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第5話

 胃のむかつきと喉の渇きで目が覚めた。ゆっくりと目を開く。天井がやけに遠い。壁のあちこちに染みがない。築三十五年の自宅アパートでないことはすぐにわかった。  ――どこだ……ここ?  起き上がろうとすると、頭の奥にぐわわんと寺の鐘のような痛みが響いた。 「っ……」  思わず両手で頭を抱えた。体調は最悪なのに、なぜかやけに寝心地のいい布団の中にいる。重力を無視した軽さは間違いない、憧れの羽毛布団だ。そしてつるつるした触り心地の布団カバーはおそらくシルク。由高自身も同じシルクのパジャマを身に着けている。  焦り気味に昨夜の記憶を手繰る。昨日は午前に一件、夕方に一件、面接があった。どちらの会社も手ごたえはゼロでひどく落ち込んだ。電車賃がもったいなくて二十キロ近い道のりを徒歩で帰宅することにした。途中で日が落ち、夜になり、お腹が空いて歩けなくなった。ビジネス街の小さな公園のベンチに腰を下ろしたら、そのまま動けなくなってしまって、お腹が鳴って……。  三倍速で記憶が蘇り、由高はひゅっと息を呑んだ。  ――ここ、三戸部さんの家だ。 『大丈夫か。もうちょっとだからな!』 『ぎもぢわるいですぅぅ……うえっ』 『待て待て! トイレまで我慢しろ!』  玄関からトイレまで運んでもらったことを思い出した。  ――間に合ったのかな。間に合わなかったのかな。  必死に記憶を辿っていると、部屋の扉が開いた。 「よう。起きたか」 「お、おはようございますっ」  ゆるゆるのパジャマの胸元から乳首が見えそうになっている。思わず前立てを整えると、篤正がふんっと鼻で笑った。 「気分はどうだ」 「大丈夫です――うわっ」  ベッドから下りようとして、足をもつれさせた。床に転がる寸前で、篤正に抱き留められた。その腕の力強さに身体がかあっと熱くなる。  頬に当たる胸板が厚い。しなやかな筋肉の感触がやけに生々しくて、思わず身を捩って長い腕から逃れた。一瞬驚いたような顔をした篤正だが、すぐにその端整な目元を緩めた。 「まだ酔っているのか」  呆れたように嘆息する篤正は昨夜のスーツ姿ではなく、黒のセーターにコットンパンツという部屋着姿だった。ラフな格好をしても、やはり目が覚めるほどの美男子だ。 「……すみません。大丈夫です」  勝手にドクドク鼓動を速めている自分を恥じた。篤正は転びそうになった自分を助けてくれただけなのに――と、思ったのだが。 「心配するな。何もしていない」 「……へ?」  どういう意味だろう。きょとんと首を傾げる由高に、篤正はやれやれと肩を竦めた。 「そんなことだろうとは思ったが、やっぱり覚えていないのか?」 『ねーねー、三戸部さん。こーゆーのを世間では〝お持ち帰り〟ってゆうんですよね? おれ、お持ち帰りされるの初めてなんですよね~。ちょー緊張します』 『もうしゃべるな。吐くぞ』 『お持ち帰りどころかぁ、二十二年間誰とも付き合ったことがない、それはそれは清~い身体なんです。でも、いいですよ? 三戸部さんかっこいいし優しいし。でへ』 『片瀬くん』 『由高でいいですよ』 『ちょっと黙って――』 『うう……またぎもぢわるぐなってぎだ……』 『だからしゃべるなと言っただろ~~っ』  タクシーの中でのやりとりを淡々と語られ、由高は目眩を覚えた。  ――おれのバカ……。  訊かれもしないのに自らゲイだと告白するなんて。 「ご、ご迷惑をおかけしました。なんとお詫びすればいいのか」  腰を九十度に折ったら、また頭の中で鐘が鳴った。 「うっ……」 「絵に描いたような二日酔いだな」 「本当に申し訳ありませんでした。穴があったら入りたいです」  え? と目を眇める篤正に、全身の毛孔から汗が噴き出す。 「ああっ、穴って、変な意味じゃないですから。つまりそれはものの喩えで」 「別に何も言っていないだろ」 「本当に本当に、すみませんでした……」  勝手に自滅していく由高に、篤正は小さくため息をついた。 「気にするな。調子に乗って飲ませた俺も悪い。とりあえず起きられるなら起きてこい。朝飯を用意してある」 「そんなっ、朝ご飯なんて。どうかお構いなく」  これ以上迷惑をかけられないと恐縮しまくる由高に背を向けた篤正は、ドアノブに手をかけながら衝撃的な台詞を放った。 「汚れたスーツはクリーニングに出しておいた。飯を食い終わる頃には届くだろう」 「っ!」 「着替えはそこに用意しておいた。俺のだからサイズが合わないだろうが我慢してくれ」  軽やかに言い残し、篤正は部屋を出ていってしまった。  ――間に合わなかったのか……。  由高はもう一度頭を抱え、己のアホさを死ぬほど呪った。 「うわあ」  篤正サイズのぶかぶかのスエットに着替えた由高は、ダイニングに入るなり感嘆の声を上げた。テーブルに並べられたのは美しくカットされた色とりどりのフルーツ。 「これ、全部三戸部さんが?」 「他に誰がいる。料理はしないが果物を切るくらいのことはできる」  二日酔いの由高のために篤正が用意してくれたらしい。  ――こんなにたくさんのフルーツが家にあるなんて……。  オレンジ、パイナップル、キウイ、マンゴー、なぜだかわからないけれど、むらさき大根の胡麻まぶしもある。りんごひとつ買えない暮らしが続いている由高にとって、目の前に広がる光景は南国の王様の食卓のように見えた。 「あの、ご家族は……」 「ひとり暮らしだ」  それを聞いて安堵した。もし家族がいたら、直ちに昨夜の痴態を謝らなくてはならない。  ――それにしても広い部屋だなあ……。  リビングとダイニングだけで三十畳以上あるだろう。他に少なくとも篤正の寝室と由高が泊めてもらった部屋がある。窓から見える光景から推測するに、かなりの高層マンションの上層階だ。昨夜の服装といい、篤正は相当裕福なのだろう。 「食欲がないなら無理に食べなくてもいいぞ」  深夜のバーでグラスを傾ける姿もため息が出るほど素敵だったが、明るいダイニングでコーヒーを飲む姿もうっとりするほど様になっている。 「今の今までなかったんですけど、急に湧いてきました」 「それを聞いて安心した。好きなだけ食べなさい」 「それではお言葉に甘えて……」  昨夜から何度同じ台詞を口にしただろう。強烈なデジャブを覚えながら、由高は次々にフルーツを平らげていった。 「ところで昨日の話なんだが」  むらさき大根をフォークで刺す由高の向かい側で、篤正はコーヒーカップをソーサーにカチャリと置いた。 「お前、昔の『ラ・スリーズ』の味を、よくはっきりと覚えていたな」 「昨夜言ったように、『ラ・スリーズ』はおれのソウルフードで――」  そうじゃない、と篤正は首を振った。 「元祖『ラ・スリーズ』のケーキは、素朴で温かみのある味だったとお前は言った。だったようなとか、気がするとか、曖昧な言葉を使わなかった。つまりお前は今でもはっきりと子供の頃に食べたケーキの味を思い出すことができるんじゃないのか? だからこそ今の『ラ・スリーズ』の味が、昔と違うとわかるんだろ?」  篤正がぐっと身を乗り出す。熱の籠った瞳に、朝から心臓の動きが慌ただしい。 「実はおれ、他人より味の記憶が正確みたいなんです」  篤正の目が大きく見開かれた。 「絶対味覚ってやつか」 「そんなふうに呼ぶ人もいるみたいですね」 「やっぱりそうだったのか」  篤正は椅子の背もたれに背中を預け、大きく頷いた。  業界の人間でもないのに味覚が鋭く、思い出のケーキとはいえ十五年以上昔の味をやけにはっきりと覚えている。篤正は「もしや」と思ったのだという。 「もう一度訊くが、お前は料理人でもパティシエでもないんだな?」 「違います」 「そんな特殊な才能を持っているのに、なぜならなかった」 「才能だなんてそんな」  由高は照れながらむらさき大根を口に運んだ。  ――ん? なんか味が……。 「もったいない!」  篤正がバン、と両手をテーブルに置いた。驚いた由高は口の中のむらさき大根を呑み込んでしまった。 「宝の持ち腐れだ。天から与えられた才能をなぜ生かそうとしないんだ」  ――天から与えられた才能か……。  由高は小さく嘆息し、フォークを置いた。 「本当にそんな大層なものじゃないんです」 「謙遜は無意味だ」 「謙遜なんてしていません。たとえば今食べたむらさき大根の味ですけど」 「むらさき大根?」  篤正がきょとんと目を瞬かせた。 「このむらさき大根は、おれの知っているむらさき大根とまったく味が違いました」  黒い粒々はてっきり胡麻だと思っていたが、胡麻ではなく何かの種のような味がした。 「むらさき大根は保育園の頃に一度食べたきりですが、どんな味だったか今でもはっきりと覚えています。こんなに甘くなかったし、フルーティーでもありませんでした」  篤正は何かを言いあぐねるように「……だろうな」と頷いた。そして腕組みをしたまま唇に拳を当てると、笑いをこらえるように肩を震わせ呟いた。 「味覚以前の問題か」 「……え?」 「いや、なんでもない」 「とにかくそういうことがわかるだけ。それだけのことです。味覚が人より多少鋭くても、味の記憶ができても、おれにはそれを生かす料理のセンスがありません」 「料理というのは慣れだ。毎日続けていれば徐々に上手くなる」 「子供の頃から練習はしています。けど今もって上達の兆しすら見られません」 「努力は続けてこそ意味が――」 「十年練習しても目玉焼きがまともに焼けません。というか卵を壊さずに割ることができません。野菜炒めは、炒める前に必ず指を負傷します。炒める段階に漕ぎつけたとしてもかなりの確率で火傷をします。あまりに事故が多いので、中学の調理実習では、先生に調理台に近づくことすら禁止されました」  片瀬くんは怪我するといけないから見学ね。毎回すまなそうにそう言われた。決して勉強ができなかったわけではないのに、家庭科だけはいつも目を覆いたくなるような成績だった。どんなに頑張っても逆上がりができない子供がいるように、由高は今も料理が壊滅的に下手だ。 「体育の見学は珍しくありませんが、調理実習の見学なんておれ以外に聞いたことがありません」  不器用で済まされるレベルではない。神さまは由高に絶対味覚という特殊な能力を与える代わりに、料理に関するセンスと技量の一切を奪ったのだろう。  さすがに返す言葉がないようで、篤正は唖然とした顔で由高の独白を聞いていた。 「味見だけの仕事なんて、どこにもありません」  そんな都合のいい仕事をさせてくれる会社があるなら、とっくに門を叩いている。世の中はそんなに甘くないのだと項垂れた時だ。 「あるぞ」  その声に、由高はのろりと顔を上げた。 「お前のその天賦の才能を生かす仕事がある。由高」 「はい……あ、えっ?」 「名前で呼べと言ったのはお前だろ」 「ああ、そう……でしたね」  記憶はないけれど。戸惑う由高に、篤正はどこか楽しそうだ。 「お前のその天賦の才能を、最大限に生かせる仕事を俺は知っている。『ラ・スリーズ』に入社しろ」 「『ラ・スリーズ』に?」  訝る由高に、篤正は自分が『ラ・スリーズ』の人間だと打ち明けた。 「なあんだ、だから昨夜『ラ・スリーズ』のケーキを食べて――あっ」  由高はひゅっと息を呑んだ。 「ごめんなさい。おれ、失礼なことをたくさん言っちゃって」 「失礼なことを言われた記憶はないが?」 「でも部外者のくせに余計なことをいろいろと……すみませんでした」  敷居が高いとか、昔の方が美味しかったなんて言われたら、不愉快になって当然だ。しかし篤正は気分を害した様子もなく、それどころか若干興奮気味に瞳を輝かせている。 「余計なことを言われた覚えもない。隠すつもりはなかったんだが、社外の人間の忌憚のない意見を聞きたかったんだ。――なあ、由高」  しっとりとした低い声で呼ばれ、身体がビクンと竦んだ。 「『ラ・スリーズ』に入れ。お前の才能を生かす場所を用意すると約束する」 「でも……おれ、高卒です」 「学歴は不問だ。人事権は俺にある」 「じ、人事部の方だったんですかっ」  人事と聞くと反射的に背筋がシャキンと伸びる。就活病だ。 「人事部……ではないが、人事権はある」  どう見ても三十代くらいにしか見えないが、篤正はそれなりの地位にあるらしい。  ――役付きだったりして。  だからこんな高そうなマンションに住めるのだろう。 「『ラ・スリーズ』は県内一の大手企業だ。業界でもトップクラスだ。福利厚生もしっかりしているし、給与もそれなりに保証する」 「福利厚生……」  非正規の肉体労働も視野に入れている由高にとって、今この世で一番魅力的な四文字だ。この半年間に舐めた辛酸の数々が脳裏にまざまざと蘇り、心がぐらりと傾いだ。 「面接を……していただけるんですか」 「面接? そんなまどろっこしいことはしない。俺が直接人事に話を通す」 「え、じゃあ、入社試験とかは」 「必要はない。お前には才能があると俺が知っていればいい」  由高は思わず眉根を寄せた。 「それってつまり、コネ入社っていうことでしょうか」 「コネ? まあ、広義のコネになるのかもしれないな」  そんなことはさしたる問題ではないと言いたげな口調に、傾きかけていた心がすーっと元の位置に戻った。 「大変ありがたいお話なのですが、遠慮させてください」  篤正の眉がぴくりと動いた。 「なぜだ。うちのケーキがソウルフードなんだろ?」 「コネはダメです。嫌です」  サンドラは大らかな人柄で滅多なことで怒ったりしなかったが、ズルいことをしようとした時だけは厳しかった。お天道さまの下を堂々と歩けなくなるような生き方だけはするなと、幼い由高はいつも言い含められていた。 「コネ入社なんて珍しいことじゃない」 「でもズルです」  篤正が「ズル」と乾いた声で失笑する。 「百万年ぶりに聞いたわ。小学生じゃあるまいし」 「小学生でも大人でも、ズルはダメだと思います」 「そんな融通の利かない考えだから、仕事が見つからないんじゃないのか? 失業中なんだろ?」  篤正はやはり気づいていた。よれよれのリクルートスーツに擦り切れた革靴。コートも羽織らず夜の公園で腹を鳴らしていたのだから、失業中ですと首から看板を下げているようなものだ。 「世の中はそんなに四角四面じゃない。時には頭を柔軟にしてだな」 「頭が固くてすみません。でもお断りさせていただきます」  どんなに苦しい状況に追い込まれても、ズルだけはしたくない。『ラ・スリーズ』のケーキは大好きだけれど、コネで就職なんかしたら死んだサンドラが化けて出る。 「昨夜は本当に楽しかったです。ケーキとお酒、ご馳走さまでした。それと、泊めていただいてありがとうございました」  由高は深々と頭を下げると、篤正は慌てたように立ち上がった。 「ちょっと待ちなさい。クリーニングに出したスーツがまだ――」 「このスエットをお借りしていいですか?」  由高のヨレヨレスーツより、このスエットの方が高いに違いないけれど、そこは目を瞑ってもらいたい。 「ダメだ。貸さない」 「え?」 「サイズが合っていないだろ。返しなさい」  駄々っ子のような拒絶に、思わず笑ってしまいそうになる。 「わかりました。裸で帰ります」  スエットを脱ごうとすると、「待て! 脱ぐな!」と篤正が止めた。 「貸す。というかお前にやるから落ち着け」  落ち着いた方がいいのは篤正の方だ。 「ありがとうございます。洗濯して後日お返しします」  玄関に向かおうとすると、「ちょっと待ってくれ」と行く手を塞いだ。 「どうしてもダメなのか」 「申し訳ありません」  弱り果てたように眉を下げる篤正も、やっぱり猛烈にかっこいい。由高は胸のときめきを押し隠して首を横に振った。 「いろいろとご迷惑をおかけいたしました。このご恩は一生忘れません」  もう一度深く一礼し、玄関に向かう。篤正はそれ以上引き留めなかった。

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