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東京の片隅、県境に流れる大きな「元成川(もとなりがわ)」という川の一部を、“鈴鳴(すずなり)川”と呼ぶ地域がある。それは昔ながらの習わしのようなもので、勿論正式名称ではなく、その名前は地図にもネットにも載っていない。この地域に暮らす人々が昔からそう呼んでいたから、という理由で、町の人々も特別疑問に思わず元成川の一部を鈴鳴川と呼んでいた。 というのも、鈴鳴川の直線距離上に同じ名前の神社があり、神社に祀られているのがスズナリという川の神様だからだ。 鈴鳴(すずなり)神社とは、本殿裏にちょっとした森のような木々を抱えた、どこにでもあるような神社だ。他と違う所と言えば、金髪で青い瞳を持ったイケメンの神主が居る所だろうか。その神主のお陰か、恋愛成就のご利益があるお守りが飛ぶように売れており、イケメン神主と愛を求めて、平日でも女性の参拝客が多く詰めかけている。 だがこの神社には、ある秘密がある。宮下駿(みやしたししゅん)は、その秘密を知っていた。 そもそもこの神社に、神など祀られていないという事を。 鈴鳴神社の敷地内には、小さなカフェがある。敷地内だが、神社の中に入らずとも利用出来るよう、入り口は通り側と神社内側と二ヶ所ある。年季が入ったアイボリーの外壁は所々剥がれ落ち蔦が絡まっているが、それがレトロな風合いを醸し出している。店内は木の温もりに溢れた落ち着いた内装で、カウンター席とテーブル席が五席ある。 駿は、理由あってこの店で働かせてもらっている。 ストライプのワイシャツの袖を腕捲りし、腰には黒いカフェエプロン、黒いスラックスに黒のスニーカー。これがこの店の正装とされているが、この店のオーナーがこの姿で働いている所を駿は見た事がない。こういった、ある程度整った格好していると、駿は好青年だ。さらりと揺れる黒髪は長すぎず短すぎず、柔らかな目元と穏やかな雰囲気、しゃんと背筋を伸ばして爽やかな笑顔で珈琲を注がれれば、神社に集まった女性参拝客が流れて立ち寄る事だろう。そこまで計算してオーナーが駿を雇ったのは定かではないが、彼がこの店の世話になっているのは、指先から肘の上までをグローブで覆っている右腕にある。 「オーナー、表の掃除終わりました」 駿が声を掛けながら店内に入ると、カウンター内に居た男が振り返る。彼は、十禅真斗(じゅうぜんまこと)。この店のオーナーであり、医者である。背が高く、癖のある髪を後ろに一つ結い、無精髭が似合う少々強面だが男前だ。彼はいつも作務衣姿で、その太い腕からは想像もつかない繊細な料理を作るのが得意だったりする。 「サンキュ、仕込みもとりあえず完了だ」 そう言って見せる笑顔は、子供に怖がられがちな彼が、泣き出す子供を瞬時に笑顔にさせてしまう魔法の一つだ。 「今日も病院ですか」 「あぁ、午前中だけ行ってくる」 真斗はフリーランスの医師で、度々近所の知り合いの病院を手伝いに行っている。 「昼時には帰ってくるから安心しろ」 駿が店に来て三ヶ月経つが、メインの食事はまだ見習い中だ。真斗の料理の腕が良いのか駿が料理下手なのか、なかなか同じようには作れないのだ。 鈴鳴神社は、商店街から少し外れた住宅街の中にあるので、昼時といえども平日の客足は少ない。メインの食事も、真斗や助っ人が居る時間のみ提供と決まってるので、駿にとっては安心して店番が出来る。有難い事だ。 「そろそろ朝飯だな、姫さん達呼んできてくれるか?」 「はい」と返事をして、駿は神社内の入口から店を後にした。 まだ蝉の声も静かな朝の神社は、清らかな空気に包まれている。朝の参拝客は顔見知りのご近所さんが多く、挨拶を交わしつつ本殿脇からその奥へ向かう。 本殿の裏には小さな森のように木々が生い茂る敷地があり、その木々に囲われ守られるように立派な平屋の家屋がある。ここが、真斗の住居であり、駿が居候させて貰っている家である。 そして、ここで暮らすのは、彼らだけではない。 駿は家に向かう足を止めた。木々の中に立派な桜の木がある。もう夏を迎えているので葉桜だが、その桜を愛おしそうに見上げる人が居る。 後ろの高い位置に一つに結われた金髪の長い髪が風になびき、太陽の光に反射してキラキラと輝いている。神職のような袴姿がその髪色とは少し不釣り合いだが、これが彼の通常の姿だ。スラリとした体は華奢に見えるが、その細い腕には見た目からは想像もつかない力が秘められている事を駿は知っている。何故なら一度、羽交い締めにされた過去があるからだ。 しかし、それでも彼を美しいと思ってしまうのだから、重症だなと思う。 「ユキさん」 呼べばはっとして振り返る。猫のような大きな瞳に、一瞬にして呼吸を奪われるようだ。まるで造り物のような整った美しい顔立ち、それから駿が名前を呼ぶといつも少しだけ困ったように、寂しそうに笑う。儚くなどないのに、彼が強い事を知っているのに、いつも駿は彼を守りたいと手を伸ばしたくなる。 「飯の時間かい?」 「はい、オーナーが呼んで来いって」 「了解、すぐに行くよ」 ユキはそう言うと家の方へ向かう。駿は会話を終わらせたくなくて、ユキを呼び止める。えっと、と視線を彷徨わせた先、桜を見上げた。 「いつもこの桜見てますけど、何かあるんですか?特別な桜とか」 駿の問いにユキは瞳を揺らし、それからよく見せる人懐こい顔で笑った。 「桜は桜だよ。なんでもないただの桜だ。キミは先に行ってて。俺はお姫様起こしてくるからさ」 「…はい」 踵を返す金色の髪が揺れる。木々の中へ姿を消すユキはどこか浮世離れしていて、いつも胸の奥が騒つく。 駿はそれを見送って、来た道を引き返す。本殿の脇を通り、改めてそれを見上げる。ここはどこからどう見ても普通の神社だ。 けれど駿は、神がこの神社に居ない事を知っている。 そして、ユキが人ではないことも。 彼は妖であり、この神社に祀られているのは、スズナリという名の妖だ。 駿がそれを知ったのは、三ヶ月前の夜の事。

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