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 忙しい、という言葉はどうしてこんなに軽い響きなのだろう。  もう少し重々しく誰もが口を噤むような重厚感があれば、その一言だけで随分と多くの誘いを断れるような気がする。勿論これは個人的な不器用さを言葉のせいにした言い訳だ。  綾瀬灰慈の日常はとにかく忙しかった。おそらく言葉を知っていればもう少し的確に己の状況を訴える事ができるはずなのに、語彙力がないせいで『忙しい』としか言いようがない。  辛い、というわけではない。疲れている、というのも少し違う。ただ漠然と忙しいことだけは確かで、結局口から出るのはその一言だけだ。 「だーから、ごめんって! 忙しいんだって、ほんと、余裕できたら埋め合わせすっから……!」  ハンズフリーにした携帯に向けて怒鳴るものの、どんな言葉が返ってくるかは検討がついている。 『ハイジはいっつもそうじゃんかよー。忙しいってなんだよ俺だって忙しいっつの! クリーニング屋に繁盛期なんかあんのかよ!』 「あるよそりゃ、なんなら絶賛繁盛期だよ。冬物のコートとかそういうの慌てて持ち込む人がいんの。季節の変わり目なんか一番服触るだろお前だってさ」 『一々クリーニングなんかしねーししらねーよ。この前無料で髪切ってやっただろーちょっとくらい顔出せよ! どうせ飲み代だって俺が出すんだし!』 「おま、オレがたかってるみたいに言うのやめろいや出してもらえんのはありがたいけど……とにかくしばらくはホント無理なんだよ。来月になったらたぶん時間できるから、そしたら合コンでも忘年会でも行くから勘弁して、じゃあな!」 『ちょ……っ』  無理矢理に通話を切って、その後の連絡は無視するつもりで携帯を尻ポケットに突っ込んだ。  腕一杯に抱えた布団を店の奥に押し込めると、明日返却のスーツとコートのタグを確認して店のシャッターを閉める。本来ならばまだ営業時間であるが、本日臨時休業の手書きの札を掲げてから逃げるように店内に戻った。  今日引き取りに来る予定だった客には、午前中に休業の為日程をずらしてほしいと連絡済みだ。普段なら仕事中に七星の電話に出ることはないが、病院からの電話と間違えて取ってしまった。  櫟七星は悪友と言うか腐れ縁のような存在で、何かと灰慈を外に引っ張り出そうとする。  出不精の灰慈を思って誘ってくれているのか、自分が合コンをセッティングして遊ぶのが好きなだけなのか、そこのところはよくわからない。とにかく美容師という仕事柄本人も暇ではないだろうに、やたらとアクティブに飲みに誘ってくる男だった。  素直に『行方知らずだった姉が働いていた風俗店で男と心中未遂をした』と言えば、七星も流石に黙っただろう。しかし昔から綾瀬家では姉の話題はタブーとなっており、その影響か灰慈自身も積極的に口にすることが憚られた。  もし姉が死んでいたら話は別だっただろう。綾瀬家では葬式を出す事になるだろうし、それこそ飲み会どころの話ではない。  だが昨夜緊急搬送された姉の命に別状はなく、現在入院中ではあるものの、意識もしっかりとしているという話だった。  午前中に病院に向かった母親は随分と疲れた顔で帰って来た。姉と直接話せたのかはわからない。母はとにかく嫌な事は口にしないし、不機嫌になると一切喋らない人だった。ただ一言『そのまま死んでしまえばよかったのに』と吐き捨てた言葉を、甥と姪に聞かれなくて良かったと思った。  姉の萌子は灰慈の七つ上だったと記憶している。現在三十一歳である彼女と顔を合わせたのは、萌子が娘の寧音と息子の佑光を置き去りにした時くらいだ。生まれてすぐに捨てられた子供たちは、中学生と小学生になった。  昨日も今日も平日で良かったと思う。子供たちは通常通り学校に行ったし、おそらくは自分の母に何が起こったのか、まだ知らないだろう。  そもそも、灰慈自身が現状をまだうまく呑み込めていない。  とりあえずは今やるべき事をこなすだけだ。店を閉めたタイミングと同時に沈みそうになった気持ちをどうにか奮い立たせ、薄手のカーディガンを羽織ると店の奥に向かって行ってきますと声をかけた。母親の声は返ってこないが、まあ、おそらくはふさぎ込んでいるだけだろう。  綾瀬クリーニングの店名ロゴが入った車は白いバンだ。もうそろそろ車検を通すかどうか迷う年代物だが、まだ動いているし灰慈はこの車が好きだったからもう少し元気に頑張ってほしい、と思っている。  慣れた手つきでエンジンをかけた灰慈が向かったのは、いつもの商店街でもお得意先でもなく、都市部の警察署だった。  勿論呼び出された要因は姉の件についてだ。  ただの自殺だったら、弟である灰慈が呼び出されることもなかったのだろうか。誰かを巻き込んで死のうとしたからだろうか。そもそも本当に心中だったのだろうか。無理心中だとか、殺人だとか、そういう話だったらどうしたらいいのだろう。  鬱々と余計な事を考えながら警察署に足を踏み入れたものの、簡単な調書を取られ軽く話を聞かれた程度で開放された。とにかく家にほぼ帰っていなかったという事が証明できればそれで問題はないらしい。電話じゃだめだったのか、と思わなくもないが、警察や市役所は直接対面でというイメージも強い。よくわからないがそういうものなのだろう。  なんとなく肩透かしを食らい、病院に寄って帰ろうかどうしようかと思案しながら車のドアを開けた時だった。 「あっれ、綾瀬くんじゃんー」  妙に間延びした、まったりとした声が後頭部に直撃した。  といっても、ストレートにぶつけられたという感触ではない。柔らかい声はふわっとした肌さわりそのままのイメージで、ぽーんと優しく放り投げられて頭の上にポトリと落ちた、という感覚だった。  ……警察に知り合いはいない。そもそもここは灰慈の実家付近ではないし、警察に用があるような人間も思い浮かばない。馴染みのお得意さんは主婦ばかりで、気軽に灰慈の名前を呼ぶような男性に心当たりはなかった。  恐る恐る振り返り、こちらに歩いてくる男性の顔を見ても灰慈は首を傾げるばかりだ。にこやかに手を振る男性の顔に全く見覚えがなかったからだ。  しゃっきりとした濃紺のシャツに、細身のスラックスが格好よく似合っている。伊達男という言葉が浮かんだ瞬間、隙のあるへらりとした顔が目に入り『タラシ』の方に修正される。  キリっとしていたらヤクザかホストのようだと思っただろう。ヤクザほど剣呑な雰囲気はないし、ホストほど軽い雰囲気もない。かといって会社員というような容貌でもなく、語彙力もなければ想像力も乏しいという自覚のある灰慈は『……どっかの社長?』という感想に行きついた。  首を傾げて怪訝な顔を崩さない灰慈の前に立った男は、ふはは、と笑う。その笑い方に、少しだけ既視感を覚える。 「……えーと……あのー」 「あー、わっかんない? わっかんないかーおれ割と特徴的な顔だって言われるしインパクトはデカいって言われ……あ、赤くないから? 血みどろインパクトが強すぎた?」 「血……? あっ、あー! ピンクの象の人……!」 「大正解。こんちは、綾瀬くん、あーいやもうすぐこんばんは? まあどっちでもいっか。綾瀬くんもお呼び出しかーご苦労様」  馬鹿まじめにこんばんは、と挨拶を返してからもう一度灰慈はまじまじと男を観察した。  気が付いた後で見直せば、確かにへらりとした柔らかな顔に見覚えがあるような気がする。昨日はとにかく灰慈自身ただひたすら混乱の渦の中にいて、まったく冷静ではなかった。それに彼はあまりにも外見が違いすぎる。  昨日はとにかく赤かった。おそらく白だったんだろうと思われるシャツはほとんど血に染まっていたし、首筋も腕も、血を拭ったような跡が生々しく残っていた。髪の毛は乱れていたし、何より顔つきも随分と剣呑だっと記憶している。自分と話してくれているときは優し気な人だったが、最初に話しかけられたときは思わずぎょっとした。  血を洗い流しきちんとした服を着て髪の毛をセットしなおすと、彼はどうにも柔らかな見た目のハンサムになった。  おそらく三十歳を超えたあたりだろう。妙に落ち着いたような不思議な雰囲気は、昨日も今日も変わらない。  素直に気が付かなかった非礼を詫びると、目の前のハンサムは楽しそうに笑った。 「いやーそんなねぇー病院で一回話しただけの人、覚えてわざわざ挨拶しろって方がハードル高いよ。ごめんねおれわりと人の顔覚えるの好きで、おっと知り合いみたいなテンションで話しかけちゃって超不審でした。おれがわるい。あと名乗ってない事に今気が付いた」 「いや、あの、オレもお名前聞き忘れてて……てか昨日、ちゃんと帰れましたか」  そういえばぽつぽつと世間話をしている最中、『ところでこの格好タクシー乗れると思う?』と言われたことを思い出す。 「帰れた帰れた。つーか病院の売店なんてもの、すっかり頭から消えてたから綾瀬くんに提案されなきゃほんとあの殺人鬼仕様でタクシー乗ってたかもしれない。シャツとか売ってるのねぇああいうとこの売店って。いやーたぶん、血みどろになったシャツの着替えのために売ってるわけじゃないだろうけど」  彼は昨日あまり姉の話も灰慈の話もせず、本当にどうでもいいような世間話ばかりを選んで話してくれていた。昨日は気が付かなかったが、おそらくは気を使ってくれていたのだろうと思う。  普段なら知り合いでもない男に呼び止められても挨拶程度でその場を立ち去るところだが、灰慈が立ち話に興じた理由は『この人はたぶんいい人』だと思っていたからだ。 「あの、今からご帰宅ですか?」 「うん。もう用事ないから帰っていいって。つっても明日も来てくれって言われちゃったから連日ご出頭だけど。別におれが何したわけじゃないけどね、てかご帰宅っていうかこれからご出勤というか」 「……オレ車ですけど、送っていきましょうか?」  そして普段なら絶対に言わないセリフを恐る恐る灰慈が口にしたのも、やはり彼が良い人だと思っていたからだ。  灰慈の控えめな申し出に、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、その後に柔らかく息を吐いた。甘く笑う人だ。そして諦めたように息を吐く人だと思う。 「えー、優しいね綾瀬くんは。でも大丈夫実はこれからおれはクリーニング屋さんに行かねばならぬので、自力でご帰宅します」 「……まさかその紙袋、昨日の……?」 「うん、そう。なんかほら、このぶっかかった血、おれのじゃなくってご当人たちのやつだから一応写真撮るとかいって持って来いって言われちゃって。でもまー本人たち目が覚めて自供っていうかきちんと話できてるみたいだし、写真撮ったしもういいよーって言われたからやっとクリーニングに送り出せるわけよ。シミ取れるかしらんけど」 「…………とれるとは思いますけど結構時間かかるかも……」 「あ。そっか、綾瀬くんち、クリーニング屋さんか」  古い車のロゴを見やった男が、納得したように呟く。他の店名だったらわからないが、ここまでわかりやすく業種を指している店名なら間違い様もないだろう。 「綾瀬クリーニング店さん、まだ御営業してる?」 「あ、はい。てゆーかオレが継ぎました」 「え、まじで。じゃあ綾瀬くんのお仕事クリーニング屋さんなのか。えー……」 「……似合わない、ですよね」 「あー、えー、うん。そうね。なんかもっと、美容師とかそういう感じかと勝手に思い込んでた。だってキミ、見た目がオシャレだから」  これは灰慈のささやかな悩みの一つでもあった。  櫟七星含めよくつるんでいる仲間たちが、何故か皆ファッションやアパレル系なのだ。  実家につぶれそうなクリーニング店を継いだ灰慈には、ずばり金がない。実家暮らしなのだから随分と金も浮いているだろうと言われることもあるが、とんでもない。家の仕事で得た利益は税金と生活費と子供たちの授業料に消える。子供を産んでから早くに離婚した綾瀬家は実質母が一人できりもりしていた。母親が肺の病気で引退し灰慈に店が引き渡されただけで、結局人では足りないし売り上げが伸びたわけでもない。どうにか生きていける程度には忙しい。それでも裕福とは程遠い。  万年金がない灰慈の為に、髪の毛は『カットの練習』と称して七星が無料で切ってくれる。タダで髪まで染めてくれるのだから文句は言えないのだが、いかんせん七星のセンスは派手すぎた。  アパレル系の友人たちも時期が過ぎてセールになっていた服だとか、新しいものを買ったからもういらないとかで、大量の服を送ってくれる。この洋服たちもやはり地味とは言い難く、灰慈の外見をさらに派手に飾り立てた。  好意は嬉しい。ありがたい。全く文句などない。七星などは飲み代までもカンパしてくれる。金がないという理由で誘いを断りすぎたからかもしれないが、心遣いはありがたいと思っている。  ただ近所の主婦たちに『綾瀬さんとこのハイジちゃんはオシャレに気を遣うくらいならお母さんに服の一つでも贈ってあげたらいいのに』などと噂されることは億劫だった。井戸端会議のど真ん中に分け入り、この派手な外見はすべて無料だと叫ぶわけにもいかない。  友人たちの好意に文句など一つもないので、結局どうしようもないのだが、実際に『ぽくない』と言われると少しだけ気分が降下する。  なんとなくくさしさ気分になりかけた灰慈に、へらりとした男は『でも』と言葉を続けた。 「クリーニング屋さんがオシャレなイケメンって、ちょっと格好いいかもね。美容師さんだって服屋の店員さんだってさ、やっぱオシャレだと『おっ』って思うしねぇ。洋服をきっぱり綺麗にしてくれる人が清潔で格好いいの、ちょっといいねぇー。ってことでおれの血みどろシャツのクリーニングお願いできちゃう?」 「…………え?」 「え。あ、やっぱだめ? お店ちゃんといかないとだめ? まーそうだよねこんな道端で軽く押し付けんなって話――」 「あ、いや、クリーニングはーその、承ります、けど」 「けど?」 「派手なクリーニング屋って、なんか、えーっと駄目じゃないです?」 「え、なんで? きみのお洋服がオシャレだと、クリーニングするときに何か問題でもあるの?」  ない。全くないが、そんな正論をいきなり正面からぶつけられた灰慈は思わず面食らった。  なんとなく悪いものだと思っていた。オシャレはずるいだとか、身の程知らずだとか、場違いだとか、そういうイメージがあった。 「そらーね、ばっちりアイメイクギラギラで濃いリップべったり塗ってたりしたらね、いやーおねーさんその口紅商品につかない? 化粧邪魔じゃない? って思っちゃうかもしれないけど綾瀬くんはすっぴんでしょうよ。それに髪の毛だってちゃんと仕事中は留めてんでしょ?」 「え、あ、はい。そら、だって、クリーニングした服についたらまずいし……てかなんでわかんの……」 「ピンでずっと留めてた跡って、結構ちゃんと髪の毛に残んだよー。仕事中ちゃんと気を付けてるなら、別にどうでもいいじゃないの」  正論だった。正論すぎてうまく言葉が選べず、結局ありがとうございますなどというよくわからない言葉を返してしまった。一瞬だけ間をおいて、男はいえいえと笑う。そして何事もなかったかのように、じゃあクリーニングお願いしますと頭を下げた。 「今日はなんと名刺を持っているんだよねーてか普段から持ってろって話なんだけど。昨日は携帯も置いて救急車乗り込んじゃうポンコツっぷりだったからなー。つーわけで連絡先ね」 「……すがきたいせー、さん」 「はい。菅生泰成、三十二歳です」 「…………え、三十二……え?」 「みえないでしょーふふふ、まだまだやんちゃだからねおれ、落ち着きたいなぁって思ってますよ、これでも。ところで綾瀬灰慈くん」 「え、あ、はい」 「おねーさんの持ち物とお部屋からね、どうしても見つからないものがあんのよ。これたぶんきみも病院の人に聞かれたとおもうんだけど」 「――健康保険証……?」 「それ」  嫌な話が始まる、予感がした。  けれど耳をふさぐわけにもいかない。聞きたくないからと言って耳をふさいで何もかもうまく行くわけがない。  幾ばくか表情を引き締めたピンクの象の男――菅生は、すらりと長い腕を組み顎に手を当てる。 「いやー実はうちの店社保じゃなくってさ。社会保険ね。えーと、お店継いでるってことは、綾瀬くんも保険とか税金とかはわかると思うけど……」 「あー、はい。大丈夫です。うちは国保なんで……」 「だよね? 自営業だもんね? そんで本来ならクララは灰慈くんと同じく国民健康保険に加入している筈なんだけど、なんとこれが見当たらないし、支払っている形跡もない。っつーことは」 「…………医療費満額負担……?」 「そう。一応輸血とかもしてるみたいだし動脈塞ぐ手術してるし、入院費含めその分も全部、満額。保険の控除受けらんないから、結構な金額になっちゃうと思う」 「でも、……姉、生きてるんです、よね? じゃあ姉が自分で払う事になりますよね……?」 「まあ普通はそうなるわけなんだけど、どうもおねーさん、お金ないからってきみにたかる気でいるっぽいのよねー」 「………………はぁ?」  風俗していたんだろ、と口をついて出そうになりぎりぎりで留まる。姉にどんな事情があったのか、灰慈は知らない。もしかしたら借金があったのかもしれないし、ほとんど収入はなかったのかもしれない。何より目の前の男は風俗店の関係者だ。風俗イコール簡単に金が手に入る、というのは灰慈の偏見に違いない。  しかし彼女にどんな理由があるにせよ、萌子がまるで捨てるように置いて行った子供の面倒を見て育てているのは灰慈とその母だ。この上自分がしでかした大けがの費用まで出させるつもりだというのは、流石に開いた口がふさがらない。  思わず眉を寄せたまま固まる灰慈に、菅生はまあそうなるよね、と首を傾げる。 「あとねー、うちの店の清掃費。これも本来おねーさんに請求が行くんだけど、やっぱこれも払えないの一点張りで通そうとしているっぽくてこれ最悪親族の方にいきます。つまりきみ」 「…………それは、姉がご迷惑をかけたので、なんとか……お支払いするべきなんでしょうけど」 「いやいやいや綾瀬くんがお支払いするべきではないんだけど、でもウチもお金ないのかーじゃあ今回はいいよーってわけにもいかないし実際清掃業者入れちゃってるから料金発生しちゃっててねー……ぶっちゃけ綾瀬くん、お支払いできる感じじゃないよね?」 「え、あ、はい。お金ないです」 「うーん気持ちのいい即答。というわけで、今ふっと思い立ったんだけど、そんな綾瀬くんにご提案です」  菅生はにこりと笑う。その顔はとても柔らかいのに、灰慈は妙な胸騒ぎを覚えた。そしてこの予感は見事に当たってしまうのだ。 「お金のために、おれんとこで一日二時間バイトしない?」  ――いいひとだ、と思った。だから立ち話に興じてしまったし、クリーニングを預かってしまったし、名刺を受け取ってしまった。  けれどもしかしたらこの人怪しい人なんじゃないの、と思い始めた時、綾瀬灰慈はもう後には引けなくなってしまっていた。

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