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第3話

 その時、ひたすらに恋人を思って身悶える、郎威軍(ラン・ウェイジュン)のスマホが鳴った。  表示を確認するまでも無かった。この時間、電話をかけてくる相手は1人しかいない。 「志津真(しづま)!」  切なく熱い吐息で、威軍は恋人の名を呼んだ。 《なんや、エライ食い気味やな、今日は》  電話の向こうで、甘く、優しい恋人の笑い声が聞こえる。 「志津真…」 《ん?…1人で、寂しいんか?》  揶揄(からか)うような口調だが、胸の奥を(くすぐ)るセクシーな声だ。さすがに「声優部長」と綽名(あだな)される加瀬(かせ)志津真(しづま)だけのことはある。 「志津真、さん…」  気持ちが(たかぶ)りすぎて、郎威軍の声も(かす)れ、電話越しには泣いているようにも聞こえる。  そんな、控えめにねだる威軍の気持ちを、遠く離れていても恋人はすぐに察してしまう。 《どうした?俺の部屋にいるんやろ?》 「……」  ここが志津真の部屋だからこそ、余計に彼を感じてしまう、と郎威軍は身を焦がす。 《ウェイ?》  スマホから呼びかける声に、威軍はスピーカーにして両手を空ける。  加瀬の方も、威軍のいつもと違う様子に気付き、心配そうな声になる。 《ウェイ、何かあったんなら…》  「…志津真…」  ようやく聞けた恋人の声に、思わず威軍も日頃の冷静さを忘れた。耐え切れず、甘く艶めかしい声を上げてしまう。  そんな声に、志津真も思わず目を閉じて恋人の姿を浮かべる。こんな時の、官能的でいて、清純な笑顔を見せる郎威軍が志津真は好きだった。  美しいのは分かっている、妖艶なのも分かっている、イノセントで純粋な面も分かっている、それら全てを以てしての「郎威軍」という恋人なのだと、充分に頭では理解しているのだが、実際に目の当たりにすると、どれほど彼に心を奪われ、夢中になっているのか、改めて実感する。  この高速光回線の国際電話の向こうに、その愛して止まない姿があるのだ。志津真とて、冷静ではいられない。 「俺のことを考えて、…独りでシタんか?」  志津真は不安になる。この距離が、何かを変えてしまうのではないか、と。それほどに濃艶な威軍の声だった。 「!」  恋人からのその問いに、威軍は息を呑んだ。  いかがわしい映画に発情した自分を暴かれたような気になって、威軍は居たたまれない気持ちになった。 《ちょっと顔を見なかっただけで、コレか…》  志津真の呟いた言葉に、ふしだらな自分を責められた気がして、郎威軍は胸を突かれた。 「え?」  独り心細げに瞳を揺らす恋人を思い浮かべ、加瀬もまた動揺していた。ほんの数日、顔を見ていないだけなのに、威軍が欲しかった。  あの美しく悩ましい肉体だけでない、冷ややかで完全な美貌もそうだが、その裏にある聡明さや、思いやりの深さや、純粋さや、ほんの少しの弱さ…、威軍のあらゆる人間性が加瀬は愛しくて、大切に思っていた。 (今すぐにでも…抱きたい。隣に居たい…)  そんな思いに胸を締め付けられる志津真の耳に、意外な言葉が届いた。 「…嫌いに、ならないで下さい…」  弱弱しく訴えかける恋人に、加瀬はようやく我に返って、慌てて叫んだ。 《なんで、そんな事、言うんや?》 「…可是(だって)」  さすがに日本語が堪能な郎威軍も、複雑な今の感情を言い表す言葉を持たなかった。  思いを巡らせているうちに、ふと先ほど観た映画が思い出された。誤解を重ねれば、別れを招きかねない。  聡明であるのに、不器用なところのある威軍は、それが怖かった。好きな人に、誤解をされたくない。 《1日顔を見られへんかっただけでも、もう我慢できひんくらいに、お前に夢中やのに、なんで嫌いになんねん》  ふざけた口調だが、その声は優しく、甘く、恋人と離れている切なさに溢れていた。 「本当に?」  先に口を開いた加瀬に、自分一人でなく、恋人もまた寂しく思っていたことを知って、威軍はあからさまにホッとする。  しばらくの間、2人は何も言わずにいた。  日本語も、中国語も関係なかった。互いの気持ちが通じていれば、言葉はいらないのだと、2人は同時に確信していた。 《俺が、欲しいんやろ?》  確信をもって、声優部長の加瀬が甘い声で囁く。 「あなたも、そう思っていますよ、ね」  いつしか郎威軍の淫らな欲望は、愛する人への純粋で一途な気持ちだけに変わっていた。  今は離れていても、大丈夫。この部屋に戻れば、彼はすぐに愛してくれる。2人は東京と上海で同じことを考えていた。 《月曜は、休みを取れ。日曜の夜に帰る》  志津真は、日曜の夜に、上海へ帰り次第、翌日は出勤できないほど愛し合うのだ、と言外に語っていた。 「…はい」  急な欠勤を命じられても、珍しく郎威軍は素直に従った。  もちろん月曜の朝から急ぐ仕事がないことを把握していたからでもあるが、加瀬志津真が求めるのと同じか、それ以上に郎威軍も恋人との熱い交歓を望んでいたからだった。 「ずっと、ここで待っています」  はにかみながらも、優秀な部下の凛とした態度で、郎威軍ははっきりと答えた。 《お利口さんで待っててな》  優しくそう言って、回線を切る間際、聞こえるか聞こえないかのギリギリの声で志津真が何か言った。実際、わずか3文字の言葉にも拘わらず、最後の1文字分は完全に切れていた。  けれども、「お利口」な郎威軍は恋人が伝えようとした言葉を察して、信じられない思いで一瞬動きが止まった。  我愛你(愛してる)。  恋人・加瀬志津真の思わぬ告白に、落ち着いたはずの威軍の頬は、また紅潮していた。

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