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 人生キツくなると、ピンクの象を思い浮かべる事にしていた。  ああこれはもうダメだノータイムで死にそうだいっせーのーの合図もなく遺書もなくこの世とさよならしそうだ、と思った時、菅生が頭にぶち込むのはいつもピンク色をした象だ。皺だらけの硬質な皮膚をショッキングピンクに染めて踊る象を想像すると、どうしてか少し呼吸が楽になる。  心の支えにするべき家族も恋人も親友も居ない。特に思い出深い温かなエピソードもない。  だからといってなぜピンクの象なのか。菅生自身にもよくわかっていなかったがとりあえず毎日生き抜くことができるライフハックだった為、あまり深く考えることもなく頭の中のピンクの象を活用させていただくことにしていた。  ピンクの象はゆらゆら踊る。  ピンクの象はどすどす踊る。  しかしこの時、うっかり現実逃避をし損ねた菅生の目の前に広がっていたのは、ピンク色の踊る象ではなく、鮮烈な赤だった。  血って本当に赤いんだなぁ、などと至極どうでもいい言葉が過ぎる。他人の血を頭から被ったのはこれで二度目だ。  一度目は五年前に自殺した兄の血だった。真っ赤に染まった浴室の水からまだ暖かい男の身体を引きずりあげた菅生は、もうこんな鮮烈な体験はないだろうと信じていた。  二度目の赤い血は、菅生が経営するソープランドのソープ嬢の血だった。  妙に赤い鮮血をおもいっきり被った。びしゃり、と音がしたような気さえする。とっさに頭にピンクの象を乱入させそうになり、いやいやおれが倒れてどーすんの、と息を止めて現実を直視した。  赤い。とにかく赤くて笑いが出る。なるほど殺人現場ってやつは思いの外グロテスクなもんなんだな刑事ドラマは随分とマイルドにやさしく再現なさっているんだなと笑う。  笑った事で少しだけ楽になり、息を吐くことができたし、再度吸って吐いたついでに『救急車ァ!』と叫ぶことができた。  スガさんて怒ったり怒鳴ったりするの? などと嬢達ににやにやと揶揄われることが常だ。自分でも『おれって叫んだりできんだなー』と感心してしまう。  叫び、わめき、泣き叫ぶ女達を叱咤し、人を呼びつけ、店を閉め、赤い海に投げ出された手首を押さえつけ、生暖かい傷口に布を押し当て、駆けつけた救急車に同乗し、救急救命士の質問にできうるかぎり答え、病院の通路でしばらくお待ち下さいと放置されるまでよく動いたものだと思う。アドレナリンだかドーパミンだか知らないが、とにかく異常事態に対してなにかしらの脳内物質が出ていたのだろう。  いつも通りぼんやりと息を吐き喫煙所を探そうと思いついたとき、やっと己のシャツが鮮血に染まっていることに気がついた。  気に入りの濃紺のシャツじゃなくて良かったと思うべきか、濃紺だったならこんなにわかりやすく血みどろにならなかったんじゃないのと後悔すべきか。そんなことを考えながらタバコを忘れたことに気づき、天井を仰ぎ長椅子に座ったタイミングだった。  菅生の隣に誰かが腰を下ろした。  こちらでお待ちくださいね、と聞こえたのは看護師の声だろう。  返事をした声は、ひどく緊張しているようだ。男の子だな、と思ってから視線を向ける。予想通りそこにいたのは顔面蒼白の青年だった。  第一印象は『女性的』だった。  おそらく彼の細身のボトムやすこしだぼついたトップスがレディースブランドのように見えた事と、ふわりとした甘い髪色が原因だろう。よくよく目を凝らせば骨格は男性的だし、顔のパーツも男性のものだとわかる。  ユニセックスだと思った原因は髪型と服装だけらしい。随分オシャレな格好で病院に来るものだ、と不思議に思ったが、自分の格好を思い出して『いやおれ他人の事何もいえねえわなぁ』と自嘲した。  まだ笑える。だから、ピンクの象は必要ない。  そもそも本人の意思で病院に来たとも限らない。現に菅生は否応なしに救急車で運ばれてきた。ここで待て、と彼が置き去りにされた場所はどうも診察室の前ではないようだし、もしかしたら自分と同じく緊急搬送された人間を待っている家族なのかもしれない、と思い当たった。  菅生は家族ではなくその場に居合わせた責任者でしかなかったが、お待ちくださいと言われたからには待つほかない。今頃店はどうなっているのだろう。  警察を呼べと叫んだ気はする。  血の海に横たわっていたのは一組の男女だったからだ。  女の方はソープ嬢だ。仮にも雇い主である菅生には、血に染まる赤い女がクララだとすぐに分かった。男の顔に見覚えはなかったが恐らくは客だろう。  自殺か他殺か知らないが、とりあえずまだ生きていたので救急車を呼んだ。自殺か他殺か知らないが、確かそういう場合は警察を呼んでいいものだろう。  五年前、兄の死に際に自分は警察を呼んだのかそれとも救急車を呼んだのか、いまいち覚えていない。記憶にあるのは真っ赤に染まったバスタブの水ばかりで、まああの時よりはうまく動けたのだろうと思った。  死に際の人間の搬送手続きをうまく行えたとして、今後の人生の糧になるかと言われたら微妙なところだ。もう血は浴びたくないなぁてかこの血取れるのかなぁ大した値段じゃないけど安売りのシャツでもないんだけどなぁ、と、ぼんやり息を吐いたついでにもう一度隣の青年に視線を向ける。  行儀よく固い椅子に腰を下ろしたまま、ただ目の前を見つめている。顔色は先ほどよりも悪く、白いというより、もはや青い。  血の気が引く。真っ青になる。そんな言葉は日本語の盛大すぎる誇張だと思っていた時期もあった。夜の世界に長く身を置いていれば、その言葉が大げさではなく的確であることも知っている。 「……クララの身内?」  心の中で呟いたつもりが、うっかり声になっていた。そんな感覚だった。  おそらくは同じ処置室の待ち人なのだろう。するとクララか男か、どちらかの知り合いか親族ということになる。  病院に呼び出されるくらいなのだから親族なのだろう、とあたりをつけた。その上で顔面蒼白の青年を観察すると、なんとなくだがクララの顔に似ているような気がしないでもない。  何にしても病院の廊下などという非日常空間にいるわけだ。どうせこの先懇意にするような相手でもない。多少失礼があったところで笑って流せばいいだろうと思い直した。  血にまみれたシャツの男に急に話しかけられる経験など、普通はないだろう。自分もない。存分に怪しいという自覚はあった。しかし声をかけてしまったのだから仕方ない。ただのソープランドのオーナーでしかない菅生に一度放った言葉を回収するような異能力があるはずもなく、仕方なくせめて表情を緩めるように心掛ける。  常にへらへらとしている胡散臭いイケメン、と評される菅生だが、今日は流石に笑っている余裕などなかった。  一瞬びくりと肩を強張らせた青年は、錆びついたロボットのようにぎこちなく顔を上げる。可哀そうな程目に力が入っているのがわかり、他人の緊張は相変わらず肩が凝るなぁと内心だけで苦笑する。まるで新人ソープ嬢の面接をしているような錯覚がした。  幸いにも菅生の問いかけは当たっていたらしい。  アヤセハイジと名乗った彼は、ソープ嬢クララの弟だった。 「あー……ハイジくんだから、クララだった、のかな? なんでクララなのかなぁーってちょっと思ってたんだよねぇ。本人に、きいたことなかったけどそういや」 「……姉と、その、お知り合い、なんですか? てかクララって、その、」 「うん。綾瀬萌子さんの源氏名ね。おれは、あー……第一発見者? ってのもチガウかな。なんていうんだろうね。一緒に救急車に乗って来た人で、クララが働いているところのオーナー的な人」 「あのひと、ちゃんと、働けていた、んですか……?」 「うん? うーん」  手厳しい子だなぁと思った。同時にクララの自我の強すぎる言動の数々を思い出し、まあそりゃそうなるかと納得した。  ハイジの態度を見るに、クララはどうも自身がソープ嬢である事を隠していたようだ。さらにぽつりぽつりと会話を交わすうち、職業どころか居所まで家族に黙っていた事を知った。  ハイジの元へは病院から連絡があったらしい。おそらくは菅生がひっつかんで持ってきたクララのバッグの中に、身分証や連絡が付くものがあったのだろう。生きるか死ぬかの状況で、プライバシーの侵害などとは言っていられない筈だ。  そう言えばクララは会社が手配したアパートに住んでいた。家出同然で仕事をしている嬢も少なくはない。菅生にとってクララは、単純に数いるソープ嬢の中のひとりでしかなかったし、家庭の事情などは勿論知らない。  ハイジは、唐突に呼び出されたのだろう。  居所もわからない姉が緊急搬送されたと連絡を受け、それこそわけもわからないまま駆けつけたのだろう。  彼女は手首を切った。切り口は相当深かった。菅生が彼らの部屋の異変に気が付き駆けつける直前の事だったので、出血量はそこまでひどくはなかった筈だ。ただ、菅生とスタッフの止血が完璧だったかと言われたら自信はない。所詮自分は風俗店のオーナーで、救急隊員でも医療関係者でもない。頭にあるのは本や映画で聞きかじったような軽い救命知識だけだ。  たぶん大丈夫だとも、おそらくやばいとも、言えない。菅生には知識もなければ自信もない。過去に一度、手首を切って死んだ兄がいるだけだ。  ふと、かわいそうだな、と思った。  普段は他人に同情するような事はない。自分で言うのも何だが薄情な方だという自覚はあった。何より、誰かに感情移入したりするようなこともない。友人と言えるような人間は少ないし、職場の女性たちの人生に一々肩入れしていたらそれこそ精神が持たない。それほど広い心も優しい心も持ち合わせていない。  それなのにかわいそうなだと思ってしまったから、さらに言葉を重ねてしまった。  唇まで青くして病院の椅子の上で姉の命と向き合う青年に、同情したのかもしれない。  もしかしたら今日は彼女とデートだったのかもしれない。友人と飲み会だったのかもしれない。映画を見ていたのかもしれないし、楽しみにしていた漫画の新刊の発売日だったのかもしれない。  そんな当たり前の日常の合間に、行方不明だった姉が緊急搬送されたからと呼び出された。それについて彼がどう思っているのか、菅生にはわからない。  ただ、かわいそうだなぁ、と思った。 「しんどい時ねぇ、おれね、ピンクの象を思い浮かべるの」  だから、声をかけた。  かわいそうだな、と思ったから。 「象って言うのは、あれね。あのー、石像とかじゃなくって、ゾウさんのほう。鼻が長くて、耳がでかくて、パオーンってやつのほうね」 「…………ピンク色の、ぞう?」 「うん。ゾウさん。ピンク色の。アレをねー頭の中でどっすんどっすん躍らせるわけよ。するとなんでか妙に落ち着いてきて、なんかこう、全部どうでもよくなっちゃう。一種の現実逃避なんだろうねぇ」 「え……なんで、ピンク……?」 「いやーなんでだろうねぇ。ちょっと自分でもよくわかんないんだけど、なんかそういう話読んだのかなぁ? きっとどっかでなんか見たか読んだかしたんだろうけど、ちょっと思い出せない。モンテロッソのピンクの壁? は、ちげーな、てかこれなんだっけ? あ、江國香織?」 「し、知らない……です」 「うーんおれも江國は詳しくない。最近本読んでないなそういえば。秋は読書だね。本屋寄って帰……れねえな通報されるなぁこの格好じゃ。いや、違う、えーと、本屋はどうでもよくって、つまりえーとね……きみにもそういう、ピンクの象みたいなものが、あればいいなって思ってさ」  ピンクの象、とオウム返しに呟く青年が何を思っていたのか菅生にはわからないが、おそらくはあっけにとられていたのだと思う。  いきなり見知らぬ男から『現実逃避にピンクの象を頭の中に思い描くんです』などと告白されても、はあそうですかとしか言えないだろう。冷静に考えると余計に彼を混乱させたような気がしないでもないが、仕事以外の人間関係の構築に難があるという自覚がある菅生は、他のうまい言葉に心当たりなどない。  ただ彼にも、ピンクの象があればいいのになぁ、と思った。単純にそれだけだった。 「いやー、ゾウじゃなくてもピンクじゃなくても本当にそれはなんでもいいんだけど。こういうの、普通は人とか何かわかりやすい媒体なんだろうけどね、現実の。例えば恋人とか。トモダチとか。映画とか本とか音楽とか誰かすごい人の言葉だとか。とにかく現実からパッと切り離されてちょっとだけ深呼吸できるような……現実逃避って言っちゃうとほんと元も子もないけど、そういうの」  ある? と首を傾げる。  二回程瞬きをした青年は、喉の奥につっかえた言葉を一度は出そうと試みたもののうまく出ない、というような仕草の後に首を振った。残念ながら横にだった。 「趣味とかは?」 「……あんまり、パッと思い浮かばないです。仕事、ちょっときつくて、時間があんまり……」 「うーん、そりゃ仕方ないよね。一日は、二十四時間って決まっちゃってるしなぁ」  仕方ないねと言って、菅生はこの話を止めた。これ以上あれこれ言っても、己の変人度を高めるだけだと知っていた。どう思われようがあまり気にしないと言っても、やはり、目の前で距離を取られるような仕草は見たくない。  煙草吸いたいなと思ってから、携帯も持っていない事に気が付く。財布だけはあったから帰る事はできるだろうが、このシャツのままタクシーに乗ってもいいものかと思案していると、ハイジの視線を感じた。  じっとこちらを見つめる青年と目が合う。  変な人だな、と思われているのだろうが、一応無難に笑っておいた。 「……なに?」 「え。………………その、」 「へんなひとだなーって、思ってる?」 「……………はい」 「あはは。よく言われるなぁ、それ」 「でも、あー……」 「うん?」 「おにーさんが、その、優しいひとで、よかったなって、思ってます。オレ、ぶっちゃけ息すんのもきつかったから」 「…………それはあんま言われないなー」  反応が遅れたのは素直に驚いたからだ。  生ぬるいとか、胡散臭いとか、そんな評ばかり耳にする。実際自分は胡散臭くて生ぬるい人間だと思っているので異論はない。ただ、面と向かって優しいなどと言われた経験はあまりない。  菅生はうまい言葉を見つけられずに、ただあいまいに笑い返すことしかできなかった。  優しい人間の周りでは二人も自殺しないでしょ、なんて意地の悪い本音を言うわけにはいかなかった。クララが自殺なのか他殺なのか、それはまだわからないけれど。  他人の血を被ったのは人生で二度目だった。  偶然隣り合った他人に対して、彼にもピンクの象が居ればいいのに、なんて思ったのは実は初めてだったが、菅生はまだそのことに気が付いていなかった。

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