2 / 5

第2話

 ――もうちょっと味わって食べないともったいないよな。  ガトーショコラの端を小さく齧ろうとした時、男がふうっと大きく息を吐き出した。 「痩せの大食いってやつか」  呆れたような声に由高はようやく我に返る。 「す、すみません、つい」 「〝つい〟六つも食べられるのは、ひとつの才能だな。いっそ気持ちがいい」  男が笑う。今度は「あはは」と声を上げて。 「構わない。好きなだけ食えと言ったのは俺だ。どうぞ召し上がれ」  突如紳士然とした口調で言われ、心臓がドクンと鳴った。  意識の九十九パーセントをケーキに奪われていたが、よく見ると男は超のつく美男子だった。真っ直ぐな眉ときりりとした切れ長の目元は、いかにも「仕事のできるビジネスマン」といった印象だ。少し厚めの唇は男の色香を感じさせる。  羽織っているコートも中に着ているスーツもネクタイも、由高のそれとは値段が一桁違う高級品だろう。当然靴はピカピカ。世の大方の男性の「こうなりたい」を具現化したような男だ。 「ここのケーキ、好きなのか」  由高は「はい」と小さく頷いた。 「子供の頃から大好きです。美味しいですよね、『ラ・スリーズ』のケーキ」 「……そうだな」  男は何かをはぐらかすように、視線を夜空に向けた。  本音を言えば「大好きでした」かもしれない。それでも『ラ・スリーズ』のケーキは、昔と変わらず由高の中で世界一のケーキだ。  ふと、懐かしい祖母の横顔が浮かんだ。 「このガトーショコラ、梅酒に浸すとすごく美味しいんですよ」  四年前に亡くなった祖母・サンドラはその昔、『ラ・スリーズ』のガトーショコラを梅酒に浸して食べていた。保育園の頃こっそり真似をして、酔っぱらって叱られたことは懐かしい思い出だ。 「梅酒?」  男が振り向き、身を乗り出した。  ――うわあ。  今日一番近づいた顔はやはり、超が三つくらいつくイケメンだ。昼間に往来ですれ違ったら、間違いなく二度見するだろう。 「祖母が昔よくそうやって食べていたんです」 「お祖母さんが?」 『こんな食べ方したら、店長さんに叱られちゃうわね、ふふ』  サンドラのいたずらな笑顔が蘇る。叱られちゃっても仕方ないと思えるくらい、梅酒に浸したガトーショコラは悪魔的に美味しかった。 「きみ、名前は?」 「え?」 「きみの名前を知りたい。俺は三戸部(みとべ)篤正(あつまさ)だ」 「えっと……片瀬由高です」  蚊の鳴くような声で答えた。そして戸惑った。夜の公園でひとりケーキを貪り食っていた理由はわからないが、篤正はどこからどう見てもまともなビジネスマンだ。身なりで人を判断してはいけないが、自分のような人間とは一生関わることのない人種に思える。名前を知りたがる意味がわからない。  ――新手の詐欺だったりして。  ケーキを餌に誘拐されちゃうパターンだろうか。などとぐるぐる考えていると、篤正がすっくと立ち上がった。 「片瀬くん、この後予定は?」  見下ろされて、「へ?」と間抜けな声が出た。 「もし何もないのなら、ちょっと付き合ってほしいんだが」 「付き合うって、あの、おれ」  意を解せず目を瞬かせていると、篤正は由高の手からガトーショコラを奪った。 「あ……」  思わずケーキを視線で追ってしまう。 「取り上げたりしないから安心しなさい。場所を変えて食べないかと提案しているんだ」  苦笑交じりに言われ、恥ずかしくて消えてしまいたい気分だった。食い意地の権化だと思われたに違いない。 「何か予定があったか?」  由高は俯いたままふるふると頭を振った。日付も変わろうという時間だ。この後はアパートに帰って、来週の退去に向けて荷造りをするだけだ。 「よし。決まりだ。行こう」  どこへ? と尋ねようと顔を上げると、篤正がポケットからハンカチを取り出した。 「拭きなさい。クリームがついている」  唇の端を指さされ、由高は「あ……」とまた下を向いた。頬が熱い。 「すみません……お借りします」  ハンカチを受け取り唇の生クリームを拭きとると、篤正は「こっちだ」と踵を返し、大通りに向かって歩き出した。由高は慌てて立ち上がると、戸惑いながら広くて大きな背中を追った。 『総務に片瀬っているじゃん』 『ああ。しゃべったことないけど』 『あいつ、ヤバイ副業してるらしいぜ』  去年の初夏、給湯室で偶然耳にした同僚たちの会話。思えばあれが悪夢の始まりだった。 『夜な夜な男相手に身体売ってるって話。営業のなんとかってやつが、ホテル街で現場見たんだって。あと経理の新人も見たらしい』 『うわ、マジか。確かに男にしておくのはもったいないくらい可愛い顔してるけど』 『あいつほら、祖母さんがノルウェー人だかフィンランド人だかだろ? フリーセックスの国の血が騒ぐんだろうな。可愛い顔してやることがえげつないよな。あ、これここだけの話な』  根も葉もない噂話を吹聴していたのが隣の課の同期だったということも、彼が社内のあちこちで同じ話を触れ回っていたことも、その時の由高はまだ知らなかった。  ――営業のなんとか? 経理の新人? 見たらしい?  あまりのいい加減さに怒りを通り越して呆れた。ちなみにサンドラはノルウェー人でもフィンランド人でもなく、スウェーデン人だ。由高がゲイであることは事実だが、身体を売ったことなど神に誓って一度もない。  ――大体フリーセックスの国って、いつの時代の話をしてるんだ。  くだらないにもほどがある。こんなバカバカしい話を信じるやつなどいない。だから完全無視を決め込んでいた。廊下ですれ違う女子社員たちが『ほら、あの人が』などと声を潜めて囁き合っていても、聞こえないふりをした。人の噂のタイムリミットは昔から七十五日と決まっている。  ところがある日、直属の上司に呼ばれ、『副業は社内規則違反だ』と抑揚のない声で言われた。無論即座に否定したが上司は聞く耳を持たなかった。本人の言い訳より実態のない噂話の方を信じていることは明らかで、由高は初めて大きなショックを受けた。  事態が急速に悪化し始めた。さすがに放ってはおけないと、噂を流した同期を呼び出して問い詰めたが、のらりくらりとかわされ、最後まで白を切られた。  数日後、由高は県内のはずれにある倉庫に異動を命じられた。冷静に考えれば労働基準法違反だ。然るべき機関に相談することもできただろうが、当時の由高はそんな考えさえ浮かばないほど打ちのめされていた。誰も信じられなくなっていた。  人気のない倉庫でひたすら段ボール箱の片づけをしながら、火のないところに煙は立つものなんだなとぼんやり思った。煙に巻かれて窒息死することだってある。  ――おれはまだ死にたくない。  ひと月後、由高は退職届を提出した。高卒でこれといった資格もない二十二歳の再就職活動は、予想通りいばらの道だった。短期のアルバイトで繋ぎながら数えきれないほどたくさんの会社の面接を受けたが、なかなか良い返事がもらえず、焦るほどに精神と靴底が削られた。  家庭に恵まれなかった由高は、父方の祖母であるサンドラに育てられた。祖母譲りの緑がかった大きな瞳と小ぶりな口元は、男にしては柔らかい印象を与えるらしく、小学生くらいまではよく女の子に間違われた。可愛いねと言われるたび複雑な気持ちになったものだが、今はその面影も消えた。  鏡に映る表情からは覇気が消え、目は落ちくぼみ、まるで幽霊のようだ。自分が面接官でも絶対に採用しないだろうと思うのに、もうどうしたらいいのかわからない。次第に面接に行こうとすると吐き気と目眩に襲われるようになり、精神的にギリギリのところまで追い詰められていた。アルバイトをする体力もなくなってしまった。  そしてついに先月、失業保険の給付期間が終わってしまった。いよいよホームレス生活が現実味を帯びてきた今夜、深夜の公園で思いもよらない出会いがあった。

ともだちにシェアしよう!