19 / 19
19.竜血を啜るヴァンパイア
絹を裂くような悲鳴と共に、店の周りから人が消えていく。
慌てて厨房の奥から出てきて、ぐったりしているベイリーを抱きかかえた店主が、悲痛な叫びをあげた。
「う、嘘だろニナ!!!」
エプロンと右手を真っ赤に染めたニナは、いつもの可愛い表情とは全く違う、感情の無い顔でこちらを見つめている。欠けた月を背負って立つ姿には、あの素朴な面影はない。
マティアスは、ニナの肩越しに店内を見た。
常連客達は机の下で縮こまり、まるで悪夢を見ているような顔をしている。店主は、血が吹き出すベイリーの傷口を押さえて、手当てをしようとしていた。
「……どうしてあんたが生きてるの。セスさんは、どうしたのよ」
「ニナさん。貴方だったのですね。今日、ベイリーさんと私の屋敷を訪れたのも。セスさんを噛んだのも。全部、貴方だったのですね」
ニナの問いには答えず、マティアスは腰の剣を抜く。鈍色に光る刀身を一瞥して、ニナはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「全く気が付きませんでした。貴方がヴァンパイアだったなんて」
「誰も気づかないわ。私は、もう何百年もこうして街に溶け込んで生きてきた。好きなの。人間のように振る舞って生きるのが……でも、もういいわ。終わりよ」
ぞぶりと、嫌な音を立ててニナの右手が黒い霧へと変わる。一瞬後には、彼女の手には巨大な肉切り包丁が握られていた。
「答えなさい。セスさんは、どうしたのよ」
切っ先をこちらに向けて、牙を見せたニナが言った。憤怒に、瞳が赤く染まってゆく。これが本来の彼女の顔なのだ。そばかすのある頬に素朴な笑顔を浮かべた少女は、偽物だった。
「……セスさんは、苦しんでいました。彼を救う方法は、一つしかありません」
そう答えれば、ニナは獣のような形相で呻いた。強烈な腐臭を感じる。そして、ざわざわと背中のウロコが逆立つような悪寒。
彼女は心底、怒っているようだった。殺気に当てられたマティアスの尻尾が立ちあがり、ゆらゆら揺れてニナを威嚇する。
「ひどい、ひどい!セスさんを殺したの!?なんで、あんたが死ねばよかったのに!!」
「ひどい?セスさんを殺してヴァンパイアにしたのは、貴女じゃ……」
言い切る前に、肉切り包丁がマティアスの首に向けて振り下ろされた。咄嗟に剣で打ち払う。
少女の細腕とは思えない怪力に、マティアスは弾き飛ばされそうになった。タタラを踏むが、尻尾で体を支えなんとか堪える。
近くに集まりつつあった野次馬達が、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。
「あんたが悪いんじゃない!!あの人は、あの人は、誰のものにもならないと思ってたのに!!あんたがちょっかいを出すから!!」
顔を真っ赤にして涙目で叫ぶ姿は、街に君臨しているヴァンパイアクイーンには見えない。ごく普通の、癇癪を起こしている少女だ。
その怒りの矛先は、どうやらマティアスに向いているようだ。
「好きだったのッ!あの人が街に来た時からずっと……何百年も生きて、こんな気持ちははじめてだったの!セスさんがヴァンパイアを倒した話を、ベイリーさんから聞くのが大好きだった。だから、あの人がたくさんヴァンパイアを倒せるように街にヴァンパイアを増やしたわ。あの人は子どもを殺したらどんな顔をするのが知りたかったから、子どももヴァンパイアにした……。毎朝あの人に会えるだけで、私は幸せだったのに!あんたがあの人を!返してよ!私のセスさんを返して!」
ボロボロと涙を流すニナを見て、マティアスは多少の同情を覚えた。
彼女は身勝手な理由でたくさんの人間を殺し、ヴァンパイアにした悪女だ。
だが、動機はセスへの恋心だった。恋をする気持ち自体は、ヴァンパイアクイーンも普通の少女も変わらない。失恋の苦しさも、変わらないのだ。
彼女が報われない想いを拗らせて、より凶暴になってしまったというのなら。セスと番 である自分にも、責任はあるのではないかとマティアスは思った。
「それは申し訳ありません。ですが私達が産まれる前から、私達が結ばれる事は決められていたのです。セスさんはこの世に生を受けた瞬間から、私の番 なのです。誰のものにもならないのではなく、はなから私のものだったのです。貴女は知らなかったとはいえ……貴女に絶対に叶うことのない片想いをさせてしまったのは、可哀想だとは思いますが……」
素直に同情から言ったことだったが、マティアスの言葉を聞くにしたがって、ニナの表情は嫌悪に染まっていった。何か、ひどく気持ちの悪いものを見たような顔だ。
「……き、気持ち悪い!なにそれ、重たいのよ!!」
風切音をたてて、肉切り包丁が振り下ろされる。頭を叩き割られる寸前で避け、かすかに肩をかすめて神父服の袖がちぎれた。
血染めの袖の下から、ウロコに守られた太い腕が露わになる。手首には、すでに塞がってはいるが真新しい大きな傷痕があり、そこだけウロコが剥げていた。
「そういうことは、……貴女にだけは言われたくありません」
「なによ、その傷。袖が汚れてたのは、あんた自身の血だったのね。手首を切ったの?セスさんを殺して後追いでもしようとしたの?なら死ねば良かったのよ!」
傷痕を見たニナは、嘲笑うように言って更に包丁を振り回した。あまりの速さに、マティアスも捌ききれず、生傷が増えてゆく。血が滲み、地面に染みを作った。
「っ、く」
「あんたは、ヴァンパイアにはしないわ!あんたの血なんか一滴だって飲みたくない!ぐちゃぐちゃに切り刻んでから、グールの餌にしてやる!」
まだ殺される訳にはいかない。
ニナは全く本気を出していないはず。それでも、マティアスの剣は彼女にかすりもしない。実力が違いすぎるのだ。
よほどの隙をつかなければ、マティアス達には勝機はない。それを自覚しているだけに、マティアスは焦りを覚えていた。
「っ、それは良かった。貴女よりは、グールの方がずっとマシです」
剣とウロコを逆立てた尻尾で応戦しつつ、マティアスはわざとニナの神経を逆撫でするような言葉を吐いた。
怒号と共に、胸ぐらを掴まれた。同時にぐんっと体が持ち上がる浮遊感。瞳を怪しく光らせたニナが、マティアスを掴んで跳躍したのだ。体が浮き上がる感覚に吐き気を覚えた直後、一気に硬いものに背中から叩きつけられる。激痛と共に、視界の端で右の角がへし折れぶっ飛んでいくのが見えた。
今にも気絶しそうは痛みの中、牙を噛みしめなんとか意識を保つ。どうやら、『シマリスの台所』の屋根の上に投げつけられたようだ。あばら骨が折れたのか、息をするたびに胸部からミシミシという音がした。
いくら傷の治りが早い竜人でも、動けるようになるまでしばらくかかりそうだ。
「生意気なトカゲ男。セスさんは、こんなやつのどこがよかったの。せめて手紙を渡せていたら。ちゃんと告白して、振られていたら。私はこんなには苦しまずにすんだのに。いいえ、そもそもあんたさえ街に来なければ、今もあの人を眺めていられたのに」
ぶつぶつと恨み言を呟くニナの背後で、白く輝く月を見る。
その光の中に、チラッと、黒い小さなものが横切った。
「どこが、良いかは……私もセスさんに、聞いてみたかった、ところです」
起き上がろうとすると、口から血が吹き出した。それでも、尻尾で屋根を叩き上体を起こす。そして、震える手で剣を握り直し、ニナに切っ先を向けた。
ニナも、まっすぐにマティアスを見ている。冷たい殺意が、肉切り包丁に宿りマティアスに突きつけられた。怒りと嫉妬で、マティアスしか見えていない。
だから、闇に紛れて背後に迫る一匹のコウモリに、気がついていなかった。
ゴギッ!!
「ギッ、ア゛」
細く白いニナの首に、太い男の指が絡む。骨が軋む音がして、灰色の長い髪が彼女の肩に垂れた。
背後から声帯を握り潰され、頸動脈に牙をたてられたニナが、必死に背後に腕を回そうとする。だが、その手は宙を掴むだけだった。
「セ、ッ!?あ゛っ、あ゛」
恐怖と絶望に歪むニナの肩越しに、満足げな顔をしたセスと目があった。まんまとヴァンパイアクイーンの背後を取りその首に牙を立てたセスは、その瞳を獲物を喰らう肉食獣のように、爛々と輝かせている。
ごきゅっ、ごきゅっと、セスがニナの血を飲み干していく。自分以外の血が彼の中に招かれる事に嫉妬を覚えなくはなかったが、セスを救う方法はたった一つ。
セスがニナの血を吸い、彼女の力を奪う事だけなのだ。
その為に、マティアスは手首を切り大量の血をセスに与えた。
竜血をたらふく飲み力を蓄えたセスなら、ヴァンパイアクイーンの隙を突く事が出来るかもしれない。マティアスを殺そうとする衝動を堪えることができていたセスなら、上位のヴァンパイアの命令にわずかでも逆らうことができていたセスなら、マティアスではなくニナにその牙を突き立てる事ができるかもしれない。
その一縷の望みに賭けるしかなかった。
幸い、ニナがマティアスの挑発に乗ってくれたおかげで賭けに勝つ事ができた。
ニナの赤い瞳が、力を失っていく。まるで、いつものニナのようだ。血と共に力を奪われた彼女は、傷つき青ざめたただの少女にしか見えない。
剣を杖代わりに立ち上がったマティアスに、セスが視線で合図をした。
頷いて、マティアスは剣をまっすぐに突き出した。
「……さようなら、ニナさん」
ニナの左胸、すでに止まっている心臓を正確に貫く。できる限り、苦しみを感じないように。
「あ……」
そばかすの浮いた頬が、砂に変わってさらりと崩れ落ちる。瞬きをする間に、ニナは白い砂に変わってしまった。
さらさらと屋根から流れ落ちていく砂を見下ろし、セスがくっくっと喉を鳴らして笑う。いつもの黒の燕尾服姿のセスが、口元を血に染めて微笑んでいた。
「いい気分だ」
元は熟練のヴァンパイアハンターであり、数百年生きた始祖のヴァンパイアを食いその力を得て、更に竜血を啜るヴァンパイア・ロード。
おそらく、今この地上に存在するヴァンパイアの中で、もっとも強く偉大なヴァンパイアとなったセスは、実に機嫌が良さそうに両腕を広げて月を仰いだ。
もはや、彼を縛るものは何もない。
清々しい表情のセスに、マティアスは心底安堵を覚えた。
「良かったです。セスさん……本当に、良かった」
緊張から解放され、マティアスはその場に腰を下ろす。
地上を見下ろせば、『シマリスの台所』の店主がニナだった砂を掻き抱き泣いているのが見えた。その横を、慌てた様子の医者が通り過ぎる。ベイリーの為に、誰かが呼んでくれたのだろう。
ふいに、冷たい指先が顎に触れた。そのまま、セスの方へと顔の向きを変えられる。
セスがすぐ側に屈んで、こちらを見ていた。赤い瞳が綺麗で吸い込まれそうだ。瞬きするのも勿体なくて、じっと見つめていると、セスの顔が近付いてきて唇に柔らかいものが触れた。
あまりに一瞬で何が起こったのかよく分からなかったが、なんとなく胸がドキドキする。
「はじめに、約束したな。一か月様子見してやると」
「は――はい。そうでしたね」
「及第点だ」
「合格、という事でしょうか。私は貴方に認めてもらえるような、ハンターになれたのでしょうか」
「そうだな」
差し出された手を取り、マティアスは立ち上がった。
認めてもらえた喜びに、尻尾がビリビリと震える。
「だが、まだまだだ。俺がお前を、世界一のハンターにしてやるよ」
これ以上心強く、嬉しい言葉があるだろうか。セスが側に居て、一緒に戦ってくれるという事なのだから。
感情の赴くまま、マティアスは愛しいヴァンパイア・ロードを抱きしめた。
※※※※※
天気の良い日には、公園へと散歩に出かける。それが、いつのまにか日課になっていた。
昔は『シマリスの台所』という食堂のあった場所だ。ヴァンパイア騒動で閉店し、更地になった後、小さな花壇とベンチの置かれた公園が作られたのだ。
ここに居ると、気持ちが落ち着いた。あの頃の、楽しかった日々を思い出す。
ふと、懐かしい煙草の匂いがして、足元へ向けていた顔をあげる。
そこには日傘をさした男が一人、詰まらなそうな顔をして立っていた。煙草を咥えた薄い唇が、ついっと吊り上がる。
「よう、ベイリー」
昔と変わらない調子で、セスはベイリーの名を呼んだ。
一瞬幻を見たかと思い目を擦るが、セスの姿は消えない。
「ゔぃ、ヴィクトリノ大尉!?久しぶりじゃあないか!いつこの街に帰ってきたんだ!?」
「昨夜だ。長い間留守にしてたが、変わりはねぇか?」
「ああ、もちろんさ。あんたの縄張りで悪さするヴァンパイアなんかいるわけないだろ」
日傘を持ったまま、セスが隣に座る。長い足を組んで座る姿は、ベイリーが憧れていたあの頃と何も変わらない。
「少し老けたな」
「ハハ、そりゃあそうさ。大尉達が街を出てヴァンパイア狩りの旅に出たのが、七年前だぞ」
「ああ。もうそんなになるのか」
「あんたは三十年前にヴァンパイアになってから変わらないし、竜人様も歳を取らないもんなぁ。時間の感覚なんか、なくなるよな」
三十年前、この場所にあった日常を思い出す。セスとマティアスが向かい合い朝食を食べていて、ニナが二人をニコニコしながら見ていた。
ベイリーにとって、とても懐かしくて、少し苦い思い出だ。
そっと自分の肩に触れる。ニナに貫かれてから、腕が不自由になった。だから自警団も辞めざるを得なくなったが、ベイリーはニナを恨む気にはなれない。
彼女は、簡単にベイリーを殺せたはずなのに、そうしなかったからだ。
彼女もきっと、あの日々を愛していたんだと思う。
「そういえば、竜人様は?側にいないなんて、珍しいな。いつだって、紐で繋がれてるのかってくらいくっついてたのに」
「あいつは、屋敷で留守番だ。卵を温めてやがるからな」
「…………卵?」
「竜人の卵は、親がつきっきりで温めなきゃならねぇそうだ」
養子でも引き取ったのだろうか。まさか、二人の間の卵?どちらかが産んだというのか。
あり得ないとは思うが、最強と呼ばれるヴァンパイアハンターとヴァンパイア・ロードの二人なら、そんな奇跡が起こってもおかしくないような気がした。
「そ……そりゃあ、大変だなぁ。そうか、子育てのために街に帰ってきたのか」
「まあな。ガキを連れてちゃ、危なっかしい」
「なあ、しばらく街にいるなら、今度屋敷に遊びに行っていいかい?あんたらの武勇伝を聞かせてくれよ。オレは、ヴィクトリノ大尉のヴァンパイアハントの話を聞くのが好きなんだ。あの話もまた聞きたいなぁ、リードとかいう街で、大勢のハンターと始祖のヴァンパイアを追い詰めた話」
セスはあまり自分の話をしない人だが、それでもせがむとヴァンパイア狩りの話をしてくれる事があった。リードという街での始祖との激戦の話は、その中でも特に印象的なものだった。
しかし、なぜかセスは嫌そうな顔をして、視線を逸らした。首を傾げるベイリーを置いて、セスはベンチから腰を上げる。
「その話、マティアスにはするなよ」
「なんでだ?いい話なのに」
「またあいつがまた、運命だのなんだの面倒な事を言い出すからだ」
「はあ、運命?」
「くだらねぇだろ。俺は、そんなもののせいであいつと一緒にいるわけじゃねぇ」
「なんだいそりゃあ。リードの街と、運命とやらと、なんの関係が」
好奇心から問い詰めようとしたが、セスが左手の人差し指を自分の唇に当てた。薬指には、きらりと金の指輪が光っている。
その仕草をみて、ベイリーは口を閉じた。きっと、聞く必要のない事なのだ。
来た時と同じように、セスは音もなく歩き去っていく。背中越しに、手をひらひらと振ってくれるのが見えた。
日傘の作る小さな影の中にいるのがヴァンパイアだとは、すれ違う人々は誰も気づかない。
ヴァンパイアに怯える夜は、もう来ない。だから、みんなヴァンパイアの恐怖など忘れたのだ。マティアスとセスという、二人のハンターのおかげで。
雑踏にセスが消えるのを見送ったベイリーは、空を仰いで二人の卵が孵る日に思いを馳せた。
竜血を啜るヴァンパイア 完
ともだちにシェアしよう!