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第5章 雉は忘れられないために啼く 1.花明かり
ベッドの上では、わざとらしい声など決してあげるものかと思う。
でもたいていの場合――いや毎回か? いつのまにかそんなことは一有の頭からきれいさっぱり消えてしまう。裸でシーツに横たわり、叶にみつめられながら両足をひらき、のしかかる重みを感じる。
冷静なセックスなど不可能だ。息を吐き、押し入ってくる叶の剛直を体で呑みこみ、皮膚の熱を感じているのが自分と叶、どちらの手なのか唇なのかわからなくなるころには、自分の声などどうでもよくなる。叶の息遣い、揺さぶられながらささやかれる自分の名前、それだけが一有の耳に届く。
叶が果て、快楽の余韻がゆっくりと去って、心地よい疲労が全身を浸す。叶はまだ一有の肩に腕を回している。終わってもしばらくベッドから出るのを許さないのは、いつものことだ。
一有がこれまで関係したベータの男たちとはこんなことはなかった。相手が望まなかったのか、一有が拒絶していたのか。どちらでもありうるが、そんなことはどうでもいい。要するに叶は他の誰ともちがうということだ。
最初に出会ってから二十年。こんな週末を迎えるようになって半年とすこし経った――四月。最近の一有はやっと、叶とちょうどいい距離感を保てるようになったと感じていた。
大きな理由は四月になって、叶が個人警護 部門よりひとつ上の階層である警備保安局の長に昇進したためだ。これは鷲尾崎叶がアウクトス・コーポレーションに入社した時点で予定されていた昇進ではないか、というのがもっぱらの噂だった。鷲尾崎家は警察と法曹に縁の多い名族であり、叶は現当主である鷲尾崎平良の従弟で、昔から親しい関係にある。
同時に組織変更も行われ、オフィスの配置も変わった。今の一有は一時期のように、オフィスにいるあいだじゅう叶の視線を意識するようなことはない。しかし平日は毎晩叶から電話が入るし、週末はおたがいに仕事がないかぎり、叶のマンションで一日か二日過ごす。
ふたりだけでいるとき、仕事の話はめったにしない。音響もばっちりのホームシアターで映画やドラマをみたり、ふとみたニュースをきっかけに、学生時代のように実社会とは離れた議論で盛り上がったり。あるいは最初からセックスざんまいということもある。
ふたりだけでいるときは、叶が会社の上司だとか、名族鷲尾崎家の一員だとか、そんなことも気にしなくていい。独立した男ふたりの関係は、世間でいう「一般的な家庭」にあまり縁のない一有にとって、居心地のいいものだった。
もっとも今夜はイレギュラーだった。一有がここに来たとき先客がいたからだ。
現業組の後処理に手間取って残業になり、叶のマンションについたのは夜九時を回っていた。エントランスの前には桜の木が一本だけ植えてあり、ちょうど満開になっている。夜闇に薄紅の花びらがぼうっと浮かび上がっていた。
居候していた学生時代にもこの桜の木はあったはずで、ということは何度も見ていておかしくない。ところが一有の頭からは桜の記憶はきれいさっぱり抜け落ちている。もらった鍵で玄関に入ると、叶の革靴に並んで女物の靴があった。
その瞬間むかしの記憶が頭をよぎり、一瞬しまったと思った。しかし叶はすぐ玄関に出てきた。
「悪い、急に来客があって」
「一度出直そうか?」
一有は気軽にいったのだが、叶は眉をひそめ「逆だ。早く上がってくれ」という。リビングにはみるからに金がかかった服装のベータ女性がいた。年齢は五十代というところだろうか。
「叶さんのお友達?」
「イチウ、親戚の水瀬さんだ。彼は昔からの友人の境君」
女性は一有の名前を聞くなりハッと目をみひらいた。
「あら! あなたが噂の親友君ね。そうでしょう?」
噂の親友? いったい何事かと思ったが、叶は一有が口をひらく隙を与えない勢いでいった。
「今日は彼と出かけるので、すみませんがこれで」
「忙しいのはお互いさまよ。でも約束があるなら仕方ないわね。車を呼ぶわ」
水瀬はハンドバックから携帯電話を取り出した。バッグのすぐそばに純白の大判封筒が置いてあった。水瀬はハンドバックだけを腕にかけたが、叶は封筒にちらりと目をやっていった。
「そちらもお持ち帰りください」
「叶さんも、中を確かめるくらいはしてもいいんじゃないかしら? さっき話したように、今はピアノ留学中だけど、来月一時帰国するのよ」
これだけで一有にもぴんときた。封筒の中身は見合い写真か。
叶の眉がぴくっと動いた。しかし返事は落ちついたものだ。
「俺は三十代後半ですよ。学生にそんな話をするなんて、かわいそうでしょう」
「どうして? この子はオメガだもの、叶さんみたいなアルファを年齢くらいで嫌がるわけないわ」
「とにかく今日はお持ち帰りください。従兄には以前から話していますが、家庭を持つ計画はありません」
「そうかしら」
叶は黙って水瀬の顔をみつめた。強制力のある沈黙が一瞬おちる。水瀬は小さく首を横に振ったが、結局封筒を取った。
「預かっておくだけですよ。この子だけじゃないし」
捨て台詞のようにそういってリビングをあとにした水瀬に、一有は軽く会釈しただけだ。叶は玄関まで水瀬を送り、すぐに戻ってきた。
「おまえも大変だな」
「平良が当主になって、うるさいのが増えた」
親しい従兄が当主になったためか、次代に叶を推す可能性が取り沙汰されている――という話は前にも聞いた。叶とつるんでいるかぎり、一有は今日と同じような場面をこれから何度も見るのかもしれなかった。名族のアルファが独身でいれば避けようのないことだ。
もしも叶が根負けしたら? あるいは〈運命のオメガ〉があらわれたら?
――いったい俺はどうするだろう?
と、ぼんやり考えられたのもそこまでだった。叶が一有の手をひっぱり、ソファに押し倒したからだ。
「おい、これから出かけるっていってなかったか?」
「さあ?」
叶はとぼけた顔でいう。一有はクスクス笑ってのしかかる男の胸を押した。じゃれあいが本気のキスになるまで、たいして時間はかからない。
叶とのセックスはいつも長くなる。ソファからシャワーへ、それからベッドに行って、今は夜もとっくに更けてしまった。
叶の腕はまだ一有をがっちり抱えこんでいる。離したら飛んでいってしまうとでも思っているようだ。ふと笑いがこみあげてくる。
キョウ、俺はとりあえず、どこにも行くつもりはないんだが。
「イチウ」
「ん?」
「ゴールデンウィークの勤務はどうなってる?」
一有は叶の手をはずし、寝返りをうった。毛布をあごの上にひっぱりあげる。
「ゴールデンウイークといっても、CP は繁忙期だぜ。俺はたしか土曜日……五月五日だけは一日休みだ。六日は夜からヘルプがあって――」
「五日と、六日の昼までつきあってくれないか。鷲尾崎の別荘村で平良が主宰する集まりがあるんだ」
「別荘村? そんなの持っているのか。さすがだな」
一有は素朴に感心する。叶が告げたのは首都圏から車で二時間半ほどの別荘地だった。近年は観光地化しているが、古くから上流階級が集まることで有名な土地である。
「集まりって、何かするのか?」
「ああ。音楽会とか吟行とか……」
「ギンコー?」
叶は気が進まない口調で説明した。
「歌を詠むために歩き回る会。平良はこの手の催し物が大好きなんだ」
「鷲尾崎家の行事なんだろ? 俺が行ってもいいのか?」
「鷲尾崎のってわけじゃない。どっちかといえば趣味の集まりだ。親戚のほかに、そのあたりの別荘族が大勢やってくる。それに平良は一有に会いたがってる。俺はもちろん……助かる」
「五日はいいけど、俺は六日の午後に発つことになるぜ」
「かまわない。俺は最後までいるが……」
「わかった。いいよ」
一有が毛布の下で向きを変えると、叶も一有の方を向いた。
「そういえばキョウ、名族で思い出したけど、藤野谷零から招待をもらってる」
「藤野谷零が?」
「ああ。五月末ごろだったか、祖父の米寿祝いでパーティをするんだと」
「米寿?」
叶は何かを思い出そうとするようにまばたきした。
「ああ……そうだった。佐井銀星か。お元気なのだな」
「有名人なのか?」
「名族の中では。数年前に亡くなった鷲尾崎の先代とも親しかった。平良にも招待状が行ってるかもしれない」
「そうか」
個人警護の仕事ならともかく、ただの|人《ベータ》でしかない一有にとって、名族のパーティに招待されるなど、一年前なら考えもしなかっただろう。ところが藤野谷零の親戚が一有の両親と知り合いなのが判明してから、最近はときおりこんな機会が訪れる。藤野谷零はアーティストの佐枝零でもあり、展覧会の招待券を送ってくれることもあった。
ひとの縁とはよくわからないものだと一有は最近思うようになっている。意外なところでつながって、思いもしないところで切れる。すっかり切れたと思っていたのにまたつながることもある――叶と自分のように。
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