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今から三ヶ月前、春を迎えて暫く経つとはいえ、夜の川はまだ肌寒い。 駿(しゅん)は土手の上から広い川原を見渡し、暗がりの中、何故か川岸に一本植えられている桜へと目をやった。 時刻は午前一時過ぎ、暗くはあるが土手の上の歩道には街灯が並び、また街明かりのお陰で目標を見失う事はない。川を渡る鉄橋、昼間は少年野球などで賑わうグラウンド、ピクニックに来る親子連れ等で賑わうこの場所も、今聞こえるのは、遠くに響く救急車のサイレンや車の走行音、虫の音くらいだ。 空には多少の星は見えるが、街明かりの方が圧倒的に多く、流星群が見えるわけでもなし、何もないこの場所でカメラを構えているのは駿くらいなもの。狙うは星や夜景ではなく、一本佇むあの桜。通称お化け桜だ。 駿はお化け桜を真正面に望める場所に立ち、土手の上からその様子を見つめていた。そのまま後ろを振り返れば街が広がり、幾つかの道路の向こうに鈴鳴(すずなり)神社が見える。突然現れた金髪のイケメン神主や、それに便乗したとしか思えない恋守りの販売、そして鈴鳴川と共に映画の舞台となった事で、神社や川のみならず近くの商店街やこの町自体が活気づき、町にとっては大変ありがたい神社であり川なのだが、そんな中、気味悪がられているのが、あのお化け桜だ。 何故そんな際どい場所に咲いているのかという疑問もあるが、その名の通り怪奇現象がついて回る曰く付きの桜だ。昔からその手の噂は囁かれていたが、最近は特に多いらしい。真夜中、春でもないのに花が咲き、桜から女の声が聞こえ、幹には血の跡があったとか。よくあるオカルト話である。因みに駿はこの手の話を全く信じていない。どんなモノでも、存在しようがしまいが駿にとって見えなければ意味を成さない。お化けも妖怪も見えなければただのおとぎ話、駿はそういった考え方を持つ、ごく普通の青年だ。 見た目は好青年、成績は平凡、運動は陸上を齧っていた事もあり足は速い方で、学生時代は様々な部活の助っ人を頼まれていた。年齢は二十五才、出版社勤務だが、今は転職を考えている。 「夏に花が咲いたら天変地異の前触れだな…」 ずっと写真が好きで、カメラマンになるのが夢だった。いつか誰かの心に残るような写真を撮れるようになりたい。人物でも風景でも、心をぎゅっと掴まれるような。そう思うのは、駿もそういった経験があるからだ。だから、漠然とながらもそんな夢を抱いていたのだが、気づけばオカルト雑誌のカメラマンになっていた。オカルトに興味はないが、仕事が悪いわけではない、どんな事も勉強だと励んできたのだが、真夜中の土手で風に揺れる葉桜の決定的瞬間を待ち構える自分を思えば、もしかして自分はずっとこのままなのだろうかと不安が膨らむ。 信じてもいない現象を補える為に、ではなく、もっと撮りたい物の為に動いても良いんじゃないか。そう思う反面、自分にそんな才能あるわけないじゃないかとも思ってしまう。 考えれば考えるほど堂々巡りは続き、見えない人生の行き先に溜め息が零れる。ファインダーを覗いても、何も変わらない桜がそこにあるだけだ。 せっかく鈴鳴川に来てるなら、土岐谷(ときや)リュウジでも撮りたかった。 鈴鳴神社、そして鈴鳴川が舞台となった映画とは、人気のベストセラー作家、藤浪(ふじなみ)ゼンの人気シリーズ「(あやかし)冒険譚」に於いて特に人気の高い作品、人と妖の切ない恋模様を描いた話を映像化したもので、主演の妖を演じたのが、今をときめく若手俳優の土岐谷リュウジだった。そのお陰で、映画が公開されて二年たった今でも、ファンがよく訪れている。 「あのリュウジは格好良かったよなー」 さすが、女性のみならず男性も惚れると異名がつくだけはある。 「私も同感」 「…え?」 耳元で女の声がして、駿は反射的に振り返る。直後、首筋に痛みが走った。注射器の針が刺さったような感覚に思わず顔をしかめる。 「な、」 何だ。首を押さえ、誰の仕業だと振り返り確かめようとするが、相手の顔を見る前に頭の中で何かがぐるぐる巡り始め、体が痺れてくる。突然の体の異変に戸惑い意識がそちらに向くと、後ろの何者かが背中を蹴飛ばしてきた。体の自由を奪われた駿に成す術はない。気づけば頭を、体を土手の斜面に打ち付けながら、駿の体は転がり落ちていく。もう、どこが何が痛いのか分からない。 「う、」 刈り取られ僅かな長さになったとはいえ、土と芝のある斜面で助かった。ただ、転がり落ちた先は遊歩道となっているコンクリートの地面だ、強か(したたか)に体を打ち付け、再び全身に痛みが走る。 何だ、何が起きてるんだ。鈍い思考の中、状況を判断しようとする。ドクドクと心臓の音がうるさい、死ぬのだろうか。 「は、」 這いつくばりながらどうにか顔を上げた先、本当に心臓が止まるかと思った。 「キミ、こんな所で何してるの」 怒気を含んだ男の声、しかしその人物の美しさに、ほんの一瞬呼吸を忘れた。 夜の闇の中、月明かりに照らされ輝く金色の髪を揺らし、大きな猫のような瞳は、隙なくこちらを睨み付けている。整ったその容姿は、まるで夢物語から飛び出してきたどこぞの王子様のようだ。そのように現実味を感じさせないのは彼の容姿ばかりではなく、その瞳の強さに、心臓を晒しているような恐怖を感じていたからかもしれない。 これが、駿とユキとの出会いだった。

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