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第9話
一心不乱に手を動かしていたものだから、すぐ近くで声をかけられるまでその存在に全く気がつかなかった。
「純、何してんの」
「ホモ村‥‥」
顔を上げると、ズボンのポケットに手を突っ込んだ北村が、困ったように微笑みながら俺を見下ろしていた。
さっきまではまだ数人残っていたのに、気付けば教室には俺ひとりとなっていた。窓から外を見ると怖いくらい赤い夕焼けが重たそうに空に滲んでいる。差し込む日差しが、机や椅子や壁を赤々と照らす。もう日が沈むのか。
「お前に押し倒されたのも放課後の教室だったな」
ぼんやりと外を眺めながら何気なく言うと、俺の前の席に腰掛けた北村が軋むような声で「あの時は‥‥ごめん」と言った。
外から北村の顔へと視線を移すと、北村もゆっくりと視線を合わせた。
「勝手だよな、ほんと」
そんなつもりはなかったのに、咎めるような声色になってしまった。
健人の顔が過る。オレンジの滲んだあの靴下を、今日は履いてきていた。
「勝手だよ。お前らほんとに勝手だ。勝手にしろとは思ってたけど、なんかもう釈然としねーわ」
「純?」
視界が歪む。赤く照らされた教室がゆらゆらと揺れて崩れていく。それでも袖で目元を拭い、クレヨンを手に取りさっきの作業を再開した。
北村は訝しげに俺を見て、それから机の上に置かれた画用紙を見た。
「それ何してんの」
「塗ってんだよ見りゃわかるだろ」
「塗り潰してるように見えるんだけど」
俺の右手には黒いクレヨンが握られ、既に画用紙の4分の1は黒に染まっていた。端に僅かに残った元の絵も、あと少しで塗り潰される。
短くなって持ちづらいクレヨンをなんとか握り締めながら、俺は壊れた機械のように話し始めた。親父とババアのこと、その連れ子のクソめんどくせーガキのこと、そいつらとの生活は、一年にも満たず終了したこと。
北村は黙って聞いていた。画用紙は真っ黒になった。
とり憑かれたように動かしていた右手を机の上に投げ出すと、軽く指先が痙攣していた。
「昔から女とっかえひっかえしてて、いきなり紹介されたかと思えばあんなクソビッチで、おまけにガキはうるせーし。殺してしまおうかと毎日考えてた。ホモ村、お前のキンタマも俺は想像の中で何度も潰した」
北村は力なく笑う。
「‥‥あいつ、絵、描いてて」
「絵?」
「宿題のくせによ、提出しないで勝手に俺の部屋飾ってんの。クラムボンが笑った絵描けって宿題なのにあいつ‥‥バカだから、なんかわけわかんねー人間描いて」
それ、純を描いたんじゃね? と北村が感動のドキュメンタリー番組の感想のように言う。その言葉を無視して、俺は黒く汚れた指先を擦り合わせながら続けた。
「俺がクレヨン取り上げちゃったからさ、普通の鉛筆で描いてあって、まじ味気ねーの」
「お前な‥‥」
いじめてたのかよ、と今度は呆れたように嘆息しながら言う。なんとなく気が付いた。こいつは、そんなつもりはなくとも自然とドラマのような言動をしてしまうやつなんだ、きっと。本人は至って真剣なのだろう。真剣に心配して真剣に感動して、真剣に‥‥俺を思ったのだろうか。
独り言のように俺は話し続ける。
「なんかもう‥‥すぐ捨てようかと思ったんだけど、捨てらんなくて」
「え、まさかその塗り潰した絵‥‥」
「ちげーよ、これは俺の描いたやつ」
画鋲から外したあのあと、健人の絵はすぐにまた元の場所に戻した。わけわかんねー人間は、今も俺の部屋で笑っている。
「悲しいとか寂しいとかじゃないんだ、たぶん。俺はババアがいなくなって清々してるくらいだし。でも、あいつ、あいつは‥‥」
言葉に詰まる。汚れた指先を擦り合わせるうちに、ふたつの小さなつむじを押したあのやわらかな感触が蘇ってきた。
ただ単純に思う。
あぁ、俺はあいつと、兄弟になりたかったんだ、と。
「あいつさぁ、ババアいない時これからどうすんだよ。泣いてる時誰か傍にいてくれるやつがいるのかよ。ひとりじゃんか、ジュース零したって汚したってもう俺片付けてやれねーじゃんか、って思うともう‥‥ムカつく‥‥」
零れた涙が画用紙に滴れないように椅子の上で体育座りをしてその膝に顔を埋めた。
「なんだよ、借金て。どうすんだよあいつ。この先まともな生活できんの? できねーよな。お先真っ暗じゃん、北村より、俺より真っ暗じゃん。俺は高校生だからいいよ、ひとりだってどうにでもなるよ。でもあいつ、あいつはまだ小学生で、親がクソビッチでも借金まみれでもなんでも着いていくしかなくて、なんも知らねーやつをパパとか兄ちゃんとか言ってさ、しょっぼいクレヨンしか買ってもらえなくてさ‥‥なんなんだよ‥‥」
ガタン、と勢いよく椅子が倒れる音がした。
「真っ暗、かもしれないけど」
至近距離で声がしたかと思えば、俺の真横に立った北村に抱き締められていた。
こいつは本当に‥‥ドラマみたいだ、とバカにする気力はもうなかった。現実なんだ、全部。
「俺は結婚も子どももできないかもしれないけど、でも、‥‥好きなやつがいれば、真っ暗でも怖くない、つーか真っ暗なんかじゃねーよ」
抱き締める腕に少しずつ力が入っていく。
「お前の弟も、真っ暗なんかじゃないって。お前が‥‥兄貴が、いたんだ」
北村は嗚咽を漏らしながら泣いていた。もはや俺よりも泣いていた。なんだこいつ。ドラマチック北村、と芸名のようなものが頭を過り、俺はつい噴き出してしまった。
「純‥‥」
「そうだといいのにな」
本当はそんな綺麗事でどうにかなる現実なんか、一握りもないということも、知っている。だけど、そう言うしかなかった。だってもう会えない。どこにいるのかもわからない。願うことしか、できない。
向けられた笑顔にも差し出された手にも、何ひとつ、応えてやることができなかった。それでもあいつは俺を兄ちゃんと呼んでくれた。だから――
許されるだろうか。こんなしょうもないクズみたいなやつだけど、兄貴として、あいつの未来を、幸せを願うことは、許されるだろうか。
北村の腕を解き、机に置かれた真っ黒の画用紙に目を向けた。ギッ、と椅子を机側に寄せながら座り直し、机の中からコンビニの割り箸の袋を取り出した。
北村は鼻を啜りながらまた俺の前の席に座った。
「ガキの頃、よくやんなかった?」
そう言いながら、割り箸の袋から取り出した爪楊枝を画用紙の上に突き立てた。
尖った先端をスルスルと滑らせると、塗り重ねられた黒のクレヨンが削り取られ、下に描かれた元の色が出てくる。赤、黄、青、緑と次々に色を変え、細い線をカラフルに彩っていく。
「それ、下に何描いてあったの?」
「なんも。ただテキトーにいろんな色を塗ってっただけ」
「ステンドグラスのような?」
「きもいよお前」
「な、なんで」
ふ、と笑いながら爪楊枝を走らせる。何描いてんの、と相変わらず北村がうるさかったが、ちょっと待ってろと言って描き続けた。
クラムボンは死んだよ。
死んでないよ。
そうだな、死んでないな、クラムボンは笑ったんだ。
そう言ってやれたらよかったのに。
出来上がったヘタクソな絵は、同じくヘタクソな健人の絵の隣に飾った。ふたつ並んだいびつな顔が、笑っていた。
完
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