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第4話
――そもそも仕事を選んでいる余裕なんて、なかったし。
卒業したら調理師学校に行きたい。将来への夢を描き始めた高校二年生の冬、たったひとりの家族だったサンドラが急逝した。高校卒業までの学費が用意されていたことは不幸中の幸いだったが、夢など見ている場合ではなくなった。学校の推薦で入社した会社は福利厚生もちゃんとしていて残業も少なかった。あんなことがなければ、今もまだ働いていたに違いない。
「きみは食べないのか」
ぼんやりしているうちに、篤正は自分の分を食べ終えてしまった。
「おかげさまでお腹の虫はすっかりおとなしくなりました」
「俺も甘い物はもういい。実はきみに声をかける前に、シュークリームとレアチーズケーキを平らげている。さすがにこのあたりが甘ったるくなってきた」
胸を擦りながら、篤正が店員に声をかけた。運ばれてきたボトルのスコッチが半分ほどの量になっているのを見て、由高はハッとした。
おそらく篤正は普段カシスオレンジなど頼まない。由高に合わせてくれたのだ。由高が篤正に「カウンターでウイスキー」という印象を持ったように、篤正は由高を見て「居酒屋でカシオレ」という印象を抱いたのだろう。
夜の公園で腹の虫に合唱をさせていた、よれよれのスーツ姿の青年。どう考えてもワケアリなのに、こうして自分の行きつけのバーに連れてきてくれた。
――最初ちょっと怖かったけど、優しい人なのかも。
「あの、どうしておれみたいなのに声をかけてくれたんですか」
おずおずと尋ねると、篤正は嫌味なほど長い脚をゆっくりと組み直した。
「言っただろ。隣で餓死されたら夢見が悪いからだ」
「『ラ・スリーズ』のケーキ、お好きなんですね」
「まあ……な」
その声は『美味しいですよね』と同意を求めた時と同じように、どこか曖昧でくぐもっていた。単に甘い物が食べたかっただけで、特別『ラ・スリーズ』が好きというわけではないのだろう。
「きみは、ずいぶんと思い入れがあるようだな」
「はい」
育ての親である祖母が、誕生日やクリスマスに必ず『ラ・スリーズ』のケーキを用意してくれたこと、それが何より楽しみだったことを話した。
「『ラ・スリーズ』のケーキはおれのソウルフードなんです。でも……」
言い澱む由高の顔を、篤正が覗き込む。
「飲むか?」
いつの間にかカシスオレンジが空になっていた。スコッチを勧められ、由高は「いただきます」と頷いた。滅多に口にしない強い酒が欲しい気分だった。
「でも、なんだ」
「今の『ラ・スリーズ』のケーキも、もちろん美味しいんですけど、おれが小さい頃食べていたケーキとは、ちょっと違うというか」
一瞬、篤正の手が止まったように見えたのは気のせいだろか。
今や全国規模の業界大手へ成長した『ラ・スリーズ』だが、最初は県内にある小さなケーキ店だった。サンドラとふたりで暮らしていたアパートの斜め向かいにあったその店は、いかにも町のケーキ屋さんといった感じのこぢんまりとした店舗で、優しそうなお爺ちゃんとお婆ちゃんがいつも笑顔で迎えてくれた。
サンドラの話ではその老夫婦が初代で、三十年ほど前に二代目となった長男が『(株)ラ・スリーズ』を興したのだという。それでも初代夫婦は小さなケーキ店を細々と続けていたが、由高が小学校に上がる頃、店主であるお爺ちゃんが亡くなり閉店してしまった。
「祖母は新しい『ラ・スリーズ』のケーキを買ってくれませんでした」
「味が……違うからか」
由高は小さく頷く。スコッチのロックに喉が焼けたけれど、嫌な感じではなかった。
「子供の頃に食べていた元祖『ラ・スリーズ』のケーキは、全部手作りだったからだと思うんですけど、素朴で温かみのある味でした。お爺ちゃんとお婆ちゃんの人柄が表れているのねって、祖母がよく言っていました」
グラスを傾けながら篤正が静かに頷く。小さく眉根を寄せているところをみると、やっぱり喉が焼けるのだろうか。
「今の『ラ・スリーズ』のケーキも、もちろん美味しいです。でも高級感がありすぎて、おれにはちょっと敷居が高いというか」
ガラスケースの向こうでお爺ちゃんとお婆ちゃんが『また来てね』と手を振る姿が、今も目蓋の裏に浮かぶ。もしどちらかを選べと言われたら、迷わずあの頃のケーキを選ぶだろう。篤正は手のひらでグラスを遊ばせながら「なるほど」と呟いた。
「すみません。ケーキご馳走になっておいてこんなこと。しかも六個も一気食いしておきながら言うことじゃないですよね」
篤正が俯けていた顔を上げた。視線が合うと、ふたり同時に噴き出した。
「構わない。きみはなかなか面白い」
「面白い? そんなこと言われたの、生まれて初めてです」
「亡くなったお祖母さんの話、もっと聞かせてくれるか」
サンドラの話ならひと晩中でもできる。
「おれの祖母は、スウェーデン人なんです」
「やっぱりそうだったのか」
色白で瞳がほんの少し緑がかっているので、北欧あたりの血が混じっているのではないかと思っていたという。
「小さい頃はよくからかわれました」
「子供は残酷な生き物だからな」
「でも『お祖母ちゃんと同じ色』って言われるのは嬉しかったです」
たったひとりの肉親。幼い由高にとってサンドラは世界のすべてだった。
「セムラっていうスウェーデンの伝統菓子をご存じですか?」
「イースターの時に食べるやつだな」
カルダモン風味の甘いパンをくり抜き、そこへアーモンドペーストを入れ、上にホイップクリームをかけて食べる、コロコロとした愛らしい丸形のパンだ。見た目は小さめのシュークリームに似ている。その昔は四旬節の断食の時にだけ食べられていたらしいが、現在はクリスマス明けになるとスウェーデン中の洋菓子店に並ぶらしい。ここ数年日本でも時折目にするようになった。
「お店がなくなる前の年、祖母が『ラ・スリーズ』のお婆ちゃんにその話をしたそうなんです。『セムラは私のソウルフードなの。でも日本に来てからは一度も食べていない。いつかまた食べてみたい』って」
由高の前では、サンドラはいつも明るく気丈だった。けれど異国の地でたったひとりで孫を育てる苦労や不安は想像に難くない。店長夫妻が片瀬家の事情をどこまで知っていたのかはわからないが、いつ行ってもまるで家族のようにとても温かく迎えてくれた。
「祖母は世間話のつもりだったみたいなんですけど、次に行った時、ショーケースの片隅になんとセムラがあったんです」
今日と同じくらい寒い日だった。『ふたつください』と財布を開こうとするサンドラを、店長が止めた。
『これはあなたたちへのプレゼントとして作ったんだから、お代はいりません。いつもケーキを買いに来てくれてありがとう』
その言葉にサンドラは涙した。彼女が由高に涙を見せたのは、後にも先にもその一度だけだった。
「翌年お爺ちゃんが亡くなって『ラ・スリーズ』は閉店してしまいました。だからあれは祖母にとって、日本で食べた最初で最後のセムラだったんです」
シャッターの閉まった『ラ・スリーズ』の前に立つサンドラの寂しそうな顔を、由高は今も忘れることができない。
「アパートに帰ると、祖母が牛乳を温めてくれました。なんていう食べ方だったかな、えーっと、確かヘート……ヘート……」
「ヘートヴェッグ」
「そうです! ヘートヴェッグ!」
思わず声が弾んだ。
「詳しいんですね。三戸部さん、スウェーデンに行ったことあるんですか?」
「いや、ない」
「実はおれもないんです。祖母の祖国ですから、いつかは行ってみたいなあと夢見ているんですけど……」
仕事が見つからないまま来週にはアパートを出なければならない。今の由高には海外旅行など夢のまた夢だ。
「夢というのは、諦めずに思い続けているといつか叶うらしいぞ」
「……え」
「どうせ行かれないと決めつけず、周りにも『いつかスウェーデンに行きたいんだ』とアピールしておくんだ」
「アピール、ですか」
「例えばだ。会社で誰かひとりスウェーデンに行かせることになったとする。さて誰を行かせようと考えた上司は『そういえばあいつ、行きたいと言っていたな』と、真っ先にきみの顔を思い浮かべるだろう。日頃から『行きたい』『興味がある』とアピールすることで、少なくとも候補に入れてもらえる可能性は格段に高まる」
「そういうものなんでしょうか」
「社員が思っている以上に、経営者というのは彼らのやる気を重く見ているものだ」
篤正は、まるで自分が社長か経営者であるかのように持論を口にした。
もし同じことをハローワークの職員に言われたら、きっと違う感情を抱いただろう。いつかって一体いつですか? 機会が巡ってくると、どうして断言できるんですか? 仕事が欲しい、くださいと精一杯アピールしているのに、なぜチャンスは一向に巡ってこないんですか? そんなふうに鼻白んだに違いない。
けれど篤正の言葉は、不思議なくらい由高の胸に沁みた。極度の空腹を満たしてくれた人だからかもしれない。サンドラの国の伝統菓子を知っていたからかもしれない。
――それに……。
篤正がグラスを傾ける。喉仏がゆっくり上下する様に、ドクンと心臓が鳴った。
「どうした。俺の顔がそんなに好きか?」
「ああっ、いえっ、じゃなくて、はい」
――それに、めちゃくちゃ素敵な人だし。
我知らず篤正の顔をじっと見つめていたらしい。由高は慌てて視線をテーブルに落とし、グラスのスコッチを呷った。
「どっちなんだ」
「すみません」
「答えになっていないな」
ニヤリとしながら篤正が身を乗り出す。由高は反射的に身を引いた。
――こ、この人絶対、自分がかっこいいってわかっててやってる……。
由高が何を思って自分を見つめていたのか、わかっていて訊いているのだ。
「三戸部さん、モテるでしょ」
「ああ。モテる」
あまりに素直な返答に、由高は噴き出してしまった。顔色は変わらないが、いくらか酔っているのかもしれない。
「半端なくモテそうです」
「確かに迷惑なくらいモテるな。そっちだってモテるだろ?」
「へ? おれですか?」
思いがけない返しに、由高は目を瞬かせる。
「そのミステリアスな瞳で、女の子を口説いたりしてるんじゃないのか?」
「してません。ていうかおれはまったくモテません」
「本当かなあ」
「本当ですってば」
変な色の目と、子供の頃はよくからかわれたが、ミステリアスなんて言われたのは初めてのことだった。
「超イケメンな上に褒め上手だなんて、そりゃあモテますよね。モテて当然です。モテ要素爆盛りですもん。丼からイクラが溢れてます」
「なんだそれは」
「三戸部さん欲張りすぎです。ずるいです。世の男たちの敵です」
「何言っているんだか。さてはお前、酔っぱらってるな?」
「きみ」から「お前」に変わったのは、格上げなのか格下げなのかわからないけれど、篤正との距離が縮まったみたいで嬉しかった。
「こ~んな強いお酒飲んで、酔っぱらわないわけないじゃないですか」
由高は、あははと笑う。篤正も笑った。
「お前の言う通りだ。ちなみに明日は休みなのか?」
「はい」
明日だけじゃなくずーっと休みですけど。
「よし。それなら今夜はとことん飲むぞ」
「いただきます」
「飲みすぎるなよ?」
「手遅れですね」
天井が回っている。メリーゴーラウンドみたいですごく楽しい。篤正も楽しそうで、それがとても嬉しかった。高校卒業と同時に働き出した由高にとって、酒を飲む相手はいつも上司か同僚だった。仕事の愚痴や、時に説教を聞かされながら飲む酒を、心から美味しいと思ったことは一度もなかった。
――お酒って、誰と飲むかで味が決まるんだな。
モテるだのモテないだのと他愛もない話をしながら酒を酌み交わし、笑い合う。こんなに楽しい夜を過ごすのは、生まれて初めてだった。
――時間が止まればいいのに。
本気でそんなことを願ってしまうほど、気分が高揚していた。
「なあ、片瀬くん」
「あいっ」
「あのなあ、そんな可愛い返事をすると、誘拐されるぞ」
「可愛い? 誘拐? 三戸部さんこそ酔ってますね?」
「こんな強い酒カパカパ空けてるんだ。酔っていないわけないだろ」
「ですよね~」
「あはははは」
「あはははは」
――神さま、人生最高の夜をありがとうございます。
心で手を合わせたら、メリーゴーラウンドが急にスピードを上げた。ぐらりと身体が傾ぐ。
「おい、大丈夫か」
「らいじょ~ぶ、れす」
「水を飲め」
差し出されたチェイサーを掴もうとした手が、空を切った。
「ありゃま」
「おいっ」
天井だけでなく店全体がぐるぐる回り出す。急激に眠気が襲ってきて、由高は意識を手放した。
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