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■03

 ロッカーの中身は大したものなど入っていなくて、生活感は欠片もない――と言いたかったなぁ、と、菅生は苦笑する。  突然姿を消す小説の登場人物には、よく付きまとう表現だ。生活感がない酷くミステリアスな人間。できればクララもそうであってほしかったと心底思う。  こんなに何に使うんだと呆れるほどの化粧品とアクセサリーの数々。携帯食料にサプリメントまではまだ、わからないでもない。  しかし、いつのものかわからない飲みかけのミネラルウォーターや明らかに清潔な状態ではない下着、さらに大量の小銭がじゃらじゃらと乱雑に詰め込まれいるロッカーに、ため息を吐くなという方が無理だ。  正直菅生は綺麗好きではない。それでも職場に私物を持ち込むタイプではないので、狭いロッカーの中でぎっしりとひしめき合うクララの荷物を前に、しばらく呆然としてしまった。  クララこと綾瀬萌子が、ソープランド『愛キャット』の一室で心中未遂事件を起こしてから、早四日が経過していた。  クララと連れ合いの男はまだ入院中で、菅生も一度しか面会できていない。しかし彼女は看護師伝いに伝言を寄越した。その言いたい放題の内容がまた、頭痛の種だ。  もうソープランドは辞めるだとか。ロッカーの荷物はまとめて弟に渡せだとか。差し入れに暇つぶしができるDVDが欲しいだとか。警察がウザいからもう来ないように言ってくれだとか。  退職に関しては菅生としても大歓迎だったので問題はないが、差し入れだの警察への文句だの、あまりにも関係のない事柄だったので何事もなかったかのように無視を決め込んだ。  へらへらとしているせいで誤解されがちだが、菅生はもとより他人に甘い方ではない。やる事をやっていれば文句は言わない、というだけで、迷惑な元従業員をよしよしと甘やかすような心の広さは持ち合わせていなかった。  しかしながらロッカー内の私物の撤去は必要な作業だ。仕方なく覚悟を決め、クララが使用していたロッカーを開けてすべてを紙袋にぶちこみ綾瀬灰慈に渡そう……と努力してみたものの、途中で一度本当に泣きそうになった。  自分の部屋の惨状も褒められたものではないが、他人のゴミや汚物はまた別だ。女性のロッカーの中身にひどい表現を使いたくはないが、使用済みらしき生理用ナプキンは『汚物』と言っても過言ではないだろう。  これをそのまま灰慈に渡していいものか。悩みながら作業をしたのは最初の五分だけで、あとはただ無心に紙袋にぶち込み続けた。  ひとしきり作業を終えて心底悲しい気持ちでロッカーの拭き掃除を終えた後、鏡台の前にもあんのよ、と声を掛けられて思わずゲエ、と声が出た。 「……あっら、めっずらし。スガちゃんがそんなイヤーな顔すんなんて」  すらりとした足を組み替えた女性は、咥えた煙草に火をつける。先ほどから完全に傍観を決め込んでいたソープ嬢の一人だ。 「そりゃあーヒキガエルみてーな声も出ますよって話よ……ヒトの事いえねーですけどゴミ屋敷じゃんよ。なんでも出てくるのねーってのは猫型ロボットのポケットに対して言いたい言葉であってね、ゴミばっか出てくるおぞましいロッカーに使いたい言葉じゃないのよ……ヨジさん、ここ禁煙」 「ばれやしないっしょ。みんな吸ってんだし。つーか、そんなの本人にやらせりゃいいじゃない」 「んー……まあ、そうなんだけど。いつまでも私物あっても嫌だしなんなら置いてかれても困るし、どうせ弟君にはこの後会うしついでにやっちゃうかこんくらい、と思いまして」 「いつからそんな優しい男になっちゃったのスガちゃん……」 「優しかねーよ。ただ、クララ弟に迷惑かけんのは嫌だなぁ、って思ってるだけ」  菅生が言われたことをやらない場合、あの女は家族の方に無茶振りをしそうだ、と思っただけだ。  正直なところ、心中未遂をやらかす前のクララの印象は薄かった。影の薄い女だった、というわけではない。菅生の人生の中ではよくいる『面倒くさい関わりたくない人間』のうちの一人だっただけだ。  どんな子だったか、明確に思い出せない。面倒だったなーとか、基本的にしゃべりたくなくて避けてたなーとか、客のクレームも多かったなぁーとか、そういう印象しか残っておらず、何をしたとか何を話したとか、その詳細がさっぱり記憶になかった。女性の身体的な魅力にほとんど興味を覚えない菅生は、胸の大きさや尻の形なども注視しない。  どんな子だったっけ。  素直にそんな疑問を口にした菅生に対し、煙草の煙をふう、と吐いたヨジは至極嫌そうに眼を細めた。 「どんな子ってあんな子じゃんよ。嫌な子。性格が悪くて若いだけが取り柄なのに若さもなくなってきてただ嫌なババアに片足突っ込んでるヤバい奴」 「ヨジさん今日も厳しいねぇ」 「店のオンナノコの事『どんなこだった?』なんて訊くスガちゃんの方がえぐいでしょうが。あんなやばい奴を『よくいる面倒な子』くらいの気持ちで流しちゃってるの、ちょっとどうかと思う。スガちゃんがさぁ、いくらソッチの人で女の子に興味ないからってさぁ」 「ちょっとヨジさんそれオフレコなんで一応ー。みんな気が付かないふりしてくれてんだから、黙って黙って」  菅生がヨジと呼ぶ彼女は、クララよりも若いソープ嬢だ。すっぴんでもはっきりとした異国風の顔立ちの美人だが、年齢は菅生も知らない。  本業は別に持っていて、ほとんどバイトのような感覚で『愛キャット』に顔を出している。たまにしか顔を出さないわりに情報通の古株で、突然オーナーの仕事を引き受けることになった際に色々と手助けをしてくれたのは彼女だった。  その頃の恩もあってか、この店で一番話しやすいのは彼女だと思う。  店舗用の源氏名もあったが、『源氏名決めてって言われて時計見たら四時だったから「四時」にしようとしたら却下されたのいまでも解せない』という彼女の話が好きすぎて、菅生はずっと彼女の事をヨジと呼んでいる。 「でもまぁ、あたしもさぁ、普通に面倒で嫌な子だわなぁーくらいの気持ちだったよ。まさか死のうとするなんて。しかもここで。こんなトコロで。……いっせーの、で死ぬ場所を、なにもソープなんかにしなくてもよかったでしょうに」 「ウチの店に恨みでもあったとか?」 「ないでしょ。つーか自分以外全員を恨んでたし見下してたよ、クララは。結局ちゃんと死ぬ気なんかなくってさ、ただみんなに注目してほしかったパフォーマンスだったのかもね。そうじゃなきゃ、樹海の真ん中で薬飲んで寝っ転がった方が確実じゃんよ」  あまりにも的確な事を言うものだから、不謹慎ながらも笑ってしまう。  クララが何を思ってソープランドの店内で手首を切ったのか、菅生にはわからないし想像もできない。けれど確かに、確実に死のうと思うならば別の場所を選ぶだろう。  死にたかったのか、死にたくなかったのか。そんなことはこの際どうでもいいが、とにかくもう迷惑を掛けられたくない。そしてできれば、あのクリーニング店の若い店主にも、迷惑かからないといいなと思っていた。 「スガちゃん、クララの家族に直で会ってんでしょ? どうなの」 「どうって何が?」  ふう、と煙が舞う。ずるいなぁおれも煙草吸いたいけどここ禁煙だしなぁ、と菅生が眉をしかめるのも気にせず、ヨジは煙草の灰を落とす。 「ヤバい奴って結構親族丸ごとヤバくない? 遺伝すっげーって感じるときあるよ、あたし。この親にしてこの子あり、みたいなやつ」 「あー……どうかなぁ。親御さんには会ってねーですけど、少なくとも弟君はえらい普通の子だよ」 「あらら。じゃあ反面教師系かな? スガちゃんと一緒じゃん」 「おれの方は一家全員やべー奴だよ」  軽く笑ってから、荷物と言う名のゴミがぎっしり入った紙袋を二つ、よいせと持ち上げる。ちらっと見た腕時計は午後七時を示している。きっかり、約束の時間だ。  ヨジに軽く手を振り、すれ違うスタッフに声を掛けながら裏口の扉を膝で開ける。よたよたと路地を歩いた先の小さな駐車場には、指定通りの場所に『綾瀬クリーニング店』のバンが停まっていた。  運転席の青年はまだ菅生に気が付かない。真剣な表情で携帯を睨んでいたからゲームでもしてんのかな? と思ったが、どうやらラインのやり取りをしているらしい。  仕事以外で携帯をほとんど使わない菅生にとって、SNSやラインといった他人とのコミュニケーションツールは馴染みのないものだ。  手に持った紙袋を一度地面に下ろし、コンコンと助手席側の窓を叩く。  ハッと、はじかれたように顔を上げた綾瀬が慌ててシートベルトを外そうとしたので、菅生の方も慌てて止めた。 「あーごめん、出てこなくていい、だいじょーぶ! こっちの鍵だけあーけて」  ロックが開く音がして、菅生はまず助手席の床に紙袋を放り投げた。 「いやーごめんね荷物多くしちゃって……てわけでこれ、おねーさんからの押し付け荷物。ちなみにいつ退院かいつ取りに行くのか一切不明。あ、こんばんは?」 「こん、ばんは、あの……え? これから、オレ、バイトに行くんじゃ……」 「うん。バイト先にあんないします」 「……なんで菅生さん、オレの車に乗り込んじゃってるんです?」  当たり前のように助手席に座り、当たり前のようにシートベルトをしめた菅生に対し、心底驚いた様子で綾瀬は眉を寄せる。  三秒ほどじっくり考えて、それから菅生は『あ』と声を出す。 「っあー、ごめん! おれ言ってなかったっけ、バイト先って此処じゃないよ、つかそっかなんか今日やけにテンション低いなーやっぱ嫌だったのか申し訳ないなーとか思っちゃったけどもしかしてソープで雑用とかさせられるって思ってた……?」 「は……はい……なんか……お店手伝うのかなって……」 「いやー大丈夫そっちは人手足りてるし、ていうかおねーさんが心中しようとしたお店で弟くんを働かせるとかいう鬼畜の所業みたいなことしないから、マジで、うん、いやーほんとごめんねおれが悪い。なんかこう、いつも大事な事言ったつもりになっちゃうのよくない」  病院で会ったときは名前を名乗ったつもりでいた。そして今はすっかりバイトの内容を説明したつもりでいたのだ。  何も知らされず午後七時に歓楽街の駐車場を指定されれば、誰だって不穏な想像をしてしまうだろう。不安にもなるはずだ。  勘違いを恥じてか、少し赤くなっている綾瀬を安心させるようになるべく笑う。胡散臭いと言われる笑顔でも、笑わないよりはマシだろう。 「綾瀬くんのバイト先はねぇ、うちのお店じゃなくってもうちょい先です。ってわけで申し訳ないけど車出してもらっていいかな? お店に来てもらったのは単におねーさんの荷物持って行ってもらいたかっただけだから、もう一生来なくて大丈夫だよ。いや、お客さんとして来るなら歓迎するけど」 「い、まのところ、その、お世話になる予定は、ないです……」 「あはは。だよねぇ。まだ若いしそういう遊びする感じじゃないもんねー。あ、でかい通りに出てから右ね? そしたらしばらくまっすぐで、つか駅の方に行ってもらえばいいから。……さっきのライン、返さなくて大丈夫?」  ゆっくりと丁寧な運転で動き出した車は、菅生の指示に従って滑らかに走行する。古そうな車なのに乗り心地がいいのは、綾瀬の運転が丁寧だからだろう。  菅生がラインの心配をしたのは、ポケットにつっこんだらしき綾瀬の携帯から、ラインの通知音がひっきりなしに響いていたからだ。 「あー……すいません、気にしないでください……」 「おれがきみを掻っ攫った事にお怒りの彼女とか?」 「まさか。いませんよ。えーと友達……」 「なるほどおれがきみを掻っ攫った事にお怒りの友達か」 「違いますってば! ただの合コン好きな友人からの合コンいかね? っていういつもの強めな誘いです……!」 「ごうこん。ごうこん! おー、若者の言葉って感じだなぁ……てか綾瀬くん合コンとか行くの?」  実のところ少しだけ意外だった。  合コンと言ってもカラオケや大衆居酒屋なのだろう。だとしたら出費もそこまで嵩まない、とはいえ綾瀬からは時間も金も余裕もない、というようなひっ迫した空気を感じていた為、なんとなくイメージと合わないなぁと思ってしまった。  意外だ、という感情が顔に出ていたのだろう。赤信号待ちでちらりと視線を寄越した綾瀬は、少しだけ口の端を曲げた。  全体的にきちんとした青年、という雰囲気の綾瀬だが、拗ねるとどうも子供っぽさが出てしまうらしい。 「……あんまり行かないですよ、時間ないし金もないし。でも、すんげー誘われるんです。おまえがいないと困るとかなんとか大袈裟な事言われて」 「あー。綾瀬くんあれだもんね、イケメンだもんねぇ。格好いいし、適度に可愛いし、そんでやさしいし。そりゃ合コンの華だ」 「いや外見はわかんねーですけど別に優しくは……」 「優しいよー、だって別に興味のない合コンに、数回に一度くらいは付き合いで出るんでしょ? おれだったらねぇ、興味のないことに一円だってお金使いたくないし、一秒だってやりたくないもの」 「……オレは、なんか……菅生さんのほうが格好いい、と思うけど」 「いやー他人に合わせられる人の方がね、良いよ絶対。おれは一人でも楽しいけど、みんなでワイワイできる人ってすごいなぁって思うもの。ところで話変わるけどそのースガキサンっていうの、なんだか慣れなくって尻の座りが悪いんだよねー」  サッと話を変えてしまった菅生に対して、綾瀬は気分を害した様子もなく目を瞬かせる。 「菅生さんって、でも、菅生さんは菅生さん、ですよね?」 「うーん、菅生さんは菅生さんなんだけど大体スガさんって呼ばれるからどうもねー、キの字に馴染みがない」 「なんすかそれ」  ふは、と息を漏らすように笑う。菅生の前では常に緊張した面持ちの綾瀬が、ごく自然に笑いを零した瞬間だ。  綾瀬はいつも疲れ切ったような青い顔をしている。菅生に会うタイミングが病院だったり警察署だったりする為、仕方ないのかもしれないがなんとなく、張り詰めたような危うい雰囲気が彼のイメージになり始めていた。  あー、普通に笑うんだな。ていうか笑うと随分かわいいな。  そう思いながらも綾瀬の横顔を凝視している自分に気が付き、不自然にならないように細心の注意を払いながら視線を逸らした。 「じゃー、オレもスガさんて呼びます。キが嫌いなら仕方ないですよね」 「うん。そうね、そうしてもらえると嬉しいけどキが嫌いなわけじゃないからね? ところで綾瀬くんもセが苦手だったりしない?」 「……え、なんです、それ。セ抜かして呼びたいってこと?」 「いやーおれの周り基本女子ばっかだから、なんかこーくん付けにねー馴染みがねー」 「またそれですか。いやべつに好きに呼んでもらっていいですけど……」 「わー、やった。じゃあアヤちゃんって呼んじゃおう。んー……いいね、スガさんアヤちゃん。まるで仲良しだ」 「バイト先の人とバイトですけどね」  軽口を添えるくらいには、気を許してくれているらしい。その事実になんとなく浮ついている自分には気が付かないふりをして、菅生は目的地の駐車場へと白いバンを導いた。  人通りのないごく普通の住宅地だ。と言っても一軒家よりはアパートが多い。近所に工場が多いため、出稼ぎの労働者のために安アパートが乱立したのだろう。昨今の不景気で随分と工場もつぶれ、アパートの住人も少なくなった。  廃墟のような薄汚れた階段を先導し、端っこ歩くと揺れるから気を付けてねと声をかける。先ほどまでの砕けた空気はまたなりを潜め、綾瀬青年はすっかり青い顔に戻ってしまっている。  一体自分は何処に連れていかれるのか。  そういえばこの人はへらへらしているけど夜の店の人間だった。やっぱり悪い大人なんじゃないか……。  おそらくはそんな事を考えているのだろう。菅生もあまりポーカーフェイスには自信はないが、綾瀬もすぐに顔にでるタイプらしい。うっかりまた軽率にかわいいなぁと思ってしまい、慌てて息を吸って感情を殺した。  どう見てもストレートの青年に、ほいほいと感情を傾けるわけにはいかない。  綾瀬とは別の意味で気合を入れ直し、菅生は目的地――菅生が生活しているアパートの扉を開けた。 「と、いうわけで、じゃーん。ここがアヤちゃんのバイト先です」 「………………は?」  たっぷり五秒、無言で室内を凝視した後に玄関先に突っ立った綾瀬が放ったのは、可愛いとは言い難い低い声だったが、やはり菅生は『わーかわいい』と思ってしまう。  だが綾瀬の気持ちはわからないでもない。  何と言っても菅生はつい先ほど、綾瀬萌子のロッカーに対して恐らく同じ事を思っていたからだ。 「…………オレの仕事って、特殊清掃……?」 「うふふ。へへへ。いやだねーゴミ屋敷じゃなくってねーなんとスガさんは今現在こちらに暮らしておりますの。というわけでアヤちゃんにはわが家の掃除バイトをよろしくたのみたいと思いますーあと洗濯もやってもらえるとおにーさん嬉しい」 「あの……てか、スガさん、風俗の人ですよね……オーナーだって、言ってませんでした?」 「んー? うん。オーナーよ。ソープランド『愛キャット』のオーナーさんですよ。あ、この店名おれじゃなくて先代がつけたからおれのセンス疑うのはやめてね?」 「これは、その、偏見かもしんないんですけど……夜のお店経営してる人って、なんつーかこう……もっと、マンション? みたいなとこに住んでるもんだと思ってて……」 「あータワマン? タワマンってやつ? いやーおれもできるなら家政婦さん付きオシャレマンションとかに住みたいんだけどいかんせん家族の借金返済で結構金持ってかれちゃっててあんまり贅沢はできないご身分だったんだよね。ビンボー暮らし強制されてるわけでもないし引っ越そうと思えばできなくもないっちゃないけど、うーん面倒でねー。別に不便ないし。隣いなくて静かだし。別にここでいっかなーと思って」 「……家政婦サービス……」 「うん。だからアヤちゃんを雇いました。とりあえず一日二時間、週二でどうかなー?」 「いやいやいやいや! いや! むり! 無理ですってそんな短時間でどうにかなる魔窟には見えないですってこれ!」 「まくつ」 「すいませんだって魔窟でしょ部屋んなか床見えないじゃないっすか! かろうじて変な臭いはしないけど!」 「生ごみとかはちゃんと捨ててんのよ。つかゴミはわりとちゃんと捨ててんのよ。じゃあこれなんでこんなきったねーのかなぁ? っておれもぶっちゃけ不思議です」  なんでだろうね? と首を傾げる。  すぐ隣で呆然と部屋を見つめていた綾瀬は、ゆっくりと菅生を睨みつけると泣きそうな顔でぐっと言葉を飲み込んだ、様子だった。  少し、悪い大人になった気分だ。  綾瀬は金がない。今現在クララが汚した店舗のクリーニング費用は、菅生が肩代わりしている状態だ。病院の入院費もとりあえず本人が払えず、綾瀬の家でも負担できないのならば菅生が一時的に貸すという話になっている。  菅生の紹介するバイトを、綾瀬は断れない。  一日二時間、週二回という条件は、甘すぎる程甘い。そんな事にはもちろん気が付いている筈で、だから綾瀬は『こんな部屋の掃除絶対に嫌だ』と思っても断ることはできないのだ。  悪い大人だ。そう思う。  別に困らせようとか揶揄おうとか思ったわけではない。菅生は単純に部屋の掃除をしてくれるバイトが欲しかったし、綾瀬になら掃除を任せてもいいなぁと思っただけだ。 「まあ、ゆっくりやってもらって大丈夫だから。最終的に人の住処っぽくなればそれでいい」  大雑把に肩を叩けば、腹を決めたらしい綾瀬のため息が大きく響いた。  最初に声をかけたのは、かわいそうだなぁと思ったから。  では今はなぜ彼をバイトとして雇おうと思ったのか。深く考えるとよくない感情に行きつきそうだったので、悪い大人はなにも知らないふりをしてただへらへらと笑うだけだった。

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