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「おにーちゃん、今日もどっかいくの?」  背中から投げかけられた声に振り向くと、不安そうな顔の甥が目に入る。  夜七時にクリーニング屋を閉め、いつもの倍速で後片付けをこなし、予定より五分押しの七時三十五分に靴を履いたところだ。  七星からもらったベージュのコートをひっかけた灰慈は、見るからに心細そうな面持ちの佑光にどうにか笑顔を作ってみせる。 「バイト始めたって言っただろー? ユウが寝るまでには帰ってくるから。おとなしく飯食って風呂入ってネネとテレビ見とけー」  このところ毎夜外出する灰慈を、子供ながらに心配してくれているのだろう。そう思って疲労でぐらつく頭をどうにか支えて笑ったというのに、少年は無慈悲な感想を呟く。 「またおばぁのご飯かー……やだなー。おれ、おにーちゃんのご飯がいいんだけどな……」  どうやら佑光が心配してたのは灰慈ではなく、自身の夕飯だったらしい。  思わずがっくりと肩を落としそうになる。が、しかし、『自分の外出がそこまで心身の負担になってないなら、それはそれでいいじゃん』と思い直す事にした。 「おっまえそれぜってーにばあばに言うなよーめっちゃ大変なことになんだからな……」 「えー……だって不味いじゃんか……ネネ姉のぐちゃっとしたチャーハンのほうがまだマシだよー……」 「あんた、自分で作れるようになってから文句いってくれる?」  ひょこっと居間から顔をだした寧音に睨まれ、佑光は口を噤む。生意気な弟だが、口では姉に勝てない事を知っているのだ。  ずり下がった眼鏡をかけ直し、寧音は手にしていた本にしおりを挟んだ。 「おにーちゃん、今日も遅くなる? お風呂落としとこうか?」 「んー……そうだなぁ、十時前には帰ってくる、つもりではいるけど無理かもしんないからそうしといて。悪い」 「いいよ。そんくらいやるし。車、気を付けてね。先週美空んちのお父さん事故ってたよ」 「え、うっそ山口さんち? 市役所の前の? マジかよこっわ、超安全運転で行くわ。じゃあ悪いけど後頼んだ。ユウ、頼むから、不味いとかやばいとかくさいとかぬるいとか、その辺一切の暴言は吐くなよ! 飯に!」 「はぁい……」  不安な返事であったが、もたもたしている時間はない。がらりと玄関を出た灰慈は、すでに日課になってしまったバイト先へ向かうために、クリーニング店のバンに乗り込みエンジンをかけた。  菅生の魔窟、もといアパートに通い始めて一週間が経った。  外見は少し古いだけのアパートだ。もしかしたら畳かもしれない、と思わせる薄汚れた外壁に不安を覚えたのはほんの一瞬だけだった。何故なら菅生の部屋はアパートの立地や古さなどどうでもよくなる程に、とんでもなく汚かったからだ。  汚れているのではなく、乱雑が過ぎるだけだ。本人が言ったようにゴミが散らかっていたり、臭うような事はない。  それなのに笑えるほどに汚い。  服は散乱しているし本は無造作に積まれているし、紙袋や段ボール箱は積み重なっているし、郵便物や書類やこれは必要なものじゃないのか? と首を傾げたくなるファイルなど、とにかく乱雑なのだ。他になんと表現していいかわからない。  アパートは古いが狭いわけではない。六畳と八畳の部屋がひとつずつとキッチンがあり、きちんと風呂とトイレも別れている。それなのにその全てのスペースが物で埋まり、床などほとんど見えない有様だった。  灰慈も決して綺麗好きというわけではない。それでも甥と姪の面倒を見る大人として、最低限散らかった家にはならないよう、二十代前半の男としてはそれなりに気を使って生活してきた。  一人暮らしの男の部屋は、ここまで酷くなってしまうのか。  初日の二時間で気合を入れてベッド周りをどうにか片付けたものの、翌々日に再度訪れた時にはもう足の踏み場はなくなっていた。  諸行無常とはこういう気持ちだろうか。などと空しく思ったところで現実はどうにもならない。身体を動かさねば、部屋の床は現れない。  指定された空き地にバンを停め、掴んできたトートバックの中から鍵を取り出す。  勝手に入っていいよ、と軽率に鍵を預けられた為、バイト中はほぼ一人きりだ。別に菅生の事が苦手、というわけではなかったが、仕事中に話しかけられると集中できないので一人で作業できる環境はありがたい。  不用心だな、と最初は思った。しかし部屋の中を改めていくうち、盗られて困るものなどないのかもしれない、と思い直した。  スーツは流石に高価そうだ。量販店で売られているリクルートスーツとはもちろん違う。灰慈は普段着もスーツもブランドには一切の興味がなかったが、それでも高いんだろうとわかる。だがその高そうなスーツ以外は、ろくな家電も置いていない。  休日はシアタールームで映画鑑賞をしながら高い酒を飲んでいそうな外見だというのに、菅生はどうやら無趣味らしい。強いて言うなら読書が趣味か。ただひたすらに積み上げられた本のタワーを眺めていると、『本が好き』というよりは『読めればなんでもいい』のかもしれないと思うが。  薄暗い玄関に入って、電気のスイッチを手探りで探す。  パチン、と目の前が明るくなる。見慣れない紙袋が玄関先に二個程出没しているが、昨日帰った時からあまり変わっていないようだ。  両隣は空き家らしい。シン、と静まり返った室内は、確かに一人を好む人間にしてみれば快適かもしれない。  ただし年代物のアパートはそれなりに不便もある。 「そこの扉気を付けてね、うん、その寝室のとこね。それねぇ、立て付け? が悪いのかよくわっかんないんだけどさ、一度閉めると開かなくなっちゃうの。よいせってかんじで外さないと開かなくなっちゃうからね、ほらだからこうして完全に締まらないようにドアストッパーかませてんのよ。あーあと台所の窓、鍵かかんないから気を付けてね。二階だし流石に誰かが梯子掛けて入ってくるこたぁないだろうけど、あとトイレの水の止め方にコツあるから。冷蔵庫の前の床ちょっと抜けてるから踏まないでね。落ちちゃうからねー」  と、けらけら笑う菅生から説明を受けた際、流石に頭が痛くなりそうだった。  どうして引っ越さないのかと問えば、おそらく面倒くさいから、という答えが返ってくることだろう。なんとなく菅生という人間が、灰慈にもわかってきたところだ。  菅生泰成は柔らかい人だ。けれどその柔らかさは何にでも適応されてしまい、なんとなくすべてがなぁなぁに、つまりだらしなくなってしまう。  灰慈の母親は何もかもきっちりとしていて一々口うるさい。母とは対照的な人で、不思議だと思うし、柔らかければいいというわけでもないんだなぁと実感する。  脱ぎ散らかされた部屋着と部屋の大半に積まれた紙袋と箱を前に、灰慈は気合を入れ直す。  今日は朝から本業が忙しく、とにかく動き続けていた。台風が接近しているせいか頭もぼうっとするが、具合が芳しくないなどとは言っていられない。これはボランティアではなく、バイトなのだ。  今日の目標はソファーを発掘すること。  そう決めて、灰慈は八畳の恐らくリビングだった部屋(今はもうただの広い物置だ)に突入した。  よくわからない紙袋の束をとりあえず横にずらし道を作り、服や雑誌や書類で埋もれているソファーらしきものにたどり着き、とにかく上に乗っているものを避けてクリーナーシートで拭き、洋服は畳みタオルは洗濯機に放り投げ本はとりあえずサイズごとに分類して積み上げ紙袋や段ボール箱は中身をぶちまけて分類していく。なんとなく物が分類された段階で、発掘されたソファーに一度身体を任せた。  ……ところまでは、明確に記憶がある。  ふと意識が戻ったとき、まず目の前に映ったのは床だった。  そういえば畳じゃないんだな、フローリングのくせにやたら古臭いアパートだな。そう思った後に、なんでオレ床見てぼやっとしてんだろうっていうかここスガさんちだよな? と気が付く。  ――寝ていた。  うっかり、転寝をしていた。  その事実に気が付いて一気に青ざめ、だるい腕を持ち上げ携帯で時間を確認しようとしたとき、隣に誰か座っている事にやっと気が付いた。  寝起きでなければ叫んでいたかもしれない。  まだぼんやりとしていた灰慈は、ぼんやりとしてたせいでうまく声がでず頭も働かず、あーなんだスガさんじゃん……とぼんやりと胸をなでおろしただけだった。  菅生はストライプのシャツとスラックスのまま、文庫本を開いていた。読書に集中していたのだろう。しばらくの後、やっと灰慈が目覚めた事に気が付き、いつものへらりとした笑顔を見せる。 「あ。おはよーアヤちゃん」 「はよ……ございま……? え、スガさん、仕事は……」 「あー。いや実は今日休みで、ちょっと面接に顔出しに行っただけ。七時には帰ってくるつもりだったんだけど、もたもたしてたらこんな時間になっちゃってさ」  こんな時間、という言葉に慌てて携帯を確認する。  二十二時、の表示を見て一気に肝を冷やした灰慈は、慌てて起き上がろうとして菅生に緩やかに押し返された。 「いやいやもうちょい横になってなさい。きみ、顔青いよ。ほんとに。ここ最近休んでないんじゃないの? てかバイトさせてんのはおれだけどさ」 「……すいません、今日、ちょっと朝からバタバタしてて……」 「クリーニング屋さん繁盛期?」 「も、あるけど……なんていうか、ちょっとクレーマーみたいな人飼ってて、その人が久しぶりにご来店して二時間くらい怒鳴り散らしていって……」 「おん。……あー、ね。いるよねぇどこにでも。なんか、最初っからずーっと妙に切れてる人。いやークリーニング店にもいるんだねぇ。それは確かに疲れちゃうわ」  おつかれさま、という言葉とともに、背中を軽く叩かれる。  だらりとした菅生の言葉は、疲労した灰慈の耳にじわりと染み込む。  そういえば誰かに労われる事など、この数年なかったように思う。母は仕事ができて当たり前だという態度の厳しい人だ。少し偏屈で、プライドも高い。私に比べたらまだひよっこだ、が口癖だった。  幼い佑光はまだ自分の事で手一杯だし、中学生になったばかりの寧音がかろうじて灰慈を案じてくれるくらいだ。しかし寧音も十三歳だ。年上の叔父に向かって『頑張っててえらいね、お疲れ様』などと言うことはまずない。  友人もそれぞれ忙しい。社会にでたばかりの年代で、誰も彼もが疲れている。たまに会う飲み会くらいは仕事の愚痴など忘れて楽しい事をしたい、というタイプの男が多く、結果誰かに仕事の愚痴をこぼすようなタイミングはなかった。  年上の人に、お疲れ様、と声をかけてもらえる。その気持ちよさに、灰慈はうっかり心を預けそうになり、いやいやと内心頭を振る。……ほだされてはいけない。たぶん、菅生さんはいい人だけれど、誰でも誑し込む人だ。そう思う。  そう思うから気を確かに持とうと思うが、寝起きの頭は理性よりも本能を優先させてしまう。  仕方ない。自分は寝起きなのだ。だから、考えるよりも先に言葉が出る。……寝起きだから、仕方ない。 「……それ、なんの本です?」  相変わらず菅生の視線を独り占めしている本を見て、思ったままに質問を口にしてしまう。  ほとんど本を読まない灰慈は、背表紙の色で作者や出版社を推察できるような特技は持ち合わせていない。ちらりと目に入った背表紙はくすんだ青色だった。青磁色と言うべきか、妙に菅生に似合う色だ、と思う。 「ん。江國香織」 「あー……モンテールのピンクの象……?」 「うーん、全体的にちょっと惜しい。『モンテロッソのピンクの壁』ね」  ふはは、と笑ってくれるのが心地いい。菅生は何を言ってもふわふわと笑ってくれるので、どうにも安心して言葉を零す事が出来た。 「なんか、読んだ気分でいたんだけどねーどうもあらすじ読んで、中身読んだ気分になってただけみたい。想像していた話と随分違って、思ってたより難解でもないし、ちゃんと童話で面白いよ」 「童話なんですか、それ。なんかそんな、ちょっと電波な感じのタイトルなのに」 「分類的には絵本だからねぇ。おれも詳しくはないけど」 「好きでもないのに、買ってきたんですか? ……わざわざ?」 「好きかどうかわかんないから、読んでみようと思って買ってきたの。なんか、きっとこういう話なんだろうなって勝手に想像して、勝手に自分には合わないなって嫌煙してる本、わりとあるんだよねーって思ってさ」 「あー……」  覚えのない感覚ではない。灰慈は小説をほとんど読まないが、漫画は時折買って読む。タイトルだけは聞いたことがあるような有名な作品に対して、『実際に読んだら随分と想像していた内容と違った』という経験はある。 「思い込みって結構身近にばかすかあるよねぇ。本とか映画とか音楽とかでもさ。そういうものだって、思ってたのと違ったなぁ、なんてこと山ほどあるんだから、人間だってそうだよねーって思うねー。喋ってみないとわかんない。箱を開けてみなきゃ、何が入ってるかわかんない」 「あ、……なんだっけ、それ」  さっき見た、と咄嗟に思った。まだだるい腕を動かし、足元に積んである雑多な荷物を漁り、先ほどより分けた『捨てていいのか確認するべきもの』ゾーンからひとつの箱を取り出す。  今時珍しいマッチの箱だ。しかも中身はそのまま入っている。こういうものはきちんと管理していないと火事になったりしないものか、と不安になりもしたがとりあえずそれは置いておく。  マッチ箱には猫のシルエットと、『シュレディンガー』の文字があった。  いつか合コンで七星が得意そうに話していた。確か、箱を開けるまで死んでいるか生きているかわからない猫の話だ。  聞きかじった知識をなんとか並べると、本から顔を上げた菅生がまったりと笑う。 「シュレディンガーの猫なぁ。あれ、本当は量子力学の思考実験でさー、『箱を開けるまでそこになにがあるかわからない』って話じゃないんだけど、そういう風に認識されちゃってるっぽいよねぇ」 「え。違うんですか? なんかオレ、考え方がかっこいいなーと思って、覚えてたんですけど」 「いやー説明すると長いしおれも実のところそこまで物理とか得意じゃないからふわっとしかわっかんないんだけど、えーとまずは五十パーセントの確率で崩壊する放射線量子……いやそんな詳しく説明しなくてもいっか。とりあえずアレ、『この前提が正しかったら、死んでる状態の猫と生きてる状態の猫が重なり合ってる事になるんだけど、んな馬鹿馬鹿しい状態あるわけねーだろ』っていう反論だったはず。確か。詳しく知りたかったらググってちょうだい」 「……スガさんて、なんか、いろんなこと知ってますね」 「どうかなぁ……興味あることしか、調べないから。博識とも言い難いんだけどね。いやでも、シュレディンガーの猫って名前は格好いいから好きだな。そのマッチの店もね、名前が好きで通ってる。まぁおれ、酒飲めないんだけどねぇ」  そういえば菅生は煙草を吸う。  薄暗いバーのカウンターでマッチを擦る菅生を想像すると、確かにサマになる。  自分も三十を過ぎれば、菅生のような落ち着いた男になるのだろうか……と考えて、いや菅生はそこまできちんと落ち着いた男でもないな、と思い直す。できる男かもしれないし、何事にもどっしりと構えて対処できる男かもしれない。けれど少なくとも掃除と洗濯はできない。 「……スガさんて、なんか、こう……ちょうどよく変ですよね」  ぼんやりとした気分が抜けきらないまま、灰慈は口を動かしてしまう。失礼な事を言っているなぁと頭の片隅で考えてはいるものの、菅生は怒らないだろうというよくわからない確信もあった。  案の定、菅生は笑う。柔らかく、いたく楽しそうに、笑う。 「アヤちゃんの言葉のチョイスもね、ちょうどよく面白くていいねぇ。人生なかなか、ちょうどいいってものに出会う事ってないよ。だから嬉しいね今の言葉。てか、おれってやっぱり変なひと?」 「え、はい。変ですよ。……いきなり、ピンクの象の話とかしてくるんだから、そりゃ変な人です」 「あはは。まったくだー」  しんどい時は、ピンクの象が踊っている様を思い浮かべる、と菅生は言った。あの時は気が動転していて、しかも話しかけてきた菅生は全身血まみれで、話の内容よりも気になる事が山ほどあった。  後々、じっくりとその言葉を思い返すと、妙に頭に残る言葉で困った。  ピンクの象になんの執着もない。象が好きなわけでも、ピンク色が好きなわけでもない。それでもどすどすと踊る煌びやかな色の象は、インパクトがあった。 「しんどいなら、泊ってく?」  本にしおりを挟んだ菅生が、さらりと口にした提案に、灰慈は慌てて跳び起きる。 「いや、帰ります、明日の朝飯も作んなきゃだし……」 「主婦じゃん。めっちゃ大変じゃん。じゃーそんな大変なアヤちゃんにおにーさんが昼間しこしこ煮込んだ豚の角煮をおすそ分けしちゃいましょうー」 「……スガさん料理もできんの……?」 「お、その顔は『さすがステキ』じゃねーな? 料理できんのになんで掃除と洗濯できねーの、の顔だな?」 「その通りですよ」 「うはは」  菅生はまったりと柔らかく笑う。その声のゆるやかさが好きだなと思ってから、いや年上の男性に好きとかどうなんだと頭を振った。 「タッパはまた来た時返してね。あ、金曜は来なくて大丈夫、法事なんで」 「あー……オレも、その、金曜はちょっと用事が」 「合コン?」 「……いい加減顔出しとこうかなと思って」 「うわー、土曜のアヤちゃんが彼女持ちになってたらどうしよう!」 「どうもしなくていいです」  軽やかに笑う菅生に言いたい言葉をそのままぶつけつつ、少し寝たせいか随分と頭がすっきりしている事に気が付いた。なんとなく気分も楽だ。  本当は合コンなんか行かずに菅生の部屋に居たいと思ったことは、絶対に本人には言えない。言っても笑って『わー愛されてる』と茶化すだけだろうが、それでもほんの数日ですっかり懐いてしまった事を悟られたくはなかった。  変な人だ。けれどやはり、菅生は柔らかくて優しい大人だと思った。

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