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     この世界の三分の一を領地とするナムール帝国は、現在もなお、支配地域を徐々に拡大させている。  独裁的な軍事国家である側面を持ってはいるが、帝国自体は潤っており、民を飢えさせることもないから、多少の不満はあったとしても、声高に叫ぶものはいなかった。むしろ、三十二代続く皇家を信奉している民が殆どだ。  現在、王都バズケルに住まう皇帝はαの子供を数人もうけ、帝国の未来もしばらくは安泰だろうと言われている。  中でも、今秋で二十歳を迎える第二皇子のナギ・アルフォンス・ハルトヴィヒは次期皇帝との呼び声が高く、本人も自分以外が王になるとは微塵も思っていなかった。 (俺は、奸計に嵌められたのか?)  今日ナギは、信頼のおける臣下を数人引き連れて、大臣と共に狩りをしていたはずなのだが、渓谷にかかる吊り橋を馬で渡っている際、急に吊り橋が落ちたのだ。 (いや、そう考えるのは早計だ。他の者は無事だろうか?) 「ああ。大丈夫だ……ありがとう」  一人思考に耽っていると、目下にひざまずく小柄な少女が、伺うようにこちらをまっすぐに見上げてくる。その姿に、一旦思考を停止したナギは、彼女にねぎらいの声をかけ、つぶした薬草を傷口へと塗る丁寧な手つきを眺めた。  招かれた小屋は簡素だが、使用されている木材や、しっかりとした構造から見て、これを建てた人物が、専門的な知識と技術をもっていたことが容易に分かる。  ナギを小屋へと招いた少女は、まずナギへと椅子を勧め、奥に見える台所へと小走りで姿を消した。  残されたナギは甲冑と濡れた衣服をその場で脱ぎ去り、そのままの格好で木製の椅子へ腰を下ろした。当然裸になった訳だが、いつも屋敷で召使いたちに世話をさせる時と同様、羞恥心はまるでない。  少しして、湧かした湯を桶へと入れて部屋へと戻って来た少女は、そんなナギの姿を見たとき多少驚いた表情をしたが、そのまま足下へ桶を置くと、布を絞って怪我をしている左の足首を拭いはじめた。 「私の名はナギだ。お前の名前は?」  尋ねれば、困ったような顔をしたから、「唇を動かすだけでいい」と、優しい声音でナギが告げると、珊瑚色をした薄い唇が「イオ」の形を象った。 「イオか?」  一度で言い当てたことに驚き、大きく瞳を開いたイオだが、一瞬の後、その表情は花が開くように綻んだ。 「そうか。イオ、改めて礼を言う。お前がいなかったら、私は死んでいたかもしれない」  髪を撫でながら礼を告げれば、雪のように白い肌が、薄紅色にサッと染まった。 「綺麗な色だな」  絹糸のように手触りのいい髪の色は漆黒で、緩く一つに束ねられたそれは、腰よりも下へ伸ばされている。こちらを見上げる大きな瞳も黒い色をしているから、彼女はきっと北部の人間だろうとナギは推測した。  ナギが知る中でこんな色をしているのは、北部の少数民族だけだ。そうなると、渓谷に落ちた自分の流れ着いた場所は、少なくとも元居た場所から十マイル以上下流になる。 「ん?」  そうこうしている間にどうやら傷の手当は終わったようで、桶を持ち、いったん部屋を出ていったイオは、少ししてから服を手に持ち戻ってきた。 「これを借りてもいいのか?」  差し出された衣服を手に取り尋ねれば、何度も頷く少女の姿が、小動物のように見えてくる。 「ウサギみたいだな」  子供ではないと言っていたが、体型はまだ少女のそれだ。宮廷で見る大人の女は肉体的に成熟しており、みな一様に色香はあるが、媚びるような仕草や視線にナギは内心うんざりしていた。  だが、目の前に佇む少女は清廉で、未成熟だが美しい。 「イオは、βかな?」  身体的特徴から、そう判断したナギが尋ねれば、全く分からないといったように首を傾げて見せたから、そんな姿さえ新鮮で、無知で無垢なその存在に……ナギはこの時生まれて初めて慈しむような愛おしさを覚えた。

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