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■05
酒の飲めない常連客などお呼びではないだろうに、『シュレディンガー』のカウンターに立つヨジはいつも生ぬるい笑顔を作って迎えてくれた。
ヨジはむやみやたらと笑わない。大概へらへらとしている菅生とは対照的に、いつでもスッと澄ました顔で煙草をふかしているイメージが強い。彼女が緩やかに笑うのはこのバーのカウンターの中にいるときだけだということを、菅生は知っている。
ネクタイはすでにほどいて鞄の中に突っ込んである。
ただでさえ酒に弱い菅生は、首を絞めつけながらアルコールを摂取することなどできない。上司や取引先と接待飲み会などをするらしいサラリーマンには、一生なれないな、と笑うが、そういえば五年前までは自分もサラリーマンだったことを忘れていた。
そんな事もあったなぁ、と、思い出す機会は、このところあまりにも少ない。菅生が今の生活に、特別な不満を持っていないからだろう。
「毎度不思議なんだよねぇ、スガちゃん。よくそのミモザで酔えるよね」
呆れたように二杯目の甘い酒を用意してくれるヨジに、ふわふわしはじめた菅生はいつものように笑う。
「へへ。おれも不思議。いやぁでも、この店はいいよね。とりあえずミモザを許してくれるんだもの」
「どこの店だろうがとりあえずミモザ頼む男を追い出したりはしないでしょ。気持ち悪いなくらいは思われるだろうけどね。どう見てもとりあえずビールもしくはウイスキーの顔してんだからスガちゃん」
「あー……ビールは二口くらいまでならいけるかな……たぶん……」
「飲み会とかどうしてたの。アルハラとかあった年代でしょうよ」
「んー? んー。……一回ビール飲まされて緊急搬送されてからは烏龍茶の男になったよ」
「……てか緊急搬送されるくらい酒が飲めないならちゃんと断りなさいよ……なんで馬鹿正直に身体張ってんのそういうとこなんだからね……」
「あはは」
「ほめてねーのよ」
げんなり、といった風にため息を吐くヨジの正論が心地いい。
シュレディンガーは大して賑わっていない中途半端な商店街の奥にぽつんと建つ、小さなバーだ。ほとんど常連で持っているような有様だが、店主であるヨジの姉は儲けようという気持ちはないらしい。金曜の夜だというのに、客は菅生の他にまだ誰もいない。夜の浅い時間ではあったが、先ほど通りがかった近場の大衆居酒屋は混雑している様子だった。
ひっそりとした隠れ家的な店。そういう店は、通う方は気持ちいいが、経営としてはどうなんだろうなぁと思ってしまう。儲けがないから、ヨジはソープでバイトをしているのかもしれないが、個人的な事情には口を挟まないことにしていた。
「なんか、ほんと危ういんだよねぇ、スガちゃんてさ。いつ死んでも別にいっかーとか思ってそうでさ」
「え。いつ死んでも別にいいよ?」
「ほら、そういう。そう言うところなんだっての」
「えー……だって、おれ別に家庭とか持とうと思ってないし。実際持てないだろうし。子供苦手だから未婚の父になる気もないし。仕事は嫌いじゃないけどいざ俺が死んでもどうせうちの店がつぶれることなんかないだろうし、じゃあ別に明日死んでもいいでしょって思ってましたけど」
「その、なんていうか、異様な自己評価の低さまじでなんなの……?」
さて、なぜだろう。などと考えなくてもわかる。菅生の生きて来た環境のせいだろう。
勿論すべてを他人のせいにするつもりはないが、常に詰られる生活は確実に菅生の性格を曲げた、と思う。幸せな家庭などというものを目にしたこともない。今更家族を恨むこともないが、幸せな家庭に憧れるような気持ちが一切持てないのは、それを目にしたことがないからではないかと思っていた。
パートナーがいて、子供がいて、仲睦まじく生きる。そういうモノを経験したことがないので、いまいち想像ができない。小説や映画の中の家族を見てもしっくりこない。別に他人が幸せであることにケチはつけないが、自分がそうなる未来は微塵も想像できず、そうなりたいとも思えなかった。
そもそも、菅生はゲイだ。初恋は幼稚園の同級生男子で、大失恋をしたのは中学の男性教員だった。物心ついたときからそんな調子なので、いまさら己の性について悩むこともないし、そういうものだと思っている。
ただでさえ家庭というものに興味がないのに、より一層ハードルが上がっているわけだ。菅生は女性と結婚できない。だから、子供を儲けて育てることもないだろう。
ただ自分が生きるだけの人生だ。
いつ死のうが『そういうものだ』と諦めるつもりで生きている。
ただしこのところ、明日死んだら少し困るな、と思い始めていた。その理由が毎日バイトに顔を出す青年のせいだということを、まだ菅生は誰にも言うつもりはない。
「つーか、家庭云々はおいとこうよ。あたしもぶっちゃけ子供産んで育てて旦那と素敵な家族、なんてもの望んでないし、そう言う人はスガちゃんじゃなくてもいるでしょ。そういうでっかい人生目標じゃなくっていいんだよ。彼女、もしくは彼氏。そう、恋人。恋はどうなの。恋に興味はないの。インポなの? 心も体もインポなの?」
「畳みかけるようにインポっていうのやめて……チガウけど心にくる……」
「インポじゃないなら恋しとけし。つかスガちゃんの好みのタイプって何。年下のソープ嬢はかわいい犬くらいにしか見えてないのは知ってるけど」
「人聞き悪いなほんと、ちゃんと人間として接してます……」
「年下? 年上? 二択で答えろ」
「…………年下、かな、と」
「ほう」
思わず視線を逸らしてしまうのは、ヨジがやたらと察しが良い事を知っているからだ。しかも彼女は容赦がない。そのずけずけとした正論が痛くて気に入っているのだが、言いたくない話があるときに長く談笑していたい人物ではない。
それでも今日シュレディンガーに入ったのは、一年に今日くらいは酒を飲もうと思ったからだ。その事情をヨジも知っているから、いつもはミモザを注文してもオレンジジュースしか出さない彼女も、今日はきちんと酒を配合してくれている。
「いまスガちゃん、明確なだれか思い浮かべたでしょ」
案の定、隠していた場所を的確に抉ってくる。だから嫌だと思うし、だから好きなんだよとため息をつきたくなる。
「最近付き合いがある年下の男の子っていったら……クララの弟?」
「あーのねー……ヨジさん空気読めるくせにあえて読まないのどうかと思うの。察して。察してよまだ一人で悩んでいたい段階なのよ」
「スガちゃんが一人で悩んだところでなんもしないか心中かの二択くらいになっちゃうでしょうが。いや心中はしないか。そんな度胸はないしスガちゃんは優しいから巻き込まないね。うん。自殺。自殺オア空気」
「リアルな分析やめてもらっていいっすか」
「ぐだぐだ面倒くさい事悩みすぎなんだっつの。普段はふわっふわすぎる適当メンズなのに。まあ、面倒くさい事ぐだぐだ悩みまくる人間だからいろんなものの表面だけなぞるふわふわメンズなんだろうけど、たまにはシンプルに感情だけで行動してみろ。酔っ払った勢いとかで押し倒せ」
「いやいやいやいや犯罪なんでそれ……」
「なんで。なんかそれっぽい空気にして甘ったるい言葉かけながらゆっくりソファーの上でこう、ぐっといきなさいよ。できるでしょスガちゃんなら」
「あのね、できるかもしんないけど、つかまだそういうアレでもない――」
「でも恋しちゃってんでしょ」
……しているのだろうか。
隠しておくつもりだった感情を暴かれて、多少パニックしながらも酔いの回り始めた頭で菅生は考える。
綾瀬灰慈は真面目な青年だ。確か二十四歳だったと思う。自分より八つも年下なのに、自分よりも働き者で責任感が強い。
本業が忙しそうだったので、掃除のバイトは週二でいいよと提案した。それなのに『週に二回程度じゃ焼け石に水』と言って結局週に五回は顔をだしてがっつり働いていく。お陰様で数年見ていなかった床がしっかり見えてきたし、どこに埋まっていたのか見当もつかなかったBDプレイヤーとも久しぶりに再会した。
捨てていいかわからないから菅生に確認するもの、と題された箱に放り投げられている懐かしい品を見る度に『わーこんなとこにあったんだなー』と楽しく拾い上げる。そんな菅生を呆れたようなに見つめる綾瀬の顔はかわいい。
下心なく疲れているなら泊って行けばいいのにと提案しても、綾瀬は絶対に家に帰る。外泊をすると母親が煩いらしい。がきんちょも心配するからと笑う様など、菅生よりも年上のしっかりした大人に見える。
かわいいし格好いい。いい子だし、真面目だし、それでいて疲れて転寝をしてしまうような危ういところもある。先日ソファーで寝ている綾瀬を発見した時は、思わず生きているか息を確認してしまった。血の気の引いた寝顔が心配すぎてしばらくそわそわと歩きまわってしまった事を、当の綾瀬は知らないだろう。
かわいいとは思うが、これが恋なのかいまいち確証が持てない。恋だとしても、実家を継いで姉が心中未遂をして母親と甥姪を養っていかなければいけない若者に、おいそれとちょっかいなど出せる状況ではない――。と、ここまで考えて、ああこういうのが『ぐだぐだと余計な事を考える』ということなのかもしれないと苦笑した。
シンプルに考えるのが苦手なのかもしれない。
そう思いながら煙草を手にして、シュレディンガーのマッチ箱を持ち上げる。
シュレディンガーの猫。箱の中に入った、五十パーセント死んでいて、五十パーセント生きている確率の猫。
ふとその話をしたなぁと思い出した。
「ヨジさんさぁ、なんでこの店の名前『シュレディンガー』なの?」
そういえば聞いたことはなかった。店の名前など基本的になんでもいいと思っているからだ。ふと足を延ばしたカフェの名前などを、いちいち店員に聞くこともない。なんとなくその話したなぁと思ったから口にしただけの疑問だった。
綾瀬はあの話を、哲学のような寓話だと思い込んでいた。そういう人も多いらしい。小説や映画などでわかりやすく説明した時に、どんどん意味が逸れていったのかもしれないし、最初から誤認されて広まったのかもしれない。
本来は量子力学の思考実験だ。ミクロの世界では観測するまで量子の状態が確定しない。状態が重なっている、と表現される。『不思議なこともあるもんだな』程度に流されているこの状態が、では猫程度の大きさのものに影響を与えたらどうなるのか。量子の重なりにより猫の生死が決まった場合、その猫は重なっていることになるのか……という反論の思考実験だった筈だ。
ヨジはどちらの認識なのだろう。そう思っただけだが、当のヨジはしれっとした顔で言い放った。
「え、格好良かったから」
「…………ん? んー……え? そんだけ?」
「そんだけ。え、なに、だめなの? いいじゃん、だって格好いいでしょ『シュレディンガーの猫』って。なんかこう、グサッときたわけよ。あたしの琴線に触れた。語感が」
「それだけ?」
「うん。それだけ。シンプルでいいでしょ」
シンプルってこういうことだよ、と笑うヨジを眺めながら、菅生は息を吐く。なんとなく、胸の奥につかえていた何かが息とともにゆっくりと出て行ったような気がした。
理由や理屈などはどうでもいい。ただ好きだったから、と笑うヨジは、菅生にとってはとても真似できないストレートで格好いい人間に見えた。
「スガちゃんだってあるでしょ。理屈とかじゃなくて好きなもの。直感で気にっちゃったもの」
「あー……ピンクの象、とか」
「なにそれ。インドのお土産?」
「インド人的に象って神聖なんじゃないの? ピンクに塗るとか冒涜じゃないの?」
「知らんけどこの前見た映画の象は黄色だった」
「バーフバリの知識でインドを語って怒られない?」
「スガちゃんのいいところはその、無駄なもんを無駄に知ってるとこだよね」
人生きつくなると菅生はピンクの象を思い浮かべる。だが確かにそこに理由や理屈はない。ただ、ピンクの象がどすどすと踊る場面を思い浮かべると心が休まる、というシンプルな理由だけがある。
もっと簡単に考えていいのだろうか。
ピンクの象を思い浮かべるときみたいに。
シュレディンガーに理由なんかつけないヨジさんみたいに。
そう思いながら舐めたミモザはオレンジの甘さの後に、普段は飲まないシャンパンの香りが漂った。
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