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■07
やってしまった。
十月の最終週はいつだって憂鬱だし後悔ばかりしているが、今年はとにかく今までの五年間で一番まずい。最悪だ。
こんなことならミモザから酒を抜いてもらえば良かったし、ヨジに綾瀬の話なんかしなければ良かったし、そもそもシュレディンガーになど行かなければ良かった。
例年通り実家には寄らず墓に花だけ添えた。
墓石は兄ではない。ただの石だ。そこにあるだけの石だ。そう思っていてもこの下に骨があると思うだけで吐き気がした。毎年必ず一回、十月の終わりに自分は墓参りをして兄を思い出して吐く。
もう明確なエピソードなど覚えていない。とにかく最低な日々だった、という事しか覚えていないのに、それでも吐き気は止まらない。
この日ばかりは、酒で記憶を飛ばすしかないのだ。
菅生は酒に弱い。すぐに酔うし、頭がふわふわしてそのあと痛くなって感情が垂れ流しになる。そして酔っているときの記憶がごっそりとなくなる。
例年通りなら夢うつつにヨジ相手に管を撒き、どうにかタクシーに乗り、乱雑な廊下の荷物に躓きながらベッドにたどり着き二日酔いの午後を迎える。
だが今年は飲みすぎた。ヨジが綾瀬の話を聞きたがるからだ、などと責任転嫁してしまいそうになるが、どう考えても酒の量すら見極められない自分が悪い話だ。
綾瀬の手を握ったことは覚えている。
だが、その他の記憶がさっぱりない。
なんとなく兄の話をしたようなしていないような。合コンの話をしたようなしていないような。その程度のふわっとした記憶しかないが、何にしても綾瀬に迷惑をかけたことだけは確実だ。
例え自分が彼に絡んだり吐いたりしていなかったとしても、深夜に呼び出しタクシー代わりに使った事だけでも大変な迷惑だ。
せっかく友達と楽しく遊んだ帰りだろうに、まったくなんて迷惑な大人だろう。
土曜の午後に目覚めた菅生は、まずは綾瀬に『ごめんねありがとうほんとうにすいません生きてます』のメッセージを送り、ただひたすら水を飲んで自省しながら過ごした。夜中何度か泣きそうになり、七頭くらいのピンクの象を脳内で躍らせた。
日曜はきちんと朝起きて、冷蔵庫の中にあった卵とパンを食べて珈琲を飲み、風呂に入って髭を剃ってきちんと綾瀬が畳んでくれたシャツを着て家を出た。
駅裏の洋菓子店でケーキを四つ買い、ついでにバタークッキーの詰め合わせも買う。
そのまま洋菓子店の箱を抱えてタクシーを拾い、綾瀬クリーニング店の前に立った時には昼を過ぎていた。
あまり根掘り葉掘り聞くもなぁ、と無駄に遠慮をしていたせいで、綾瀬の勤務時間や勤務体制を知らない。ガラッと入口開けた瞬間お袋さんいたらどうしよう、と一瞬だけひるんだが、やましいのは菅生の気持ちだけで今日の来訪目的は頭を下げる事だけだ。
えいや、という気持で引き戸に手を掛けた時。
「あれ、スガさん?」
唐突に背中から声を掛けられ、思わずケーキの箱を落としそうになってしまった。振り向かなくても声の主が誰かは明白だ。綾瀬の声を、聴き間違えるわけがない。
「……アヤちゃんおはーよー……」
「え、何してんですかこんなとこで。あ、もしかしてうちの車んなかになんか忘れものした? 財布とか……」
「え、あー、いや、財布は持ってるし忘れ物じゃないし落とし物でもない、んだけどなんてーか、そのー、お詫び? に? 来たっていうか」
「……え、律義。びっくりした。てか入っていいですよ」
菅生の後ろに立つ綾瀬は、ビニール袋に入った洋服の束を抱えている。彼に道を譲るように引き戸を開けると、綾瀬はまずただいま、と声を上げた。
店内から返ってきた声は涼やかな少女の声だ。
「おかえりー。うわ、鈴木さんとこまたこんなに預けてきたの? てかおにーちゃん、わざわざ回収しにいかなくてもよくない?」
「いやーお得意さんは大事にってのがほら、ウチの家訓らしいから……つか佑光どこ行った」
「居間でテレビ見てる」
「あいつ……ねーちゃんと店番してろって言ったのに……」
ひょっこりと覗いた店内には、眼鏡の少女が一人で座っているようだ。手にした文庫本を思わずさっと確認してしまう。ヤングアダルトレーベルだが、作者は有名な女性小説家だ。
彼女がクララの娘なのだろう。確かに顔立ちが似ていなくもない……と思いかけたが、よく考えたらクララの顔をもうほとんど思い出せない。少女が似ているのはクララではなく、目の前の綾瀬かもしれない。
「……お客さん?」
紹介される前に、少女に凝視されてしまう。なんと自己紹介したらいいのか、わからない。まさかきみのお母さんが働いていた風俗店のオーナーです、と言うわけにはいかない。
結局あいまいにコンニチハ、と言う事しかできなくて、同じく綾瀬もあいまいにバイト先の人、とだけ説明した。嘘は言っていないのでいいだろう、と視線で語りかけられ、思わず苦笑いを返してしまう。
「いやー実はえーと普段から灰慈くんにはすんごいお世話になっているのに大変なご迷惑をおかけしてしまったのでちょっとお詫びに、手土産の押し付けに……今日お袋さんは?」
「あー……遠方の親戚んちに旅行中です」
「え。いまクリーニング屋忙しいんじゃないの?」
そうでなくとも、クララの事がある。菅生は例え金が返ってこなくとも、金輪際彼女に関わる気がないのでよく知らないが、まだ退院していないのではないか。そんな状況で旅行に行くものかと思ったが、ため息を吐いた綾瀬は荷物と供に肩を落とした。
「オレがちょっと気分転換にどっか行ってこいって言ったんです。あんまりにも毎日イライラしてっから」
「え、仕事大変じゃない? 大丈夫なわけ?」
「あー平気ですそれは、別に今までもわりと一人でやってたんで。ちょっと店番してもらうくらいだったし、代わりに寧音を金で雇ったんで」
「おん。寧音ちゃんは臨時バイト少女か。えーえらい。てかお袋さんのぶんもケーキ買ってきちゃった」
「ケーキ」
菅生の言葉に反応したのは綾瀬ではなく、カウンターの少女だ。
眼鏡の奥の瞳が、菅生が手にした洋菓子屋の箱に向けられる。子供は甘いの好きだよなーと思うと少しばかり微笑ましい。子供は苦手だけれど、人間はわりと好きだ。子供と思わず小さい人間だと思えば、特に苦も無く菅生は彼女と対話できた。
「そう、ケーキ。駅の裏のね、えーと知ってるかな、ヤマネ工房さんってとこのー」
「モンブランがおいしいとこ!」
「……あたりー。モンブランとショートケーキ二個ずつあるよ。えーと一個余っちゃうけど、まあみんなで食べて……ってのは子供がいるお家だと無理? 一個持って帰った方がいい?」
「スガさんケーキ食うんですか?」
「いやーあんまり。別に嫌いってわけでもないけど、食べてくれるならみんなで食べちゃってほしい」
「ユウが二個食べるよたぶん。さっきそこで宿題やってたし、たまにはいいじゃん。わたし、モンブランだけ食べれたらそれでいいもん」
冷蔵庫に入れる、という少女に箱を手渡し、これも食べてねとクッキーも預けてしまう。カウンターの奥から母屋に消えた彼女を見送ってから、思わず菅生は呟いてしまった。
「…………親と微塵も似てないねぇ……」
「あー。そう、なんです? いやオレ、ぶっちゃけねーちゃんの事よく知らないんでアレなんですけど……まあ、寧音は結構無理しておねーちゃんしてくれてるとこ、ありますけど」
「えらいもんだねぇ……」
「スガさんオッサンみたいです」
「いやーぴちぴちの中学生見ちゃった後だとおれなんて紛れもなくおっさんだと思いますよ……ほんとだめなおっさんが心底ご迷惑をおかけしました。つーわけでアヤちゃんにはこちら、個人的なお詫びの品」
ケーキとクッキーはどちらかと言えばご家族用に、と見繕ったものだ。
白いギフト用の封筒の中には、コーヒーショップのギフトカードが入っていた。
「珈琲わりと好きでしょ? 車の中にたまーに珈琲屋のカップ置いてあるし、休憩中にでも飲んでくれたらおっさんは嬉しいです」
「おっさんって歳じゃないですってば。え、でも、いいんですか、もらっちゃいますよこんなん、普通に嬉しい」
「貰ってくださいそして使ってくださいぜひとも、そしておとといの事は忘れてーくださいー」
「…………スガさん、覚えてるんですか?」
「いや、全然。全く。手つないでちょーだいって駄々こねたことはまあうすらぼんやりと?」
「……そっか」
ふ、と視線を伏せた綾瀬の表情に、なんとなく引っ掛かりを覚えた。
綾瀬は人の目をまっすぐに見る。最初に病院のベンチで隣り合わせに座った時から、視線がぶれない子だなぁと思っていた。
それなのに今はやたらと視線が合わない。
……気のせいか。それとも、気にしすぎなのだろうか。
「でもほんとはね、珈琲チケットにしようか映画ギフトにしようか迷ってねー……映画観に行く時間ないって言われたらそうですねおれが夜のアヤちゃん占領しちゃってますもんねーって話だし、あと美術館のギフトとかもちょっといーなーって思ったんだけど、」
「びじゅつかん」
「……うん。あれ、あんまり好きじゃない? まあ、そうよねーそんな楽しいアトラクションあるところじゃないしね。でもこの前おれが読んでたほんの表紙、気に入ってたみたいだしあの画家の絵実は東京の美術館に飾ってあるからもし暇が取れたら今度見てみたら? って思って……アヤちゃん?」
「え、あ、はい」
「………………あのー……おれ、一昨日、きみになんかした?」
明らかに綾瀬の態度がおかしい。
普通に迎え入れてくれたし、普通に会話はしてくれているので、飲んだくれて我儘言って迷惑をかけた程度だったのだろう、と思っていた。少なくとも嫌われるような醜態は晒していないのだろうと胸を撫でおろしたのもつかの間、二人きりになった途端綾瀬の態度がおかしくなった。
視線が合わない。挙動がおかしい。明らかに動揺しているし、いつもより意図的に距離を取られているような気もする。
普段の菅生なら、一体どうしたんだろうと思いながらも何も気が付かなかったふりをして一度距離を取る。ずばりと口に出して確認したりはしない。面倒だし、疲れるし、表面上の会話だけなら本心などいくらでも隠したまま交わせる。
しかし相手が綾瀬となれば話は別だ。
不安で死にそうだ。こんな気持ちを抱えたまま家に帰ってしまったら、また夜にピンクの象を躍らせる事になる。
綾瀬の反応からして、嫌われているわけではないようだが、距離を取られるような何かをしでかしてしまったなら早急にどうにか謝りたい。
そう思った菅生が不安で死にそうになりながら首を傾げると、視線を彷徨わせた綾瀬はぼそぼそと言葉を並べる。
「えーと……スガさんは、その、別になんもしてない、です」
「ほんとに? まじで?」
「ほんとに、まじで」
とはいっても相変わらず綾瀬の態度はおかしい。余所余所しい、というよりも緊張しているような気配がする。
……おれ何かやったんだなこれ。
そうは思うものの、しつこく食い下がるわけにもいかない。とりあえずは嫌われているわけではない、らしいのでよしとするしかない。
仕方なく納得したふりをして、じゃあ仕事の邪魔するのもよくないからと颯爽と笑顔を作る。おとといのおれはまじで何をしやがったんだ、と内心重い感情がぐるぐると渦巻いていたが、もちろん顔には出さない。
また週明けにねと笑って手を振って、いつも通りの別れの挨拶を告げた。
普段からほとんど口にしない酒だが、今後しばらくは絶対に口にしないぞと心に誓う。
お詫びに金券はあからさますぎたのかもしれない。いや、綾瀬は確かに喜んでいた。迷惑なら控えめに『こういうのは今後はいらない』と言いそうなものだ。
やはり酔った勢いで何かしてしまったのか。まさかキスを迫ったり押し倒したりはしていない……と信じたいが、いかんせん記憶がないので信じる根拠がない。己の倫理観がそこまで信用できるかどうか、正直なところ怪しいと思っているのがもうだめだ。
菅生は弱い。誰がどう見ても駄目な大人だ。
自分の言動を百パーセント信じられない。本当に何をやらかしたんだおれは、と悶々と歩き出してからタクシーでここまで来たことを思い出したが、自省ついでに駅まで歩く事にした。
日曜の午後だというのに、あたりには人気がない。住宅地なんてそんなものかもしれない。今日は天気も悪くないし、家族連れは観光地にでも出かけているのだろう。
人気がないから、すれ違った女性の存在感が大きかった。
女性を見るとパッと顔の造形や背格好を見てしまう癖がある。仕事で若い女性の面接を山ほどこなしているからだろう。目鼻立ちのぼんやりした、印象の薄い人だ。人混みの中に紛れてしまえば、注視することはないだろう。
この辺の住人だろうか。ご近所付き合いわりとありそうだからアヤちゃんの知り合いだったりするのかなー、などと考えながらぼんやり足を進めたところで、ふと足を止めた。
嫌な予感がした。
これはただの勘だった。ただ、夜の街でどうにもならない事情を抱える人間を山ほど見て来た菅生は、先ほどすれ違った彼女に、何とも言い難い嫌な雰囲気を感じた。
振り返って走る。
その時にはもう、女の姿は道の先にはない。ただ綾瀬クリーニング店のドアが開けはなたれ、言い争うようなヒステリックな声が聞こえた。
「アヤちゃん……っ」
菅生が駆け付けたとき、女は手を振り上げていた。とっさに掴もうとしたが間に合わず、彼女の平手は見事に綾瀬の頬を打った。
バシン、と嫌な音が響いた。
女が何かを喚いている。阿婆擦れだの返せだの喚いている。その喚く女がさらに一歩、綾瀬の方に踏み出す事を菅生は許さなかった。
思い切り腕をつかむ。いたい、と聞こえたが容赦はしなかった。
「アヤちゃん、警察呼んで」
自分にもこんなに低い声が出せるんだなぁ、と、苦笑できたのはこの二時間後の事だった。
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