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9.その針が示すもの

 初めて彼の横顔を見た瞬間に、不思議な既視感を覚えた。  灰色の長い髪が雨に濡れて頬に張り付いて、地面を睨みつけるアメジストの瞳は鋭く、猛禽類のようだった。  その時から、もしかしたら、という気持ちはあったかもしれない。  確信に変わったのは、彼の手を借りて少女の姿をしたヴァンパイアを倒した瞬間だった。  剣だこでゴツゴツした手から、伝わってきたのだ。少女に対する慈悲と、彼の温もりが。  彼こそが、運命だと。神に誓って、間違いなく。その瞬間、確信した。  口を開けば品の悪い言葉ばかり吐くけれど、その低くて甘い声で、惜しみなく知識を与えてくれた。  冷たい態度を装っているけれど、気遣ってくれているのは伝わってくる。  いつも不機嫌そうに煙草を燻らせているけれど、目は優しい。  魂だけではない。そんな彼の人柄に惹かれた。  竜人は、物心ついた時から知っている。自分の魂は一つでは不完全で、片割れがこの地上のどこかにいると。八百年近く続く人生は、その片割れに出会うためにあるのだと。  魂が惹き合うから、出会えばお互いにそれが分かる。その瞬間から、二人は番。言葉も約束も必要ない。  だから、マティアス・ロルフ・リンドヴルムもそのつもりでいた。  出会って二日目から、ずっと。  毎朝起こしに行き、ずっと側にいた。それだけで幸せだったし、ヴァンパイアハンターとして成長できる喜びに満ちていた。  甘い雰囲気にはならないが、それは出会ったばかりだし、階級や年齢の差があるから気を遣いあっているせいだと。そんな風に気楽に考えていたのだ。  まさか相手が何も理解していないとは思いもよらずに。 「セスさん?……ああ、夜中に帰ってきて、玄関の前でぼけっとしていいましたよ。様子がおかしかったね、酔っていたのか……服が汚れていたし。着替えの用意をするから、早く入ってと言って、ようやく中に入ってくれて……あの人があんなになってるのは初めて見たましたね。なにかあったんですか?」  宿の女将が心配そうに言うの聞いて、マティアスは胃がひっくり返りそうになった。  いつもの食堂で揉めた後、一人にしたことを後悔した。  セスは、はるかに年下、たった四十歳ほど。マティアスの六分の一しか生きていない。それでも、彼の方がハンターとしてはるかに優秀で、経験も豊富だ。  さらに、マティアス自身が竜人の中ではまだ成人したばかりの若輩者であることもあり、つい成熟した大人の風格があるセスを、年上の人のように思って、そう対応してしまう。  だから、彼が一人になりたいと望んだ時、それを阻むことはできなかった。こんなにも狼狽えている貴方を一人にするのは心配だと、そう言うことができなかった。彼の意思を尊重すべきと考えてしまったのだ。  しかし、無理にでも引き止めて、抱きしめてあげるのが正解だったのだろうか。  恋愛なんて当然初めてで、しかも相手は人間だ。マティアスには、何が正しくて何が間違っているのか分からなかった。 「それで、セスさんは今も部屋に?」 「いいえ。着替えた後すぐに、なんだかフラフラしながら出かけて行きましたけれど」 「……そうですか。探してみます」  正体を失うほど酔うなんて。怪我でもしていないか、何かトラブルに巻き込まれていないか、恐ろしい考えが次々と頭に浮かんで、マティアスは不安に尻尾を揺らした。  とりあえず、セスの行きそうなところを訪ねてみようと宿を出る。  今日は天気が良かった。快晴の昼間や、雨の日には、ヴァンパイアの被害はまず出ない。  晴れの日には、ヴァンパイアは薄暗い室内に篭り、光に怯えて震えるのだと、セスがそう言っていた。  ヴァンパイアハンターが、逃げた恋人を探しまわるには、うってつけの日だ。  いつもの食堂を覗いてみるが、残念ながらセスは居なかった。今日はニナは休んでいるらしく、珍しく店主が自ら給仕をしている。  昨晩セスが出て行った後、ニナは貧血を起こして倒れてしまった。店主が介抱し店の二階にあるという彼女の部屋へ運んでいたが、その後から彼女の姿を見ていない。まだ調子が優れないのだろうか。 「お、竜人様。珍しいな、今日は一人ですか」  いつもセスとマティアスが座る二人がけの席には、見慣れた笑顔があった。自警団員のベイリーだ。  ベイリーがちょいちょいと手招きをするので、マティアスも席に着く。  毎朝、ここでセスが朝ごはんを食べている姿を見るのが幸せだった。お腹を減らしてはいないかと、心配になってしまう。 「ヴィクトリノ大尉に用事があって来たんですけどなぁ。なあ、竜人様はヴィクトリノ大尉がどこに行ったか知りませんか?」 「いえ、私も探しているのです……」 「そうですか……毎日ヴィクトリノ大尉と一緒だから、なんだか竜人様が一人でいるのを見るのとへんな感じがしますねぇ。ハハハ」  マティアス自身も、ひどい喪失感を覚えていた。この感覚は、いつもは隣にいるはずの人がいない、それだけだろうか。  どうにも、嫌な予感がする。 「しかし、竜人様も知らないとなると、どこに行ったのかなぁヴィクトリノ大尉は」  ベイリーが薄い頭を摩りながら困ったように言うと、離れた席に座っていた顔見知りの常連客がケタケタと甲高い笑い声を上げた。 「ここでデケェ声で痴話喧嘩しちまったんだ、あのプライド高そうなやつが、飯食いにノコノコやってこれねーだろうな」 「は?痴話喧嘩?」  不思議そうに目を丸くするベイリーに、マティアスは頷いて見せた。  たしかに。セスの行きつけの店で、あんな話をするべきではなかった。だが、マティアスも焦ってしまっていて、冷静ではなかったのだ。 「誰とだ?あのヴィクトリノ大尉が……」 「私ですが……」 「へ!?ひぇ、ひぇええ!?」  素っ頓狂な声をあげて、ベイリーは椅子に座ったままビョンと体を跳ねさせていた。膝が机に当たったのか、木皿が吹っ飛びそうになり、マティアスは慌てて皿を押さえる。  赤ら顔をより赤くして、ベイリーはふがふがと鼻息を荒くしている。 「あのヴィクトリノ大尉を落としたのか!?」 「落とした?」 「いやー、あの大尉がねぇー。ほら、あの人って男前でしょ?女からも……男からもしょっちゅう粉かけられてたんですよ」  そんな話は知らなかった。  ちくりと、胸が痛くなる。セスが自分以外の誰かと肌を重ねたことがあるということが、どうしても耐えられない。  総排出腔(おしりのあな)に男性器を受け入れたのはマティアスが初めてだと言っていたが、褥の中での妖艶なセスを、あの熱く滑らかな肌を、マティアスより先に知った人がいるのだ。 「でもなぁ、女は適当にあしらっちまうし。男は……ありゃ、気付いてなかったな。眼中にないって感じで。あの人変なところで鈍感だから。それが、ねぇ。竜人様にかあ……まあ、納得はしちまうなあ」 「当然です。私達は魂の片割れですから。むしろ、それなのに……どうして、逃げてしまわれたのか」 「へ?魂?逃げる?」 「私達竜人は、一生涯に一人、魂の片割れと恋をします。運命で決められた番です。私の運命はセスさんでした。出会ってすぐ気付いた私は、ずっと、そのつもりで……でも、セスさんは重い、そんなことは知らないと、逃げて行ってしまったのです」 「重っ!そりゃ、逃げますわ……」  さっきの常連客や他の客が、聞き耳を立てていたのかまた笑い声を上げた。「大尉もおかしな奴に引っかかったもんだ」「ヴァンパイアの相手ばっかで、溜まってたんじゃねぇのか?」「だからって竜人にケツ貸すなんて意外とバカだったんだな」など、聞くに耐えない言葉まで耳に届く。  すると、ベイリーが急にバン!と机を叩いた。人の良さそうな顔が、珍しく憤怒に染まっている。 「黙ってろ!人のことバカにできるのか昼間から酔っ払ってるロクデナシどもが!この街をずっと守ってくれてる大尉をバカにできるだけのことをお前らはしているのか!」  あまりの剣幕に、マティアスも気圧されてつい居住まいを正す。  シンとしてしまった店内には、ベイリーの鼻息だけがこだましていた。 「いや、失敬……オレはね、大尉を尊敬しとるんですよ……あの人には、幸せになってほしいんです」 「はい。絶対幸せにします」 「あー……いや、逃げられたんでしょ?」 「そうですが。あの人が理解さえしてくだされば、すぐにでも式を挙げたいと思っています」 「え、ええぇ……そ、そうですか……そりゃ、ぜひ式には呼んでくださいね……」  目を白黒させるベイリーを見て、マティアスは確信していた。  この人は、信頼の置ける人物だ。この街に来た時から、ずっと良い人だとは思っていたが、彼は本当にセスを慕ってくれているようだ。  自分とのことで、セスの肩身が狭くなってしまったのかもしれない。異種族と(つが)うのはやはり異端で、奇異の目で見られてしまうことなのだろう。人間という種は、特に異分子を嫌う。  だから、ベイリーのような人がセスの近くに居てくれて良かったと思う。理解者の存在というのは、得難いものなのだ。マティアスはそれを、よく知っていた。 「ありがとうございます、ベイリーさん。急ぎますので、これで……セスさんを見つけたら、貴方が探していたことも伝えておきますね」 「あ、ああ。オレも、先に大尉に会ったらそうするよ」  ひらひら手を振るベイリーに見送られ、マティアスは店を出た。  セスの住んでいる宿屋と『シマリスの台所』以外で、セスが足を運びそうな場所といえば、マティアスはもう一箇所しか思いつかない。  町外れにある、国軍の駐屯地だ。この街に治安維持のために派遣されている二個中隊は、ここを拠点に活動している。  一応、セスやマティアスもここの所属になっているが、形式上でしかない。ヴァンパイアハンターは、普通の軍人とは違うからだ。  十字の刺繍を授かれば、ヴァンパイアと戦う為だけに生きる。通常の軍務とは、無縁だ。  お給料を受け取る時や、必要な消耗品を支給してもらう時くらいにしか、駐屯地に顔を出すことはない。  マティアスも、この街に来た当日、赴任の挨拶のために訪れたきりだ。セスも用が無いからと、この二週間一度も駐屯地には行っていない。  それでも僅かな期待を胸に、マティアスは町外れを目指した。  鉄柵でぐるりと敷地を囲い、見張りの兵が数人、あたりを見回っている。物々しい雰囲気だ。最近、野盗がこの街の近くの村を荒らし回っているらしく、余計にピリピリしていた。  久しぶりに駐屯地へと足を踏み入れた途端。マティアスは『ここに居る』と直感した。それが竜人の本能的なものなのか、それとも違う何かなのかはわからない。  ただ、マティアスには不思議と、まるで残り香を嗅ぐかのように気配を感じられたのだ。 「え!?りゅ、竜人様!?」  見張りをしている新兵が、泡を食いながらマティアスに向かって敬礼をした。マティアスも敬礼を返す。  彼だけではない。  兵舎に入ると、そこに居る全員が奇異の目でこちらを見てきた。  なぜ、こんなところに竜人が。  慣れない場所に来ると、いつもこんな目で見られる。 (仕方ない。私が選んだことだ……)  いつも、そう自分を納得させてきた。  マティアスは、人間の中では常に異分子だ。  竜人社会から人間社会へ渡って来た時からずっと異物として扱われ、向けられるのは畏敬や畏怖、奇異や侮蔑ばかり。マティアス・ロルフ・リンドヴルムという一人の男としてではなく、ツノと緑色のウロコを持つ竜人として認識されてしまう。  首都で一年間訓練を付けてくれた教官すら、どこかよそよそしかった。  だがセスだけは、なんの遠慮もなく自然体で居てくれた。 「すみません。ヴィクトリノ大尉が、こちらにいらっしゃるはずなのですが」  そう声をかけてみれば、奥の部屋から若い女性の事務員がひょっこり顔を出す。そして、マティアスを見て「ひっ、トカゲ」とあげかけた悲鳴を飲み込んだ。できるだけ見たくないのか薄目を開けて、物凄く緊張した面持ちで近づいてくる。  若い人間の女性はトカゲが苦手な人が多く、そういった人達は竜人にも過剰な警戒をする。理解はしていても、毎回傷ついてしまう。噛みつかれるとでも思うのだろうか。  トカゲは可愛いと思うし、そもそも竜人はトカゲじゃないのだけれど。 「しょ、そのっ……た、大尉は退職届を出していかれました……リンドヴルム少尉に、仕事は引き継いであるから、自分は街を出ると」 「なんですって?」  退職届?  なぜ、退職届なんて。軍を、ヴァンパイアハンターを辞めて、どうしようというのか。  ヴァンパイアハンターでなくなったセスのことなど、想像できなかった。  そんなにも、嫌なのだろうか。街を捨てて逃げ出すほど、自分との運命を受け入れることが、嫌なのだろうか。未熟な自分に、この街を守ることなど難しいとわかっているはずなのに。それほどなりふり構わず逃げるほど、嫌いなのだろうか。  マティアスは、涙が出そうになった。胸が痛くて、息までできなくなりそうだ。  本来なら、竜人の恋に失恋はない。想いが通じないなんてことはあり得ない。だからこそ、マティアスはこの状況が理解し難く、耐えがたかった。 「そ、……う、ですか、私は……私は、まだ未熟です。街を出るなら、そう……私の方です……退職届は、軍本部にはまだ送らず、保留にしておいていただけますか?」 「でも、ヴィクトリノ大尉が」 「説得します。この街に必要なのは、私ではありません。セスさんです。彼は、私が嫌いだからここを出て行こうとしている……だから、私が、ここを出て行きます。それで、いいはずです」  このままセスの仕事を奪うことも、まだ未熟な自分のせいで街が危険に晒されることも。許されることではない。  どれほど耐え難くとも。こうなってしまっては、受け入れるしかなさそうだった。  人間であるセスには、この想いは伝わらないのだ。  堪えきれず、ポロリと涙が落ちてしまった。  慌てて、事務員の女性はハンカチを取り出して手渡してくれる。礼を言って、素直に借り受けた。 「竜人様も、泣くんですね」  ぽつりと、彼女は呟いた。  素直にそう感じ、口から出てしまったのだろう。  苦笑しながら、マティアスはハンカチで涙を拭った。  泣くに決まってる。二百五十三年生きてきて、初めての失恋だ。たった一度きりしかない恋が、実らずに枯れた。もう、マティアスの人生に、幸福は訪れない。それと引き換えに、この街とセスの意志を守るのだ。  この街を去る、という方法で。 「……セスさんが、今どこに居るか知っていますか?敷地内には居ると思うのですが」  事務員は首を振るが、近くにいた数人の軍人に声をかけてくれた。  先程までは、マティアスを奇異の目で見ていた彼らも、今は少し同情的だ。 「なんか、様子は変でしたよね大尉」 「ああー、真夜中に濡れた髪でフラフラやってきてさ。自分で門開けれるはずなのに見張りに『入れてくれ』とかわざわざ声をかけてたし」 「なんだそりゃ。酔っ払ってたのか?」 「そういやさっき、兵舎の今は使われてない区域に向かって歩いてってたな」  うちの一人から、ようやく手がかりになりそうな証言が得られた。マティアスは尻尾を立てて、彼に詰め寄る。 「使われていないとは?どこのことです?」 「ああ、ここの兵舎は結構建て増し建て増しでおっきくしたんだけどさ。南側の一角が最初からある建屋で、そこだけ老朽化が激しくて……予算が下りないから直せないまま、物置になってるんだよ」  なぜそんな場所に。自分から逃げるためだろうかと、マティアスは自己嫌悪に陥りかけたが、ふと違和感を覚えた。  いや。それならば、さっさと街を出て行くだろう。彼は宿住まいだ。持ち物も少なかった。荷物をまとめて旅立つのは、簡単のはず。  窓の外を見た。  青い空と、黄色く眩しい太陽が見える。雲一つない。なんと、明るい空。光に満ちた街。  こんな日は、そう。  ヴァンパイアは薄暗い室内に篭り、光に怯えて震えるのだ。  ぞわりと、マティアスの背を寒気が走り抜ける。  尻尾が縦に揺れ床を叩いた。事務員の女性が、悲鳴を上げて飛び上がる。  脳に、電力が流されたようだ。頭がビリビリと痺れて、指先まで震えている。  まさか。そんな。  硬くこわばる手を無理矢理開き、マティアスは懐から懐中時計を取り出した。そして、それを開いて……膝から崩れ落ちそうになる。  ヴァンパイアを示す針は、たしかに……兵舎の南側の方を指していた。

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