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第34話

「楽しかったな」  蘇州からの新幹線を下りて、2人はそのままタクシーで志津真の服務公寓(サービスアパートト)に戻った。  慌ただしくこの部屋を飛び出したのは、ついさっきのような気がする。  志津真が()れたジャスミンティーを受け取って、威軍は微笑んだ。 「ええ。最初は驚きましたが…」  香りが良く、温かなジャスミンティーで、威軍の気持ちがほぐれた。  確かに驚かされたのだが、それも志津真らしいという気がした。恋人を喜ばせるために、努力を惜しまないのだ。その情熱が自分1人に注がれているという事実を、威軍は幸せに感じた。 「とても楽しくて、ステキな旅行でした」  威軍にしては珍しく素直に感想を言うと、志津真も目を細めた。 「また、行こうな」  志津真がそう言って、威軍の額に口づけた。 「でも…」  近い距離で見つめ合い、威軍が口を開いた。 「場所はどこでもいいんです。あなたと2人でいられるなら…」  そして、威軍は繊細な指先を伸ばすと、志津真の頬に触れ、そのまま引き寄せ、自分から甘いキスをした。 「今夜も…泊まって行けや」  恋人からの誘惑に、思わず志津真もそう言った。 「出来ません。明日は仕事なので」  威軍自身、その言葉に心を揺さぶられながら、冷静に判断した。 「その上司が言うてんのやぞ」  志津真も、そう簡単には引かない。言い方は冗談めかしていたが、内心はそうでもなかった。 「私は、ここから出勤できません」  毅然として、アンドロイドと渾名される郎威軍は言い切った。週末を一緒に過ごすことが多い恋人同士は、私服をお互いの住まいに置いておくことはしても、出勤用のスーツは自宅に戻らなければ無い。意外に胸板があり、肩幅もがっしりしている志津真と、華奢で手足の長い威軍とでは、体型が違い過ぎてスーツの貸し借りも不可能だ。  厳密には、スーツだけのことであれば何とかなるのだが、公私混同したくないという威軍の意思が言外に込められていた。 「ベッド、別でもエエけど…」  諦めきれずに志津真も食い下がる。  目的が、「行為」ではなく「存在」なのだと分かって欲しくて申し出るが、実現は不可能だろうと予感はしている。 「そう言うことでは無い事は、分かっているでしょう?」  呆れるのを通り越して、笑いながら威軍は言った、気持ちを逸らそうとしているのか、志津真に貰った日本のお土産や、蘇州で買ったシルクパジャマを並べて楽しんでいた。 「せっかくパジャマも買ったのに…?」  未練がましく、志津真がネイビーブルーのシルクパジャマを引っ張ったが、威軍は見向きもしない。 「パジャマは不要だと言った人がいましたね」  冷ややかな威軍の言葉に、子供がいじけたような顔をして、志津真は肩を竦めた。 「けどな…」  ソファで寛ぐ威軍の隣に座り込んで、甘えるように、恋人の肩に頭を預けると「声優部長」が本領を発揮して、切ない声で囁いた。 「もう、いつものセリフは言いたくないねん」  志津真の囁きに、威軍の胸が騒ぐ。心細げな声に、何でも望みを叶えてあげたくなる。 「いつもの?」  強い意志と、恋人への甘い情感との間で揺れ動く威軍だったが、どうにか平常心の振りを見せて応えた。 「休みの終わりは、いつも『また明日、職場で会おう』って言うて別れるやん」  確かに、2人が付き合い始めてから休日が重なる日は、いつも一緒にいた。そして、休みの最後の夜は「また明日、職場で会おう」と言って、それぞれの自宅に帰るのだ。  ずっと、それでいいと思っていた。楽しい休日を一緒に過ごし、また明日になれば職場でも会えるのだ。それに満足していた。  それ以上の欲を出すのは、間違っているのだろうか。志津真は、そんな考えを止められなかっただけだ。 「週末の休みの時にしか会えない…、人たちは、たくさんいるんですよ」  休みにしか会えない「恋人」と言おうとして、自分たちの事をなぞらえると恥ずかしさが先に立って、威軍はためらい、言い換えた。 「そりゃあ、プライベートだけでなく、仕事に行ってもウェイに会えるのは嬉しいけど…」 「分かっているなら、イイ子にして下さいね」  威軍は、アンドロイドとは思えぬような、甘くて優しい声で恋人を宥めると、凭れ掛かる彼の頭を慈愛たっぷりに撫でた。 「イイ子にしてたら、ご褒美もらえるんか?」  調子に乗った恋人の額を、ペチンと軽く叩いて威軍は立ち上がった。 「ご褒美は、来週末までお預けです」  まるで犬を躾ける飼い主のような口調で威軍が言うと、従順で愛情の込められた眼差しで志津真も応えた。  好きだから、愛しているから、一緒に居たいと思う。  けれど、離れていても愛情は築けるし、深めることも出来る。  志津真の部屋の玄関で、威軍が振り返った。 「また明日、職場で」  その笑顔を恨みがましい顔をして志津真が見送る。 「…また明日、職場で、な」  憮然としている上司を哀れに思ったのか、玄関ドアのノブに手を掛けたまま、部下は慰めるような優しい口づけを1つ与えた。 「週末は、ずっと一緒ですよ」  それでは足りないのか、眉を寄せたまま志津真は何も言わない。 「我将永远和你在一起(私はずっとあなたと一緒ですよ)」  もう一度、今度は不愉快そうな志津真の頬にキスをして、威軍は小さく囁いた。 「え?」  言葉が分からずに志津真がポカンとしたのを、間近に見て威軍は綺麗な笑顔を浮かべた。 「明天見!(また明日)」  もう一度そう言って、威軍は部屋を出て扉を閉めた。取り残された志津真も、諦めたように苦い笑みを口元に浮かべ1人寝室へと戻って行った。  明日、また会える。  今はそれだけで幸せな2人だった。 〈おしまい〉  

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