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8.啜る
腹の調子が悪い。
明け方に腹痛で目を覚まし、リンドヴルムを起こさないようにベッドを抜け出した。ウロコに守られた肩に、そっと毛布をかけてやる。
部屋着らしい楽そうな貫頭衣があったので、それを借りて部屋を出た。
不調の原因ははっきりしていた。ヨロヨロと便所に向かうと、さんざん中に出されたものをすべて掻き出す。
さんざん擦られて熱を持った尻穴を指で開けば、真っ白でドロドロした精液が大量に溢れてきた。その量と濃さに身震いする。
夜中まで何度も何度も、リンドヴルムが満足するまで腹の中に出させてやった後、折り重なったまま落ちるように寝てしまった。
そのせいか、腹も尻も腰も、どこもかしこも痛い。
ずっと足を開いて腰を打ち付けられていたからか。特に股関節が痛くて、全く力が入らない。まだ尻に何か挟まっていて、股がしっかり閉じないような。そんな違和感があった。
無駄に広くて綺麗な便所から出ると、ちょうど衣装部屋で侍女がセスの軍服にアイロンをかけているのが見えた。
「おい」
「あ……はい。いかがされましたか?」
「乾いてるなら、それ返してくれ」
「まだアイロンが途中でございます」
「かまわねぇ。早くしろ」
半ば強引に軍服を奪い返すと、貫頭衣の上から上着を羽織り、下は畳んで脇に抱えた。
残念ながら、煙草は湿気ってしまって、吸えそうにない。
宿に帰れば、買い置きがあるはずだ。
玄関に向かおうとすると、侍女が慌ててついてきた。
「あの、どこへ」
「は?帰るに決まってるだろ。リンドヴルムに伝えておけ、部屋で寝なおすから、今日は起こしに来るなって」
「お待ちください。ご主人様がお目覚めになるまでは」
起きたリンドヴルムと、どんな話をしろと言うのか。
事後の睦言なんか、こそばゆい。さっさと日常に戻ってしまいたかった。
尻まで貸してしまったのを、正直今更後悔している。なぜ、その気になってしまったのだろうか。昨日の自分は祭りに浮かれて、正気ではなかったのではないかとすら思う。
侍女の制止を振り切り玄関を飛び出すと、小雨が降る中を歩いて宿へ向かった。
あの安宿の、硬く小さなベッドが恋しい。
一歩足を踏み出すごとにじくじくと尻が痛み、股関節がガクガクする。
「……クソ、なにやってんだか」
完全に、抱き潰されてしまった。
ほんの火遊びのつもりが、こんな大火傷を負ってしまう事になるとは。
リンドヴルムの噛み跡がついた首をさすり、セスはため息を吐く。
もう二度と、リンドヴルムとはセックスしないぞと、心に誓いながら重い体を引きずって歩き続けた。
※※※※※
侍女は伝言を伝えてくれたのか。
リンドヴルムは起こしには来ず、疲労困憊のセスは夕方まで寝入ってしまっていた。
ようやく目を覚まし、重い瞼をこじ開ける。窓から差し込む光の赤さに驚いて、時計を見て更にげんなりとした気分になった。
寝乱れた髪を掬い上げ、適当に頭上で結ぶ。そうして鏡を見に行けば、首と肩にはまだ歯型が残っていた。
そこに、リンドヴルムの歯が食い込んだ瞬間を思い出す。腹の中で暴れるリンドヴルムの欲望と、濡れた金色の目、硬いウロコに爪を立てる感触……。
顔を手のひらで擦り、瞼に浮かぶ光景を打ち消す。
クゥッと、腹が鳴った。そういえば、昨日の夜は夕食も食べずに盛っていたのだ。
「……あー、飯……食わねぇと」
まだ力が入らない体を鼓舞して、軍服に着替える。髪をおろせば、首元の痕は隠れた。
宿を出て、足が向いたのは結局いつもの食堂だった。別の店に行こうと思っていたことなど、すっかり忘れてしまっていた。
店に入ってからそれを思い出し、舌打ちをする。
「いらっしゃいませ。あ、セスさん。もー遅いよ待ってたんだよ」
「あ?」
見慣れたそばかすの浮いた笑顔が駆け寄ってきて、いつもセスが座る店の奥の席を指差す。
そこには、無表情でこちらを見ているリンドヴルムが居た。尻尾がゆらゆら左右に揺れている。どうやら、待っていた、というのはニナではなくリンドヴルムのことらしい。
「……違う席にしてくれ」
「え?なんで?竜人様朝から待ってたんだよ。それに満席でーす」
「……」
「喧嘩でもした?」
「うるせぇ、そんなんじゃねぇ」
しぶしぶ、料理を選んでからリンドヴルムの待つ席へと向かう。
わざと少し乱暴に皿を置いて、黙って椅子に腰を下ろした。その拍子に腰にズキッと痛みが走り、思わず顔も険しくなる。
「なぜ、勝手に出て行ったのですか」
「疲れたからだ」
「なら、余計に……あのまま寝ていてくだされば、良かったではないですか。朝起きて、貴方がいなくて、私は」
リンドヴルムの顔を見ずに、黒パンを齧る。
腹は減っているのに、食欲がない。何故だか、頭がふわふわした。
「くだらねぇ。ヤることはヤったんだから、別に帰ってもいいだろ。テメェが起きるまで待ってられるかよ」
スープにパンを突っ込んで、代わりにポケットから煙草を取り出した。
しかし、火をつける前にリンドヴルムの硬い指が伸びてきて、煙草を取り上げられてしまった。
「なんだよ」
「煙草は、やめたほうがいいです」
「はあ?」
「体に障りますから」
リンドヴルムの指に摘まれた煙草と、生真面目そうな竜面を見比べる。
何を言っているのだ、この馬鹿は。
「ああ?テメェ……どういうつもりだ。一回相手してやっただけで恋人面かよ」
「セスさんこそ。今更なことを……私達は番ったんですよ?夫婦同然です。体の心配をするのは当たり前です」
「は?」
「え?」
ものすごい事を言われた気がする。
夫婦同然?
そんな関係になったつもりはない。
リンドヴルムから好意を向けられている事に自覚はあるが、それが恋愛感情だとまでは思っていなかった。
そう、昨晩の行為はそういうものではなかったはずだ。
「気色悪ぃ。誰が、テメェなんかと。夫婦?男同士で、馬鹿げてる」
「理解できません。同性であることの何が問題なのですか。魂が惹かれあうのに、肉体の性別になんの関係があるのですか。今更、そんなことを言われる意味がわからない。貴方も昨晩は当たり前に受け入れていたのに」
「言ったろ……人間は、適当なんだ。俺はテメェが童貞を捨ててぇなら、相手してやるかと思っただけだ。好奇心だ、ただの」
なんてこと、と。小さく呟いてリンドヴルムは固く拳を握りしめる。酷く動揺した様子で、金色の瞳を揺らしていた。
「そんなはずはありません。私は、貴方だと確信しています。私の魂の片割れは、貴方です。私が一生涯にたった一人、愛しあうべき人は」
「あ、あい?」
目眩がした。
なんという事だ。軽い遊びだったはずだ。何年か経てば笑い話になるような、ちょっとした過ちだったはずだ。
だが、リンドヴルムはそう思ってはいなかった。
そうだ。竜人の恋は人生でたった一人。そう言っていたじゃないか。
なのに、なぜあの時はそのことを思い出さず、たいした事じゃあないと自分に言い聞かせて、リンドヴルムの抱擁を受け入れてしまったのだろう。
「くだらねぇ。愛だかなんだか、俺には関係ねぇ話だ。俺はたった一回の気まぐれのつもりだった」
「一回ではありません。十回くらいは」
「あーあー、そうだな!このクソ絶倫トカゲが!それがどうしたグダグダうるせぇな、ケツ貸してやったくらいで勘違いするんじゃねぇ!重てぇんだよ!」
思わず声を荒げてしまってから、はっとなって周囲を見渡す。
顔見知りの常連客は酒の入ったジョッキを取り落とし、ニナは青ざめ引き攣った顔をしていた。
さあっと血の気が引いていく。シンとしてしまった店内に、もう居場所はないと悟る。
椅子を蹴るように立ち上がり、何も言わずリンドヴルムに背を向けた。
「セスさん!」
「ついてくるな。そもそも、テメェみたいなガキは、嫌いなんだよ」
剣の柄に手をかけて凄むと、リンドヴルムは苦しげに息を飲む。酷く傷ついた目をしていた。
その視線から逃げるように店を出る。
「そんなはず、ありません。私には、分かります……私は、信じています。貴方と私の間にある確信を」
「んなもん……俺は知らねぇ」
その言葉以外に、リンドヴルムが追いかけてくる気配は、感じなかった。
振り返らずに早足でその場を離れる。
売春宿や賭場など並ぶ猥雑な通りを進み、細い路地裏に飛び込む。売春宿と酒場の間の細い隙間に身を隠し、セスはため息をついた。
こんな場所なら、リンドヴルムはなかなか見つけられないだろう。
薄汚れた壁に凭れ、煙草の煙を燻らせる。
少し、一人になりたかった。
ネズミが足元を走り抜け、かすかに排泄物の匂いがした。壁一枚隔てた向こうからは、年増の女の喘ぎが聞こえる。
昨晩、セスもあんな風に鳴いたのだ。
空を見れば、もうすっかり日が暮れている。少し欠けた月が登り、ヴァンパイアの食事の時間を告げていた。
そうだ、今夜は月夜。仕事をしなければ。馬鹿な部下のことなどで、悩んでいる場合ではない。
無理矢理、頭からリンドヴルムの事を追い出す。
あの廃屋のグール達とヴァンパイアを倒して以降は平和が続いていた。あのヴァンパイアが、マリー達雑魚ヴァンパイアの『親』だったのだろうか。
だが、この街にはまだ強いヴァンパイアがいる。
それを確信していた。
ヴァンパイア事件が頻繁に起こるのは、上級ヴァンパイアが下級ヴァンパイアを増やしているからだ。だが二年かかっても、その親玉の尻尾を掴めない。
それは、敵が恐ろしく慎重で、知恵があり、そして何より始祖かロードと言われる最上級のヴァンパイアである証だ。
強くなればなるほど、人間に擬態するのがうまくなる。探査機の針を欺き、人の目を欺き、太陽を欺く。ヴァンパイア達が遺す痕跡や証言を辿り、始祖やロードに辿りつくまでに、数年かかるのはざらにある話だ。
リンドヴルムが一人前になってくれたなら、少しは……そう考えた途端に、またあの眼差しと腹の奥で蠢く欲望の感覚を思い出してしまう。
ダメだ、堂々巡りだ。思考が乱れて、冷静じゃない。
チュッと、足元からネズミの鳴き声が聞こえた。
視線を下に向けると、セスの靴のすぐ側にドブネズミが居る。ネズミは鼻をヒクヒクさせながら、こちらを仰ぎ見た。
ゾクリ。
一気に、背筋が凍りつく。
悪臭を感じた。ヴァンパイアの、匂いだ。
ネズミの口元が、まるで裂けたように、凶悪につり上がる。
「ぐ!?」
ネズミは、瞬きする間もなく、一瞬で巨大な犬に変化した。そして、セスの喉笛を目掛け飛びがかかる。咄嗟に剣を鞘から抜き、その動作の勢いで横一文字に腹を切り裂く。血と臓物が飛び散るが、これでは死なない。ヴァンパイアは、心臓を突かなければ死なないのだ。
不意を突かれ、突くことができなかった。
一旦体勢を立て直し、心臓を狙わねば。狭い路地裏から飛び出そうと、身を翻した。
しかし。腰と股関節が悲鳴をあげ、ほんの僅かにバランスを崩す。
そして、それは。致命的な隙を生んだ。
背後から、細く手が現れた。それは、まるで熊のような怪力でセスの肩と髪を掴む。ぶちぶちと、髪が引き抜かれる痛みと、肩の骨が軋む音。
「ぐあ、あああ!!」
そして、続いて首筋に激しい痛みが走った。
視界の端に、細い女の手と、黒い頭巾に隠された頭部が映る。
噛まれた。
ヴァンパイアだ。この、ヴァンパイアが。
ごきゅっごきゅっごきゅっごきゅっ!
セスに噛み付いたヴァンパイアは、引き裂かれた頸動脈から噴き出した血を、まるで湧き水でも飲むように喉を鳴らして飲み干していく。
「ぐおぉ、ぎ、ち、くしょ、ちくしょうがああ!」
頭を掴み、必死に引き剥がそうとする。肘鉄を入れ、身を捩り、力の限り暴れようとする。
しかし、全く無意味だった。
ヴァンパイアの体は、ビクともしない。
じゅる、じゅるじゅるじゅるじゅる。
噴き出す血が無くなれば、血管から、直接血を吸い出される。
指先が冷たくなり、どんどん力が抜けていった。自分で立っていることも出来なくなり、その場にへたり込む。
もはや、抵抗することも出来ない。
「あっ、ぐ、おお、あ、あ」
血を啜る音だけが、鼓膜を揺らす。
意識が朦朧とし、感覚が消えていく。ちゅる、ちゅる、と。残り少ない血液を啜られる度、びくん、びくんと反射的に体が震えた。じわりと、股間から温い液体が漏れ出す。
「……あ……ぁ……」
もう、何も聞こえない。
闇に飲み込まれていくようだ。ただ、空だけが見えた。金色に輝く月。欠けた月は、リンドヴルムの目の形に似ていた。
それが白く霞み、見えなくなっていく。
硬い背中に爪を立て、金色の瞳を見上げていた時のことを、思い出す。
何か大事な事に、気づかないよう自分を欺いていた。それは、なんだったのだろう。
思い至る前に、ぐるりと眼球が裏返る感覚と共に、全ては闇に閉ざされる。
どくんと、最後に一回未練がましく跳ねた後、セスの心臓は動かなくなった。
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