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第8話

 家に入った瞬間、妙な違和感が足元を靄のように漂った。その違和感がなんなのか、考えるよりも早く、それは急速に形を帯びて俺の中に飛び込んでくる。  何かを急かすように、警報のように、強く心臓が鳴った。それでも俺の足はいつも通り‥‥いや、いつもよりゆっくり、その動作を自分自身に確認させるように、靴を脱ぎ廊下を歩いていく。靴下越しに伝わるひんやりとしたフローリングの感触が、どこか非現実的だった。  リビングに行くと、昼間だというのになぜか親父がいた。テーブルに突っ伏し、足元にはビールの空き缶がいくつか転がっている。  醜く赤らんだ顔を上げた親父は、帰ってきた俺を見るなり歪な笑みを浮かべ、最初からどうもおかしいと思ったんだ、と言った。  何が、と問う前に親父はぼろぼろと言葉を零していく。厄介なことに巻き込まれる前に気付いて良かった、あのクソ女騙しやがって、と。  昼間っから酒飲んで何やってんだこいつ、という疑問は既にどうでもよかった。さっきから感じていた違和感の正体が、その存在を主張するように胸の内を叩く。  閑散とした玄関と室内。それはとても馴染みある光景だった。ババアと健人が来る前の、懐かしい、俺の日常。 「‥‥ふたりは?」  静かに訊ねた俺の声に親父は口の端で笑い、出てったよ、と言って手にしていたビールの缶を傾けたが、空だったらしく、ふらふらと立ち上がり足元に転がっていたビニール袋からもう一本取り出し、倒れこむようにソファに座った。  覚束ない手でプルトップを開けた瞬間、結露で濡れた缶が滑って床に落ちた。ドクドクと流れ出るビールがフローリングの床に広がる。ぼんやりとそれを眺めていると、舌打ちが聞こえた。立ち上がった親父は、寝る、と言って寝室へ消えていった。零れたビールは傷口から溢れる血のようだった。  酔った親父の口から紡がれた言葉を頭の中で繋ぎ合わせながら、床を拭いた。  ババアは複数の金融業者から多額の借金をしている、所謂多重債務者だったそうだ。どういうわけか、親父の会社に業者から電話が来たことでそのことが発覚した。そのまま親父はババアに連絡し、家を出ていくように告げた。離婚も何もない。ふたりは籍を入れていなかったのだ。  床を拭いたタオルをごみ箱に投げ入れ、転がっている缶を黙々とビニール袋に入れていく。  そんなもんだ。欲の塊のようなヤニ臭い黄ばんだ歯のオヤジと肥えた体のババア。中年ふたりの愛は、金の重さに負けましたとさ。  責めるつもりはない。金は大切だし愛は嘘くさい。どうだっていい。一番最初にも思ったが、勝手にやってろ、だ。  ふたりの荷物は最初から何も無かったかのように綺麗に消えていた。ババアのストッキングも脱ぎ散らかされた派手な靴も服も。  空き缶を捨てにマンションのゴミ捨て場に行くと、健人の僅かばかりのオモチャが乱雑に地面に捨ててあるのを見つけた。何かのキャラクターのカードと、よくわからない、電池で動くプラスチック製のカラフルなオモチャ。俺はそれを拾い上げ、ゴミ箱へと投げ入れた。  少しばかり広くなったように感じる我が家を見渡す。何も無くなった中、ババアの香水の香りだけがしつこく残っていた。いつか嗅いだ健人のあの幼い匂いは、ババアの匂いにかき消され、もう思い出すこともできなかった。  たんぽぽの綿毛を吹き飛ばす唇オバケがケタケタと笑う。  清々した。それが正直な感想だ。酔いも夢もいつか覚める。わかっていたことだ。  リビングの床に放り出したままだった鞄を拾い、自室に向かう。  これであのゴミ溜めのような日々からも抜け出せる。呼吸だってもっとしやすくなる。健全な日々が、戻ってくる。  次から次へと浮かんでは消えていく言葉が、雑音のように頭の中を渦巻く。清々した、確かにそう思ってるはずなのに、それを言葉にするたび心が軋むような音を上げる。不協和音が増していく。  煩わしい。欝陶しい。もういい、もう考えたくない。  振り切るように乱暴に自室のドアを開け足を踏み入れた瞬間、飛び込んできた光景が突風のように体を突き抜けた。  雑音も不協和音も消え去り、静寂に包み込まれる。そこにあるモノに、全ての意識が奪われる。  勉強机のすぐ前の壁に貼ってある、丸まった癖のついた画用紙。見覚えのあるそれは、いつかあいつが持っていた‥‥  ――健人。  一瞬だけ、あいつの匂いがした気がした。  誘われるようにふらふらと歩み寄る。それは壁に直接画鋲を刺してとめてあった。  あのクソガキ、ここ賃貸だぞ。心の中で毒づきながら画鋲を外そうと手を伸ばすと、微かにその手が震えていることに気が付く。鎮めるようにギュッと握りこぶしを作り、もう一度ゆっくりと開く。  外した画用紙をそっと両手のひらに乗せた。 「‥‥すげーヘタクソ」  独りごちた声が部屋の中にぼんやりと浮かび、誰に届くこともなく消えていった。  忘れていたわけじゃない。酔いも夢も、いつか覚める。わかっていたことなのに。

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