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第3話

 三戸部篤正と名乗った男にタクシーで連れていかれたのは、繁華街のビルの地下にあるバーだった。バー初体験の由高にもわかるほど、あからさまな高級感が漂っていた。カウンター席の他にテーブル席が四つあるだけの狭い店内は、シックなダークブラウンとゴールドに統一され、会話の邪魔にならない程度の音量でジャズが流れている。 「いらっしゃいませ。お待ちしていました」  黒服の店員が丁寧な所作で迎えてくれた。 「いつものお席でよろしいですか?」 「いや、今夜はテーブル席にしよう。一番奥がいい」 「かしこまりました。どうぞ」  席に案内させる途中、半年間クリーニングに出していないスーツが臭いはしないかと気が気ではなかった。 「片瀬くん、何か食べるか?」  席につくなりメニューを開き、篤正が尋ねる。 「いえ……さすがにお腹いっぱいです」  緊張気味の由高に、篤正は「だろうな」と小さく笑った。 「飲めるのか?」 「少しなら」 「何にする?」  行きつけだった安居酒屋では迷わず「カシオレ」を頼むのだが、本革製らしきメニューブックにそんな大衆向けの酒が載っているとは思えない。 「三戸部さんと同じものを」  遠慮がちに告げると、篤正は「そうだな……」と少し考え「カシスオレンジは好きか?」と尋ねた。由高は思わず「え?」と目を見開く。 「苦手か?」 「いえ、好きです」  むしろ普段はそればかりなのだが、まさか心の中を読まれたのだろうか。  ――「とりまカシオレ!」とか言うタイプには見えないけど。  どちらかというとカウンターでウイスキーのロックを傾けるのが似合いそうだ。  篤正がパタンとメニューを閉じる。 「カシスオレンジふたつ。それと、電話でお願いしたものを」 「かしこまりました。よろしければそちらのケーキ、お皿に移しましょうか」 「ああ、そうしてもらえると助かる。悪いね、持ち込みなんて」 「構いませんよ」  店員は笑顔でガトーショコラとシフォンケーキの入ったケーキ箱を受け取ると、「少々お待ちください」と去っていった。お願いしたものが何なのか、由高は知っている。篤正がタクシーの中で電話をしているのを聞いていたからだ。 「お待たせいたしました」  しばらくして店員が運んできたのは、目にも鮮やかなカシスオレンジがふたつと、それぞれ皿に載せられたガトーショコラとシフォンケーキ、そしてボトルに入った琥珀色の液体――梅酒だ。気を利かせてくれたのだろう、取り皿も用意されていた。  店員が去っていくのを待って乾杯をした。ひと口飲んで、由高は目を丸くした。 「……ん、美味しい!」 「それはよかった」  由高の知っているカシスオレンジは、微かにカシスの風味のする「ほぼオレンジジュース」だ。氷が解けるにしたがって「ほぼ水」になるので三杯飲んでもほとんど酔わない。  ところが今口にした液体は、ほんの少し含んだだけでカシスの爽やかな香りがふわりと鼻腔を抜けていく。  ――本物のカシオレって、こういう味なんだ。  感動を噛みしめていると、篤正が「さて」とフォークを手に取った。 「ガトーショコラを少しもらっても構わないかな?」 「も、もちろんです。そもそも三戸部さんのケーキですから」  ――おれが六つも食べちゃったんだけど……。  あらためて恐縮する由高の前で、篤正はガトーショコラを四分の一ほど切り取り自分の取り皿に移した。  ――指、長いな……。  背が高い人は大概手も大きい。節だった長い指が器用に動く様子を見ていると、なんだか胸のあたりがざわざわした。 「梅酒はどれくらいかければいいんだ? お祖母さんは浸していたと言っていたが」 「わりと豪快にかけていました」  サンドラはフォークで押すとケーキから梅酒が染み出すくらい浸していた。 「なるほど。よかろう」  篤正は梅酒のボトルを開けると、取り皿のガトーショコラの上に注いだ。スポンジがしっとりしてきたところで、フォークで口に運んだ。瞬間、表情が変わる。 「どうですか?」 「……美味い」 「よかったあ」  味覚は人それぞれだし好みもある。もし不味いと言われたらどうしようと内心ドキドキしていた由高は、ホッと胸を撫で下ろした。 「驚いたな。ガトーショコラが梅酒とこんなに馴染むとは。けどさすがに少し甘みが強いな」 「『ラ・スリーズ』のガトーショコラって、あんまり甘くないんですよね。昔のは今よりもっと甘さが控えめでした。カカオの味がしっかりしていて、梅酒との相性は抜群でした。カカオと梅酒って、実はすごく合うんです」 「なるほど」  篤正は何度も頷きながら、梅酒漬けのガトーショコラを味わっている。いい大人がケーキの味変に本気でびっくりする様子に、由高はちょっぴり和んでしまった。 「ちなみにそっちのシフォンケーキは、胡椒をかけると美味しいですよ」 「何? 胡椒?」  篤正が目を見開く。 「バナナの甘さが前面に来るんですけど、生地にほんのちょっとだけチーズが入っていると思うんです。だから――」  由高の説明が終わる前に、篤正は店員を呼びつけ「胡椒を持ってきてくれ」と頼んだ。  果たしてひとつまみの胡椒は、シフォンケーキの味を劇的に引き立てた。篤正は「なんてこった」とでも言いたげに、目を閉じて首を横に振った。 「驚かれましたか?」 「ああ驚いた。もしかして片瀬くんは、業界の人間か?」 「業界?」 「パティシエとかじゃないのか?」  真顔で尋ねる篤正に、由高は「まさか」と首を振った。 「普通のサラリーマンです」  正確には「でした」だけど、と心の中で付け加える。  ただ、子供の頃から飛びぬけて味覚が鋭かった。一度食べたものの味を正確に記憶できるのだ。「こんな味だった」という感覚的な記憶とは違い、原材料や調味料、スパイスに至るまで言い当てることができ、配合の割合もおおよそだがわかる。大好きなスイーツに関して、その能力は特に顕著だった。  それが「絶対味覚」と呼ばれる特殊な能力らしいと知ったのは最近のことで、子供の頃は周りのみんなも同じなのだろうと思っていた。将来仕事に生かそうと考えたこともあったが、いかんせんそれを再現する調理の技術が決定的に欠けていた。目玉焼きすらまともに焼けない驚異的な料理センスのなさのおかげで、天から与えられた特殊能力は今もって宝の持ち腐れとなっている。

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