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とにかく長く、心底疲労した一日だった。
本来なら息抜きとなる日曜日になるはずだった。クリーニング店は通常営業だが、あれこれ口を出す母がいないだけでも随分楽だ。
身体の不調が原因で通院を余儀なくされている母は、常日頃から苛立ちながら灰慈の仕事に口を出す。まだ働けるのに、という苛立ちがいつでも募りすぎて滲み出ている人だった。
母の助言や指示がありがたい時もある。しかし既に自分なりの仕事のこなし方を身につけてしまった灰慈は、彼女の口出しを不快に思ってしまうことが多い。
特に今は、姉の件でお互い余裕がなかった。母はより一層感情的になり、灰慈はバイトと称してちょくちょく家をあける。
菅生の家の掃除はおそらくコンビニのバイトよりも楽な仕事ではあるが、それでも金を借りている身分だ。手を抜いているわけでもないし、遊びに出かけているわけでもない。それでも母は、灰慈が家を空けることを嫌う。
久しぶりにかかってきた叔母からの電話を取り次いだ灰慈は、ここぞとばかりに母に外出を勧めた。
うるさい母親を追い出す気持ちと、素直にリフレッシュしてストレス発散してほしい気持ちは、どちらも本心だった。
肩の力を抜き、一人で仕事ができる。店番を寧音に任せてしまうことになるが、図書カード五百円分で買収できた。一時間のバイト代としては破格だ。
何事もなく過ぎるいつも通りの午前の後、嵐のような午後が来た。
ふらりと訪れた菅生が帰ったタイミングで来店した女性は、姉の名前を怒鳴り散らしながら手をあげた。相手が女だろうと、こちらが男だろうと、平手打ちは痛い。
ただ、灰慈には痛みの記憶はない。とにかく訳がわからず、ぽかんと彼女を眺めることしかできなかったのだ。
菅生が駆け戻って来てくれなかったら、ただその場で立ちつくしていただけだったと思う。警察、と言われて店の電話の受話器を持ったものの、とっさに何番かわからないほど動揺していた。
まったく見覚えのない女性だった。
のちに駆けつけた警官に保護されていった彼女は、姉と心中未遂をした男性の恋人だと名乗ったそうだ。警官からの又聞きなので、実際に彼女に自己紹介してもらったわけではない、が。
「本当ですかね。……恋人って」
長い一日を終えて、どうにか一息つける段階になってからはじめて、息を吐くついでに本音を口にした。
今日一日、ずっと隣にいてくれた菅生は、火のついていないタバコを弄びながら間延びした声を出す。
「あー……どうかねぇ。なんか、店の女の子にちょっと聞いてみたけど、クララは不倫ってーか向こうは浮気だけどみたいなこと、言ってたみたいだけどね。ただ、婚姻関係でもなけりゃなー証拠なんかないし、警察だってほっぺたぶっ叩いたくらいじゃ注意しときますねくらいだろうし。てかアヤちゃんほんとに床でいいの? ソファーの方がまだマシじゃない?」
「いえ、あの、ほんと、気ぃ遣わないでくださいほんとに床でいいですってか床がいいです」
腰を浮かしかけた菅生に、灰慈は慌てて両手を振ってみせる。
駆けつけた警官に事情を説明し、女性を保護してもらってから、灰慈と二人の子供たちは揃って菅生の住まいに押しかけていた。
警察が引き取ってくれたとはいえ、灰慈は被害届を出したわけでもないし、彼女は逮捕されたわけでもない。
話し合うでもなくいきなり暴力を振るってくる人間に、住所と名前がばれているのって怖くない?
菅生にそう言われて、確かにその通りだと青ざめた。自分はまだしも、小学生の佑光と中学生の寧音がいる。普段なら灰慈の母親が常に家にいるが、良かれと思って旅行に行かせたばかりだ。
うちでよければ避難所代わりに宿提供するよ、と笑う菅生の世話になることにしたのは、自宅のセキュリティに不安があるからだけではない。防犯という点では正直菅生のアパートも不安が残る。正直どっちもどっちだ。
それでも灰慈が菅生に宿提供を求めたのは、子供たちがひどくショックを受けていたからだ。
お前の姉だけ死ねば良かった。一人で死ねば良かった。そう喚く女の言葉を、寧音も佑光も運悪く聞いてしまった。二人には姉の心中事件の事をまだ話していない。それでも自分たちの母親がなにかしでかした事はわかってしまっただろうし、直接灰慈に何かを訴えたりはしないが、真っ青になって動揺している子供の顔は痛々しくて仕方なかった。
気分転換になればいい。少しでも、普段とは違う事をして現実を忘れられたらいい。
幸いなことに子供たちは菅生のボロアパートをすぐに気に入った。ひとしきりはしゃぎ、探索し、菅生に少しだけ怒られ、それでも楽し気にベッドの上で漫画と小説を読んでいる。自宅は床に直に敷く布団だから、ベッドが楽しいのはなんとなくわかるし、菅生の所有する本が物珍しいのもわかる。
寝室を少年少女に明け渡した菅生は、ソファーの上に薄掛けの毛布を引っかけてだらりと足を組む。灰慈がやっとの思いで整理整頓し清潔に保っているリビングスペースには、薄い座布団が並べられていた。ソファーの上が菅生の寝床、座布団の上が灰慈の寝床になる予定だ。
「被害届出しちゃえば良かったんだよ、ほんとに」
ため息まじりの菅生がマグカップを傾ける。
酒を飲まない菅生は、自室ではお茶を沸かして飲む。ばりばりの女たらしのような外見なのに、おじいちゃんのような生活をしている事を知っている。
「えー……でも、ほっぺたぶっ叩かれただけだし……そら、痛かったけど、なんか痛いっていうかびっくりっていうか、あんな本気で怒ってる人見ることってあんまないから、なんかこう『すげー』って思っちゃって」
「あんなの相手に関心しないの」
「でもオレ、あんな風に本気で怒ったことなんかないような気がしますよ」
「……あのね、『感情が強い』方がえらい、なんてことないんだよ?」
となりの寝室は妙に静かだ。はしゃぎ疲れたのかそれとも精神的に疲れていたのか、もう寝ているのかもしれない。菅生はテレビを垂れ流したりはしない。部屋は静かで、淡々とした菅生の言葉しか聞こえない。
「たくさん泣いたほうがえらいとか、たくさん怒ったほうがえらいとか、そいうのは無いんだからさ。そりゃ感情豊かな方がいいのかもしんないけど、感覚の違いでしょうよ。そんなもん個体差なんだから、言葉とか感情とか性格とか、派手な方が有利なわけでもすごいわけでもない。つかあの女の感情は置いといて、行動見なよ、あれぜったいおれが出て行ったの見計らってたよ。アヤちゃん一人なら殴れるって思ったんでしょ。くそ卑怯じゃん。……アヤちゃんきいてる?」
「え、あ、はい。いや、スガさんも、怒るんだなぁって、思っちゃって……」
「わかる。おれもびっくりしてる。……まだ怒れる力があってびっくりしてるよ」
いつもふわふわと笑っている菅生なのに、今日はずっと真剣な顔つきだった。
そういえば、灰慈がいまいちあの女性に対して怒れない理由がもうひとつある。パニックしていたから、という理由に加え、普段と違う雰囲気の菅生に感情がすべて持って行かれてしまったからだ。
菅生はぱっと見、目を引くような美丈夫ではない。いまいちイケメンと断定しがたいのは、ほとんど常にへらりとした胡散臭い笑顔を張り付けているからだ。
生ぬるい笑顔をすっぱりと消した真剣な表情は、なぜか灰慈の目に焼き付いて離れない。ただでさえ菅生の存在を意識してしまいがちだというのに。
一昨日の言葉が不意に頭によぎり、繋いだ手の温かさまでぶりかえして指先が痒くなるような気分に苛まれる。
だからアヤちゃんおれと美術館にいこう。
そう言った菅生は、心底酔っていて、人を騙したり揶揄ったりするような余裕はなさそうに見えた。そもそも、菅生は他人をおちょくって遊ぶような人ではない。
発言はいつものらりくらりとしているけれど、不快な嘘をつく人ではなかった。
どう考えても意図しない告白だった。口からぽろりと零れたような、酔っ払いの本音だった。あんなにストレートに、あんなに柔らかく好きだと伝えられた灰慈は、本当にどんな顔をしたらいいのかわからない。
何よりも嫌だとか困るとか思えない事がまずいのではないかと思うが、今日はあまり深く考えたい話ではない。なんとなく覚悟はしていたが、同じ空間で一晩過ごす事になってしまったのだ。どうにか平常心で朝を迎えたい。そう思う。
そう思うのに、当の菅生は灰慈が見知らぬ女に手を上げられた事に関して、まだ怒りが収まらないらしい。
いい加減話を変えようと思いつつも、どうにもだらだらと怒っている菅生が珍しくてうまく話題変換ができない。会話を妙に意識してしまっている事も、うまく言葉がでてこない理由だろう。
菅生が淹れてくれたお茶を飲みながら、手持無沙汰にうろうろと視線を彷徨わせてしまう。しかしラックの整理をしたのも灰慈だし、服の整理をしたのも灰慈だ。正直今更目新しいものなど何もなく、話題にするようなものもない。
なんとなく気まずい沈黙が流れ始めた時、ゴトゴトと寝室の引き戸が開いた。控えめに顔をのぞかせたのは、姉の寧音だった。
「……おにーちゃん、あの、ユウ寝ちゃったんだけどさ……もうちょっと起きててもいい?」
「まあ、いいけど……明日学校だろ」
明日は月曜だ。学生は通常通り授業があるし、朝灰慈が送る算段になっている。まだ二十二時だが、登校の早い小学校に合わせる為、寧音も早起きをしなければならない筈だ。
「でも、読んどきたい本が終わんない」
些か眠そうな顔でずり落ちた眼鏡を持ち上げる。寧音の様子を見て振り返った灰慈は、苦笑いを交えて菅生に目配せした。同じようにふと笑うと、菅生は寧音に声をかける。
「ネネちゃん、あんね、好きな本を好きなだけ持って行っていいからさ。無理に今日読まなくっても大丈夫だから」
「え。……いいんですか」
「いいよべつに、おれあんまり読み返したりするタイプじゃないから。古本で買ったやつもあるし、そんなにきれいじゃないかもしんないけど、それでもよければ好きなだけ持ってけ持ってけ。読んでもらった方がおれも嬉しい、本もたぶん嬉しいでしょ」
「ほんと? ほんとにいいの?」
「ほんと。だから、眠かったら無理しないで寝なさいね。あと『幽霊探偵マコト』好きなら、作者のデビュー作持ってるよ」
「え、うそ、読む!」
「おっけー明日探しといてあげよう」
一気に上機嫌になった寧音は、『ありがとうございます』と丁寧に頭をさげて心底嬉しそうにいそいそと扉を閉めた。
寝室の扉は例の『一度全部締め切ると開かなくなる』扉だ。ドアストッパーなどと格好いいものではなく、文鎮のようなものがかませてある。うっすらとあいた隙間の向こうからは、おとなしく寧音がベッドに入る気配がした。
「……なんか、ありがとうございます、ほんと……今日のスガさん大盤振る舞いですね……」
少しだけ声を落として、それでも礼は言わなければと頭を下げる。いやいやと笑う菅生は、やっといつものへらりとした顔に戻っていた。
「アヤちゃんに優しいのはねーほら、いつもお掃除頑張ってくれてるからそのお礼みたいなもんだし、まあ普通に優しくしたいから優しくしてるだけだし、優しいっつっても大したことできてないけど、うーん……ネネちゃんは、いい子だから、ちょっと贔屓しちゃいたくなっただけ」
「贔屓……」
「うん、贔屓。いやユウくんが悪いとかユウくんには本貸してあげないとかそういうことじゃないんだけどね? なんていうかー……ネネちゃん、すごく頑張ってるじゃない。きちんとおねーちゃんをしてて、そんで、お母さんもお父さんもいないのに、ちゃんと中学生してんの、めっちゃくちゃえらいなーと思って。だから贔屓したい。おれ、贔屓って好きだよ。だって、全部平等だなんて馬鹿馬鹿しいじゃない。好きな子には優しくしたいし、頑張ってる子にはご褒美あげたい」
「……オレ、寧音にあんまりなんか買ってやったりしてないかも……」
「いやーアヤちゃんがなんかしてあげなきゃいけないなんてことは微塵もないよ。だいじょうぶ。だってアヤちゃんの子供じゃないし。てーかアヤちゃんはアヤちゃんの仕事と役割を、ものすごく真面目にこなしてるし。おれさー、『おねえちゃんだから』とか『おにいちゃんだから』とか嫌いなんだよね。だからアヤちゃんも、『大人だから』って無理しないでいいんだよ、ほんと」
年取っただけの人間なんだから。
そう言ってマグカップを置いた菅生は、おれたちも寝ようかと照明の紐を引く。古めかしいアパートの照明は、もちろんリモコン式などではない。
「大人だから無理しないでいいけど、大人が寝ないせいで子供が眠れなかったりしたらそれは駄目だしね。てか、アヤちゃん寒くない? いけそう?」
「……寒いっちゃ寒いっすけどでも他に布団とかないですよね。押し入れんなかにそんな素敵なもの入ってなかったと思いますけど」
「入ってないねぇ。うち、客人とか来ないもの。いやー、暖房入れてたらなんとかなりそうと思ってご招待しちゃったけど、アヤちゃんちにおれが泊った方が良かったかもね」
「いや、それはそれでなんというか、……」
「やっぱ嫌?」
「いや、じゃない、ですけど」
親の居ない間に恋人を招く逢引のようで気が引ける、などと言えるわけがない。結局菅生と同じ部屋で寝るのだからどちらも変わらないような気がしないでもないが、体裁というものもある。しかし自分が菅生の事を意識していると悟られたくない灰慈は、ごにょごにょと言葉を濁すことしかできない。
薄暗い部屋の中、光源はソファー横のデスクライトだけだ。
薄いタオルのような夏用毛布をひっかけた灰慈は、菅生が横たわるソファーに背を向けて丸まる。肌寒く足の先は冷たいのに、耳は熱く火照っている。
背中に、菅生の視線を感じる。
「……ねーアヤちゃんさぁ、なんか、今言うのも、アレなんだけど」
「…………なんですか」
「んー。……やっぱ、おれ、この前酔っ払った時、なんかしたんだよね……? ていうかなんか言った?」
「………………」
「いや、アヤちゃんが気にしてないならこれ以上おれも気にしない事にするけどさ。なんてーか、ちょっと、こうー……いつもと感じが違うから。もし謝って解決するなら、謝りたいし。って思っただけなんだけど」
「……いや……べつに、スガさんが謝るようなことは、何もない、です。本当に」
「ほんとに? おれ、変な事口走ってない?」
「――――……美術館、に」
「え?」
「美術館に、行こうって、そのー……いわれた、だけです」
しばらくは無言が続いた。
耳が痛くなるような無音だった。自分の鼓動だけが煩くて、息さえも潜めてしまいそうになる。
あまりにも無音が続いたせいで、灰慈はじわじわと不安になってきた。もしかしたら、自分は勘違いをしていたのではないか。菅生は灰慈を口説いたわけじゃなかったのだろうか。口から出ただけで、大した意味はなかったのだろうか。
好きな子と美術館に行きたい。その言葉に、他意はなく、本当にただ美術館に行きたいと思っただけだった、という可能性もあるのではないか。
段々とわけがわからなくなってくる。なにか喋った方が良いような気がしてきて、誤魔化す言葉を探しはじめたとき、やっと菅生が息を吸い込む音が聞こえた。
「…………っ、の、え、それ、……っあーーーーーー…………」
そしてそれからまた五秒。無言の後に、菅生の弱弱しい声が続く。
「うーわ……おれ、それ、ほんと……うそだろ……つか、そのー……ごめんね、アヤちゃんほんと気にしないで……ええと、いや、言ったことはたぶん真面目に本気なんだけど、だから揶揄ったとか嘘だとかじゃないんだけど、でも、気にしないでいいから本当に……」
「え。……気にしないで、いいんですか?」
「……………………」
「…………」
「…………うそ、です、はい。すいません。ごめん、気にしてほしい」
震えるような小さな声だった。不安で死にそうだという菅生の本心が、馬鹿みたいに垂れ流されている声だった。
灰慈も菅生も、ポーカーフェイスが苦手なのだ。
かわいいなちくしょう、と思った。かわいいなちくしょう、と思ってしまった。思ってしまったから、灰慈はごそごそと身体の向きを変え、菅生の方を向くと簀巻きのように体にまきつけた毛布の中から、ソファーの上の菅生を見上げた。
「……てか、ソファーって、寝るための場所じゃないと思うんですよオレ。転寝だって首痛くなるし。そんなとこで寝るくらいなら、床の方がいいと思うんですよね」
「……え、そう? おれよく力尽きてソファーで寝――」
「あと寒い。スガさんのブランケットも上からかけてくれたらちょっとはマシだと思う」
「えー……そしたらおれも流石に寒い、と、思う、んだけど」
「一緒に使えばいいと思うんですけど」
「…………アヤちゃん、あのね、一昨日のおれがどんな感じにアレしちゃったからわかんないけど、そういうの、うわーってなっちゃうんで、あのー」
「……寒い」
「あーもー……わかったよ……」
ものすごくしぶしぶと、ものすごく仕方なさそうに、菅生はソファーから降りてくる。そしてとても丁寧に、恐る恐る腕を回して灰慈を抱きしめた。
耳だけではなく、触れた場所が熱くなる。
誰かに抱きしめられたのは、いつぶりかわからない。灰慈は恋人を作ったことがなかったし、母親はドライな子育てをする人だった。幼い時分にはそういうこともあったのかもしれないが、物心ついてからは抱き上げられた記憶すらない。
人ってあったかいんだな、と思う。もしかしたら、菅生が熱いだけかもしれないけれど。
「……なにこれほんと……もしかして全部おれの夢? 夢オチ? アヤちゃんインマイドリーム?」
「現実ですってば。アリスインワンダーランドみたいに言うのやめてください」
いつかと同じ会話をしてしまい、やはり酔っていても酔っていなくても、菅生は菅生の言葉を吐くのだなと思った。
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