「日曜に部長と現場に行ったんだろ。なにがあった?」
「べつに。エスコートは普通に終わって、そのあとすこしアクシデントがあった。でも、問題になるようなことじゃない」
「じゃあなんであの人、俺を目の敵にしてんのさ」
「脩平がなんかやらかしたんだろ」
「うっそぉー」
脩平はわざとらしく語尾を跳ねあげた。
「何みえみえの嘘ついてんの。部長にはさあ、いっちゃんにちょっと絡んだだけで物騒な目つきでじろじろみられるわ、めんどくさい研修受けるよう勧められるわ、俺もうたいへんなのよ。現業班じゃトップクラスの木谷脩平さまに」
「更新が必要な資格があるくせに」一有はそっけなくいった。「俺だって知ってるぞ。伊達に裏方はやってない」
「そりゃそうだけど、俺がいっちゃんに絡んでるときだけうざいのよ。いっちゃんだって普通じゃないしさ。びくびくしてるでしょ。わざわざ別棟のトイレにいったりして」
「あれはたまたま」
「ほんとかねえ」
脩平は一有のデスクに頬杖をついた。急にひそひそ声になる。
「なあ、俺の判定を教えようか?」
「いらん」
「あのね、いっちゃんと部長さんは恋に落ちて、でもいっちゃんは意地を張って――ちょっと、痛い! 定規で叩くなんて! 暴力禁止!」
「脩平が馬鹿なことをいうからだ」
一有は定規を置き、必要もないのに書類の角をきっちりそろえた。モニターをのぞきながらいった。
「そんなもの、はじまるまえに終わってる」
「はあ?」
「十三年前に終わってるんだよ。ほら、さっさと行けよ。時間だろ?」
三十六にもなってトイレでセックスなんてするもんじゃないし、やけぼっくいどころか、白木のまま海に流されて溺れたような感情にいまさら名前を与えるべきじゃない。
ガーデンパーティの夜の出来事は、そのあとずっと一有に割り切れない感情を呼びおこすことになった。叶の行動がそれに拍車をかけた。
一有には納得がいかないのだが、どうも叶はあの日以来、一有をつねに自分の視界に入れておくと決めたらしい。勤務時間中こそ普通に接してくるものの、朝、会社の駐車場に車を入れるとすぐそこに叶がいるし、一有の帰社時間にあわせて叶も社を出て、かならず一有を食事に誘う。一有がそっけなく断っても、毎日欠かすことはない。
アルファの部門長がただの部下ひとりにそんな行動をとれば、もちろん人目につく。叶が名族の鷲尾崎家の一員で、しかも後継者と目されている人間だからなおさらである。
ほんの三日ほどのあいだに、社内のいたるところで鷲尾崎叶は境一有と何か深い関係があるということになってしまい、その関係が何であるかは実際のところ誰も知らないのに、多くの人間は一有を腫れ物に触るように扱いはじめた。
とはいえ、脩平をはじめとしたCP部門の中の連中は、他部門とちがって、叶が単にお気に入りの部下にコナをかけているだけではないと気づいていた。というわけで、CPの同僚は部外者とはちがう意味で、現在一有を腫れ物あつかいしている。
アウクトスのCP部門は長いあいだ、一有にとって居心地がよい場所だった。数年続いたセフレ――脩平のことだ――もいるし、すでに引退した神宮寺にもこの会社なら申し訳が立つような気がしていたから、一有はこの先もずっとここに骨を埋めるつもりでいた。しかしその決意はいまや揺らぎつつある。
きっと叶の行動は計算づくだろう。一有が音をあげるのを待っているのだ。しかし何のために? 一有がアウクトスを離れるように仕向けたいのか? それとも?
叶が何を考えているのか、一有にはわからなかった。好きだといわれた。それはわかった。それでどうする? 脩平みたいに時々セックスする関係になるのか?
脩平がこぼしたような叶の態度にも一有はたしかに気づいていた。叶はたぶん、一有と脩平が時々セックスするだけの間柄だとしても、許容するつもりはないのだ。
でも、そんな風に俺がおまえに独占される理由はない。夫婦でもないのに。恋人ですらない。俺たちはつきあったことなんて一度もない。ある時期、たまたま、一緒にいただけだ。聖騎士学園の寮で恋人ごっこをしていたクラスメイトを知らないわけじゃない。でも俺たちはそうじゃなかった。大学に行った後も、おなじマンションに住んでいても、そんなことはなかった。あの時だってそうだ。
あの時と今回、たまたま二回セックスしたからって、何も変わりはしない。だいたい二回とも叶はオメガに発情 していたのだ。
そのことを思い出すにつけ、一有の中にはまたふつふつと怒りがたぎるようになった。長いあいだ忘れていた怒りだった。
たぶんこの怒りはさっさと叶にぶつけるべきものだった。そしてアウクトスを辞めて、どこか遠くへ行けばよかったのだ。
ところがひょんなきっかけで、ずっと押し殺していたこの感情を一有が爆発させた相手は叶ではなかった。今は斎川姓になった、宇田川里琴に対してだった。
すこし話がしたい、という連絡は里琴の方から来た。アウクトスの代表番号からCP部門へ電話が回されてきて、勤務中に話したくなかった一有は仕方なく私用のアドレスを教えた。ビデオ通話のリクエストが来たのはその晩のことで、一有はこの日も叶の誘いを断って帰ったところだった。
「どうして連絡なんかよこしたんですか」
単刀直入にそうたずねると、里琴はあっさり『キョウがイチウ君のことを大っぴらにしたから』と答えた。
『鷲尾崎の跡取りに興味を持ってる知りあいが僕に探りを入れにきたんだ。僕とイチウ君がパーティで話したところはいろんな人が見てたからね。それで、イチウ君が元気か知りたくなって……あの時はあまり話もできなかったし』
一有は里琴の説明の後半を聞いていなかった。
「キョウが大っぴらにしたって、何ですか?」
『キョウはさ、もう我慢するつもりはないってことだよ』
「何を」
一有はまだ意味がわからなかった。問い返すとモニターの中で里琴は驚いた表情になった。
『ねえ、いわなきゃわかんないの?』
「だから何を」
『キョウはイチウ君が好きで好きでたまらなくて、ずっとそばにいてほしいんだ。イチウ君が誰を好きになろうが、結婚しようが、アルファの男が趣味でないとしても。僕はずっと知っていたよ。きみらが大学生の時から』
一有は里琴と同じくらい呆れた表情で画面をみていたにちがいない。
『イチウ君?』
里琴が怪訝な声で呼んでいた。
「……俺は知りませんよ。そんなこと」
『キョウはいわなかったの?』
「好きだとは……いわれました。このまえ」
『それだけ?』
「それでどうするのかと聞いたんです。それだけです」
『それだけって、それで終わりじゃないでしょう』
「それだけですよ」
一有は苛々しながらくりかえした。
「俺はキョウが何を考えてるのかわからない。俺たちはたしかに……何年も一緒にいたけど、つきあったことなんか一度もない。それなのにいまになってアウクトスで再会して、また前と同じことが起きる。あなたは前にいいましたよね、キョウが自分で意識せずに、俺の本来進むべき道を遠ざけているかもしれないって。本当にそうなのかもしれない。ついこの前、あいつに十何年かぶりに会うまでは、俺はそれなりに楽しくやってたんです。それがまた……また……」
『ちょっと待って。どうしてそんなことになってるの?』
「どうして?」
一有は思わず画面に向かって怒鳴った。
「リコさん。あなたがそれをいうんですか? 俺はあいつがどこかのオメガのヒートから逃げてきた後始末のためにいるんじゃない。あいつがいくら……名族だの鷲尾崎だの、俺の知ったことじゃない事情があっても、いくら俺が抱かれたいベータだって、アルファとオメガの生理現象なんか俺には関係ないし、発情 したあいつに身代わりで抱かれるのなんてごめんです」
「イチウ君、それは……」
「いくら俺がそれを望んでいたって――ごめんですよ……」
言葉はしりすぼみになり、一有はいうべきでないことを口にしてしまったのに遅まきながら気がついた。しかも、こともあろうに里琴に向かって。
『イチウ君、待って、消さないで』
里琴が胸の前で両手をあわせていた。一有はぎりぎりで通話を切るのを思いとどまった。
『謝られても嫌だろうけど、それでも、むかしキョウのマンションで僕がやったことについては、謝るよ。ごめんなさい。実をいうと僕はあのときまで本気にしていなかったんだ。キョウがきみをどう思っているか。きみが……どう思っているのかも。なんというか……濃い友情なんだと思ってた。僕はあのころ子供を産みたい一心で、キョウのこともみえてなかったし、単純にひどい人間だった。ヒートの最中に叩きだされてやっとわかった』
里琴の表情は真剣で、たぶん嘘ではないのだろう。嘘であってもどうでもよかった。何にせよ、いまさら聞きたい話ではなかった。
「あなたはずるいです。リコさん。俺は……あなたが嫌いです」
「知ってる。ごめん。でも僕は僕以外にはなれない。僕は自分をごまかせない。僕はずるい人間だからはっきりいうよ。イチウ君は自分がベータなのにこだわってるけど、今のキョウには関係ないことなんだ。なんでかっていうと、彼はもう正直になったからだよ。だからきみもきみにならなきゃいけない。そのきれいな顔の下にあるものを、キョウに見せるんだ」
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