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18.クイーンの食指
この街でセスと出会い、一か月が経とうとしていた。
竜人は相変わらず街では異物で、買い物をしているだけで奇異の目を向けられる。
しかし、マティアスの事を受け入れてくれる人々も、次第に増えてきた。『シマリスの台所』の店主やニナ、常連たち。いきつけの本屋や、香水屋。
薄曇りの空の下を、マティアスは不思議な気持ちで歩いていた。見慣れてきた大通り。もうすっかり土地勘もある。いつかは、自分もこの街の一部になるのだろう。
少し雲がかかっているが、太陽の光を遮るほど分厚くない。ヴァンパイアが暴れだすとしたら、日が落ちてからだ。
夜な夜なのヴァンパイア狩りも、セスのフォローのおかげで問題はなくこなせていた。
二週間前にセスから仕事を引き継いだ当初は、マティアスはまだ不慣れで、セスのようにうまくやれるか心配だった。だが、少しずつ自信も付きつつある。
もう一人前だとは自惚れてはいないが、見習いは卒業しただろう。セスの手を煩わせる事も少なくなった。いまでは子どもの姿をしたヴァンパイアに対しても、マティアスの剣はぶれずにまっすぐ心臓を突き抜ける。
だからこそ、マティアスは街であるものを買ったのだ。
小さな紙袋の中を覗き、マティアスは目を細めた。尻尾の先がビリビリする。
中身は、婚約指輪だ。
指のサイズは、日課である入浴の手伝いをしている時にこっそり測った。
竜人には、婚約指輪を贈り合う習慣は無い。魂が惹かれ合うから、約束を形にして残そうとする事も、愛をささやき合う事もしない。ただ寄り添っているだけで全て分かるからだ。
マティアスも、セスの側にいると解る。この人が運命。この人が自分の片割れなのだと。セスが口でどう言おうとも、マティアスの確信は揺るがなかった。
しかし、残念ながらセスには魂が惹かれ合う感覚というのが知覚できない。だから、セスがマティアスとの関係を、実際のところどう思っているのかわからなかった。
ベッドの中では恋人同士のようでもあるのに、時折ひどく冷たくなる。夜は師弟や上司と部下のようでもあり、時々、主従のようでもあった。
だからセスに指輪を贈ろうと思ったのだ。
「ゴールドの指輪で良かったかな……セスさんは、受け入れてくれるだろうか」
そろそろ、はっきりと彼に求婚しても良いだろう。人間である彼には約束の形があった方が良いはず。左手の薬指に揃いの指輪が光っていれば、お互いにはっきり自覚できるに違いない。二人の婚姻は、神に定められた運命だという事が。
屋敷に近づくと、緊張して尻尾が縦に揺れた。金のアクセサリーは嫌いだと言われたらどうしよう。それとも、いつものように、自分は死人だからと求婚自体を断られたら。そんな関係ではないと拒まれたら。
そんな不安は、門をくぐり屋敷の玄関を見た時に吹き飛んだ。
「あ……あ」
言葉を失ったマティアスは、思わず一歩後退る。
開きっぱなしになった扉の向こうに、侍女が血を流して倒れているのが見えたからだ。仰向けに倒れているのに、顔は床を向いている。生きているならば、不可能な体勢だ。
「せ――セスさん!!」
まさか、強盗か何かが?そう思ったが、セスが屋敷に居て強盗を見逃すなどあり得るだろうか。
セスの名を呼びながら、屋敷に駆け込む。倒れていた侍女の側に膝を折り、細い手首を持ち上げ脈を確認した。やはり、脈は止まっている。
そして次に、彼女の首を確かめた。細い首は完全に一回転していて、骨が砕けていた。
牙の穴は空いていない。少しだけ、ホッとした。彼女はヴァンパイアにはならない。
見開いたままだった目蓋をそっと指先で閉じて、マティアスは侍女の遺骸に優しく声をかけた。
「少しだけ、待っていてくださいね」
彼女の為に祈りを捧げてやりたいが、先に確かめなければならない事がある。
腰の剣に手をかけ、マティアスは足音を消して屋敷の奥へ向かった。嫌な予感がする。セスの身に何かあったのでは。
応接間の前を通ると、珈琲の香りがした。扉を開けて中に入るが、誰もいない。ただ、カップが三つ置かれていた。
来客があったのか。屋敷の主であるマティアスが留守の間に?
次に棺桶の置かれているセスの部屋を覗くが、誰もいない。荒らされている形跡もなかった。
「セスさん」
返事はない。だが、かわりに厨房の方からガァンと何かが落ちたような音がした。
慌てて部屋を飛び出し、キッチンへ向かう。わずかに血の匂いがして、マティアスは身体中のウロコが逆立つような感覚を覚えた。
「来るな!!」
怒号が聞こえたが、マティアスは足を止めず厨房に飛び込んだ。
「なっ!?」
そこには、床に這い蹲ったセスがいた。血走った目で、牙を剥き出しにして呻いている。右手には包丁を握り締め、振りかぶっていた。
そのまま、左手の甲に包丁を突き刺す。ずぶりと嫌な音がして、血が吹き出した。
「何を!?」
ギチギチと、肉と骨が軋む音がする。セスの額には、脂汗が浮いていた。
あまりに痛々しい光景に、マティアスは悲鳴をあげそうになった。
「クソ!刺せ、俺を殺せマティアス!心臓を狙え!」
「ま――待ってください!何がどうしたのですか!?」
「さっさと、うぅ!」
苦しげに喘いだかと思うと、彼の左手がまるで違う生き物のようにバン!と跳ねた。衝撃に、包丁が吹き飛ぶ。そして、左手に引きずられるように、セスはマティアスに向かい飛びかかってきた。
「セスさん!」
とっさに剣を抜きその左腕を打ち払う。しかし、とんでもない怪力で、反対に弾き飛ばされしまい壁に激突した。肺から空気が押し出され、喉がカヒュッという音を鳴らす。
尻尾を支えになんとか体勢を保ち、セスの方を見る。セスは再び床に伏せ、自らの手で自分を止めようとしていた。右手で左手首を強く掴み、必死の形相で床に押さえつけている。
「ぐっ、クッソが、ああ!」
「ッ、セス、さん。その腕は」
「『命令』、だ、ヤツが来た、あのクソ女!『竜人を殺せ』と……畜生!」
応接間に漂っていた珈琲の香りを思い出す。
まさか、セスを殺した仇 が、屋敷を訪れたというのか。しかも、客として。
ならば侍女を殺したのもそのヴァンパイアに違いない。激しい怒りに尻尾のウロコが逆立ち、床を叩いた。
セスから命を奪い、今また彼を隷属させ苦しめている。こんなにも誰かに憎しみを覚えた事があるだろうか。
詳しく話を聞きたいが、セスの様子は尋常ではない。
「ッ、ぐっ、クソ、クソ!このノロマ!さっさと終わらせろっ」
「セスさん、セスさん、私は貴方を殺したりはしません。そんな事はできません!」
ギリギリと、セスが牙を噛み締める音がする。強烈な殺気と焼けるような焦燥が、瞳孔の開いた目の奥で燃えている。今にもマティアスを殺そうとする自分を、全力で抑え込んでいるのだ。
目の前で大事な人が苦しんでいるのに、どうしたらいいのかわからない。セスを傷つける事など、考えたくもない。
「ひっ、ッ、――左手だけ、斬り落とすのでは、いけないのですか」
「馬鹿、無駄だ!『命令』ってのは、絶対なんだ!なぜか、右手だけ、俺の意思で動かせてる、今だけが。う、うう」
それならばどうすればいいのか。
セスを殺すなんて、あり得ない。しかし、もしマティアスがセスに殺されてしまえば、セスは血を得られず飢えてしまう。そして、一人で苦しむ羽目になるのだ。
「悩むな、わかってるだろう!方法は、ひとつ……ひとつだけだ!」
吐き捨てられたセスの言葉に、マティアスは目の前が真っ白になった。
方法は、一つ。彼を救う方法は、彼が自由になる方法は、たった一つだけ。そうセスに教えてもらった。
剣を引き摺るようにして、マティアスはセスの元へと歩み寄った。長い灰色の髪が、床に広がっている。もがく背中を見下ろして、初めて血を捧げた日の事を思い出した。
「セスさん、教えてください。今日、屋敷に訪ねてきたのはどこの誰ですか」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。返事はなく、セスはゆるゆると首を横に振る。分からないのか、言えないのか。
ただ、何故かセスはクックっと喉を鳴らして笑った。訝しむマティアスと、こちらを見上げるセスの視線が絡む。
「……ベイリーに、聞け」
意外な人物の名に、マティアスは息を飲んだ。
なぜ今ベイリーの名前が。彼がヴァンパイアであるはずはないのに。
しかし、今は考えている暇はない。セスは今も苦しみ、耐えている。一刻も早く救ってあげなくてはならない。
ちらと窓の外を見れば、空は赤く染まり始めていた。
もうすぐ、夜がくる。
※※※※※
街とマティアスの神父服が、夕焼けに赤く染まる。白いはずの袖は、夕日の朱色だけではなく、赤黒い血にも染められていた。
すれ違う人が、小さく悲鳴をあげるのが聞こえた。だが、今のマティアスにはそちらを見る余裕すらない。
やらねばならない事がある。セスを苦しめたヴァンパイアクイーンを、今すぐ殺さなくては。
激しい怒りと焦燥が、マティアスの中を渦巻いていた。
「あれ。竜人様?怖い顔して、ヴィクトリノ大尉と喧嘩でもしたんですか?……って、うわ!その腕、どうしたんですか!?」
『シマリスの台所』に近づいた時、ふいに声をかけられ振り向いた。ちょうど、店から赤ら顔のベイリーが出てきたところだったようだ。マティアスの血のついた袖を見て、目を白黒させている。
仕事終わりに、一杯飲んできたのだろう。
ちょうどよかった。探す手間が省けたと、マティアスは彼に向き直る。
「大丈夫です。ちょっと、汚してしまっただけですから。それより、今日私の屋敷に来ましたか」
唐突なマティアスの問いに、ベイリーはきょとんとした顔を見せた。屋敷で起こった事を、何も知らないのだろうか。演技をしているようには見えなかった。
「あ、ああ。……ちょっとセスさんの見舞いに行ったけど、それがどうかしました?」
「一人で、ですか?」
「いや、連れて行ってほしいって頼まれちゃいましてね。ニ――」
最後まで言い切る前に。
ベイリーの体が宙に浮いた。肩から、何か白いものが生えている。
腕だ。
細くて白い、女の腕。
「ギッ…ぎゃああああ!!」
肉を裂く音と、ベイリーの悲鳴が重なる。ベイリーの肩を手刀で貫いた人物は、彼を店の中に向かい放り投げると、マティアスの方へと冷たい視線を向けた。
そばかすの浮いた愛らしいはずの顔は、憎悪に染まっている。
夕陽は落ち、空は紺に染め直されていた。
彼女が、ヴァンパイアクイーンが、君臨する夜が来ていた。
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