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第7話
「兄ちゃんー、宿題やろー」
ソファに寝転んでいると、丸めた画用紙を抱えた健人が腰の上に跨がってきた。俺はそれを押し退けソファの下に叩きつける光景を想像をする。想像するだけだ。実際はただ無表情に健人の顔を見上げていた。
ここ最近、健人は泣かなくなった。ババアと離れる間際は少し半ベソをかいているが、耐える、ということを覚えたらしく、怪獣のように喚き散らすことはなくなった。しかし寂しいことには変わりないのか、ババアがいない時はこうして俺にまとわりついてくる。どっちにしろ迷惑な存在だ。
「宿題ー宿題ー」
「自分でやれよ」
健人のくの字に折られた足を見ながら言った。ハーフパンツから伸びた、まだ毛もほとんど生えていない日焼けしたふくらはぎがなんとも子どもらしくて、つねってやりたくなった。
「一緒にやろうよーねーねー」
「揺れるなよ、ババアそっくり」
「え?」
「お前のババアも今頃こんなふうに腰振ってんだよ」
「ママも!? 仲間だー俺と一緒だー!」
意味もわからずはしゃぐ健人にクソビッチが、と呟きようやく起き上がった。
「宿題って」
腰の上から健人を降ろし隣に座らせ、あくび混じりに聞くと、健人はずっと手にしていた画用紙をそそくさと開き始めた。
「クラムボンが笑ってる絵描くんだ」
「‥‥なにが笑ってるって?」
「クラムボン!」
なんだそれは。プランクトンの仲間か? 怠そうに何それ、と問い掛けると、健人は立ち上がり、傍らに置きっぱなしにしていたランドセルから国語の教科書を取り出した。そこには宮沢賢治の『やまなし』が載っていた。
「あーこれ。知ってる。俺6年でやった気がする」
いつか健人が言っていた『かぷかぷ』とはこれのことか。少し懐かしくなって口の端で笑うと、健人は嬉しそうに笑い、クラムボンが笑った絵を描くんだ、と言った。そもそもクラムボンってなんなんだ。
ソファを背に床に座った健人は、目の前にあるローテーブルに画用紙を広げ、その横にクレヨンを置いた。
なんだ、クレヨン買ってもらえたのか、と思いよく見てみると、そこにはバラ売りの安っぽいクレヨンが2本あるだけだった。黒と赤の2色。
「‥‥‥‥」
思わずこれだけか? と聞きたくなったが、すんでのところで押し止める。
どうでもいい。関係ない。
暗示のように繰り返し、ソファの背もたれに寄り掛かりながらその後ろ姿を眺めた。よく見ると健人の頭にはつむじがふたつあった。
「あはは、やべっ、ツボった」
「え?」
ソファに倒れながら爆笑していると、振り向いた健人も子犬のような目をパチパチさせ、一緒に笑いだした。自分が笑われているとも知らずに。
「け、健、後ろ向いて」
「えー? なにー?」
ひぃひぃ言いながら健人の頭を掴みぐりんと後ろに向けると、目の前に現れたふたつのつむじに、人差し指と中指の腹を押し当てた。
「兄ちゃんなにしてんの?」
「つむじ押すと下痢になんだよ」
「え!?」
「お前はつむじふたつあるから下痢も2倍だ」
「えーっ!!」
慌ててつむじを隠す健人にまた爆笑して、そのままソファにあったクッションに顔を埋めた途端、一気に熱が引いていくのを感じた。
何笑ってんだろ、俺。傍から見たら仲良し兄弟なんじゃねーか?
ぴくりともしなくなった俺の肩を、健人の小さな手が揺らす。小さい。手も頭も足も、つむじも。小さいな、こいつは。
顔を上げ、健人を見る。健人は俺が顔を上げたことでまた嬉しそうに笑う。その笑顔がいつか作り笑いや愛想笑いや苦笑いで汚れる日が来るんだろう。
「健人。俺の友達にホモがいるんだ」
「ほも?」
「ほんとにあいつは俺のトラウマだ」
「馬?」
「あいつも俺もお先真っ暗で‥‥お前は真っ当な道に進めるといいな」
語尾はほとんどため息のようにかすれていた。健人はきょとんと俺を見つめていた。
そもそも真っ当な道とはなんだ。ホモが真っ当じゃないというのなら、男女なら真っ当なのか。結婚して子どもを生むのが真っ当なのか。
それら全て成し遂げたであろう親父とババアを見ていると、『真っ当』の根本からヒビが入っていくような気がする。真っ当なのか? あいつらの人生は。その末に生まれたこの日々は。俺の毎日は。
「兄ちゃん、クラムボンは何色かな?」
ぼんやりしてる間に、健人はもうクラムボンへと意識を戻していた。俺の友達がホモだろうがババアがビッチだろうが親父がたったの2色しかクレヨンを買ってくれなかろうが、関係ないとばかりに、クラムボンはどんなふうに笑ったのかな、などとのんきに言う。
ふいに頭に過る。あぁ、ダメだ。ダメだ。酔いも夢もいつか覚めるというのに、俺ときたら。
「クラムボンは死んだよ」
吐き捨てるように呟くと、健人は「また嘘ついたー」と言って笑った。
ちゃんと読めよ、と教科書を指差してやると、その一文を読んだ健人の瞳がゆらりと揺れる。それから俺の目をまっすぐ見据え、半ば意地のように「死んでないよ」と言った。
それを無視してクレヨンを奪い部屋に戻った。泣くかと思ったら、ドアの向こうからは「兄ちゃん」と呼ぶ健人の声が一回聞こえたきりだった。
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