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第1話

「お腹減った……」  唇から零れた白い呟きが、二月の闇に吸い込まれていく。昼間は活気溢れるビジネス街も、この時間になると行き交う人もまばらだ。ビルに囲まれた小さな公園のベンチに腰かけ、片瀬(かたせ)由高(ゆたか)は星の見えない夜空を仰いだ。  癖のない前髪が夜風にさらりと揺れる。もともと華奢な身体はこの半年でさらに肉が削げ落ちてしまった。半年着回しているスーツは夏用で、なおさら寒さが骨身にこたえる。  もう何日まともな食事をしていないだろう。一日三食が二食になり、一食になり、カップ麺がパンの耳になり、今週ついに電気とガスが止められた。アパートの家賃滞納も三ヶ月を超え、一週間後には退去しなくてはならない。 「この時代に餓死とか……」  ありえなくもない未来に、重く長いため息をついた時だ。数メートル離れた隣のベンチに、男がひとり座っていることに気づいた。三十代くらいだろうか、夜目にも高そうだとわかるトレンチコートを羽織っている。  いつからそこにいたのだろう、街灯に照らされた男はどこか疲れた表情で、無心に何かを口に運んでいる。太腿の上に置かれているのはケーキ箱だろうか。全体に桜の花びらがプリントされたそれに、由高は「あっ」と小さな声を上げた。  ――『ラ・スリーズ』だ。  それは子供の頃、誕生日やクリスマスに祖母が必ず買ってきてくれた、近所のケーキ店の箱だった。町の小さなケーキ店だった『ラ・スリーズ』も、今や日本を代表する有名菓子メーカーだ。  いかにも身なりのよい男が、何故夜の公園で『ラ・スリーズ』のケーキを食べているのだろう。それも不機嫌そうな顔で背中を丸め、ちっとも美味しくなさそうに。飲み会のシメにケーキを食べるほど、甘いものが好きなのだろうか。  男がシュークリームを手にする。大きく口を開けるその横顔を凝視しながら、由高もついつい一緒に口を開く。  ――『ラ・スリーズ』のシュークリーム、大きくて美味しいんだよなあ……。  涎を垂らさんばかりに見つめていると、突然男がこちらを振り返った。慌てて視線を逸らした由高に、男が言った。 「食うか?」 「え?」  キョロキョロとあたりを見回すが、深夜の公園には由高と男以外誰もいない。 「ひとつ食うかと訊いているんだ」 「えっと、あの」 「食うのか、食わないのか。どっちなんだ」  男がひややかな視線をよこす。刺さるような鋭さに、身体がびくんと竦む。 「え、あ、あの……」  返答に詰まっていると、胃袋がぐう~っと身も蓋もなく鳴った。本能が音速で理性を越える音に、男はため息交じりに立ち上がった。  ――うわ。  ケーキ箱を手に近づいてくるシルエットを思わず見上げた。背が高い。百八十五センチはあるだろう。しなやかに伸びた手足は驚くほど長かった。  男は由高の隣にドスンと腰を下ろすと、無言でケーキ箱を突きつけた。 「……いいんですか」 「いいも悪いも。そんなにガン見されたら喉を通らない」 「すみません……」  ごくりと喉を鳴らしながら箱を覗く。色とりどりのカットケーキが五、六、七……八つも入っている。ふたつ食べられた形跡があるので最初は十個入っていたのだろう。生クリームとイチゴの甘酸っぱい匂いを吸い込んだ瞬間、目眩のするような幸福感に襲われた。  途端に腹の虫たちがオーケストラを始めてしまった。夜の公園に響き渡るぐうぐうぎゅるるるるという激しい音色に、男が片眉を吊り上げた。 「どれだけ腹が減るとそんな音が出るんだ」 「す、すみません」 「隣のベンチで餓死されたら夢見が悪いからな。遠慮しないで食え」  男は口元を歪め、ふんっと鼻を鳴らした。笑ったのだろうか。  お世辞にもフレンドリーとはいえない口調だったが、腹の虫はもう限界に達していた。差し出された手拭きで手を拭くと、震える手でイチゴのショートケーキを取り出した。 「それではお言葉に甘えて」  はむっ、とひと口齧る。 「うう……」  いきなり顔を顰めた由高に、男が慌てた。 「どうした。毒なんか入っていないぞ」 「違うんです」  久しぶりに口にしたイチゴの酸味に唾液腺が過剰反応し、耳の下がツンとしたのだ。 「なんだ、びっくりさせるなよ」 「美味しい……本当に美味しいです。めちゃめちゃ美味しいです」  己の語彙の乏しさに絶望しつつ、ものの二十秒でショートケーキを完食してしまった。五臓六腑に糖分が染み渡る。砂漠でようやく水にありつけた旅人の気分だ。  ――もう一個……食べたい。  縋るような瞳でじっとりと男を見上げたのは、決してわざとではない。 「好きなだけ食え」  男がまたふんっと鼻を鳴らした。目元が微かに緩んでいて、今度は笑ったのだとはっきりわかった。 「ありがとうございます。それではふたたびお言葉に甘えて」  そこから由高は、立て続けに残りのケーキを貪り食った。  渋栗の乗った大人味のモンブラン、しっとりと焼き上げられたベークドチーズケーキ、さっくさくの食感が楽しいミルフィーユ、ふわふわふんわりのミルクレープ、シナモンの香りが絶妙なアップルパイ――。箱いっぱいに詰められたケーキが、あれよあれよと消えていく。  さすがに全部食べたらヒンシュクだぞ~~っ! と心の奥で誰かが叫んでいるが聞こえないふりをした。気づけば箱の中にはガトーショコラと、バナナのシフォンケーキ、ふたつだけになっていた。

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