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 金曜日の灰慈は、笑えるほどにポンコツだった。  朝から全く落ち着かない。何をしていても時計を見てしまう。レジは打ち間違えるし、常連客の名前は間違えるし、挙句仕上がったスーツを間違えてお渡ししそうになった。  それでもどうにか仕事をこなし、閉店時間の十九時きっかりに店を閉めた。ついだらだらと残業しがちな灰慈だったが、そういえばこのところ菅生の家にバイトに行くため閉店時間きっかりに仕事を終えることが多い。  掛け持ちなんてきつくないかと、事あるごとに母は眉をしかめる。灰慈を心配してると言うよりも、おそらくは単純に家にいて子供たちの面倒を見てほしいだけなのだろう。  灰慈も当初は疲労で続かないのではないのか、と危惧していた。  菅生の家は物置と表現するのも生ぬるい程の魔窟で、掃除というか最早引っ越し作業のような重労働を予感させた。実際、体力的にはきつかった。ただ本業がそこまでハードな肉体労働ではない為、きつかったのは最初の三日程度だ。  菅生の家は静かだ。基本的に菅生は夜仕事に行ってしまうため、灰慈は一人で掃除をこなした。しかし、本人が在宅していても、どういうわけか静かな空間は保たれた。菅生は割合よく喋るのに、あの部屋で過ごす時間はやはり『静か』な印象が強い。  菅生は、柔らかい空気の人だ。なんとなく、隣にいると息がしやすいような気がする。緊張せずに喋れるし、言葉の行き違いがあってもすぐにお互い謝れば済んでしまう。ねちねちと嫌味を言われたりしない。言い方が悪かったかなと後で後悔する事もない。  相性がいいとは、こういうことなのだろうか。  相性がいいから、疲れないのだろうか。 「……すきなのかなぁ…………」  シャッターを閉めてから二階の自室に駆け上がり、昨日深夜に散らかした洋服を前に頭を抱える。  なにもかもわからない。今日何を着て行ったら正解なのか。どの靴を選んだら間違いないのか。自分は菅生のことが好きなのか。菅生とどうなりたいのか。  わからないことばかりだけれど、菅生が灰慈に恋をしている事だけは、確実だと思う。  あんなにわかりやすい人で大丈夫かな、と心配になる程、菅生は感情がストレートに出る。気が付けば視線がかち合って慌てて逸らされるし、手が触れただけで変な声を上げているし、最近は名前を呼ぶだけで嬉しそうに照れる始末だ。  そんな菅生に一々『かわいいなちくしょう』と思っている自分も、どうかと思うのだが……さて、これは、恋なのだろうか。  実のところ、灰慈は今まで明確な恋らしきものをしたことがない。  恋人を作ったことはないし、誰かに告白したこともない。  同性の友人は山ほどいる。何故なら高校は男子校だったからだ。小中学生の時は、ひどく消極的な子供だった。高校からは友人に恵まれ、外で遊ぶことも増えた。ただし家の手伝いをしなくてはいけなかった灰慈は、夜遊びはしなかった。  七星に引っ張られて参加する合コンでも、女の子と仲良くなることはほとんどない。その場では連絡先の交換をしても、マメではない灰慈は自分から何かメッセージを送る事はないし、そうこうしている間に名前も顔もおぼろげになってしまう。  とにかく店を回さなくては。とにかく子供たちのために働かなくては。  そういう気持ちがまず先に立つせいで、彼女を作ろうというきもちになれなかった。  相性のいい女の子と出会っていれば、恋仲に発展したのかもしれない。今まで連絡先を交換した女の子の中に、趣味が合う子もいたかもしれない。話していて楽しい子も、いたかもしれない。  けれど積極的に恋をしよう、縁を繋ごうとしなかった灰慈は、そのチャンスを随分と潰していたのだろう。  別に、どうにかして恋人をつくらなきゃ、と思っているわけでもないからいいのだけれど。……それにしても、二十四歳で初めてときめいているのが八つ年上の男性なのは、いかがなものかと思わなくもない。  同性だとか異性だとか、そういう感覚が薄くなってきている時代だ。多様性という言葉をよく耳にする。別に灰慈自身、男性から好意を寄せられることに抵抗はないし、そういう人もいるんだな、くらいにしか思わない。ただずっと自分は所謂ストレートだと思って生きて来たせいで、菅生のことをかわいいと思う事に少々抵抗はある。  自分はゲイなのだろうか。バイなのだろうか。  そんなどうでもいいことで悩んでしまいそうになり、ハッと我に返って服の山の方へ意識を戻した。  灰慈の嗜好よりも考えなくてはならない事がある。今から着て行く洋服の組み合わせだ。  いっそ一張羅しかないのならこんなに悩むこともなかった。  自慢ではないが灰慈は衣装持ちだ。所有している洋服の九割が友人たちから譲り受けた古着だった為、胸を張って言えた話ではないのだが、とにかく服だけなら山ほどある。  ただしほしいと思って買うことは少ないし、ファッション雑誌を眺めたりする趣味もない。要するにコーディネイトのセンスに関しては若干の不安がある。  菅生は格好いい。性格の柔らかさと格好よさの方にどうしても注目してしまいがちだが、見た目もごく普通に目を引く人だ。本人は『へらへらした胡散臭い顔』だと言うが、甘くて少しドキッとする感じのイケメン顔だと思う。  背も低くはないし、すらっとしているし、洋服はシンプルなシャツばかり着ているけれど、高そうなスーツにも負けずにきっちりと着こなしている。  スガさん今日何着てくるんだろう。  デートにスーツで決めてくる男なのか、カジュアルにさくっと纏めてくる男なのか。……というか。 「……デート、だよ、な?」  まずその認識できちんと合っているのか、正直なところ不安が残らなくもない。  いやデートだ。デートに違いない。そうでなければあの菅生が、あんなにテンパって噛み噛みで誘うわけがない。  背に腹はかえられない。  覚悟を決めた灰慈は、思い切って携帯を手にすると七星を呼び出し、『すいませんデートに何着て行ったらいいかわかりません』と素直に教えを請い、後で絶対にうまくいったか詳しく聞かせろという条件をしぶしぶ飲みつつどうにか八時までには着替えを終えた。  ドレスコード指定してこないならとりあえず似合う服着とけ、という七星の助言で、細めのパンツとゆったりしたロングカーデを選んだ。きちっとしたシャツやスマートカジュアルなジャケットはどうも似合う気がしない。  三度鏡で確認して、財布と携帯を持って家を出る。  車で迎えに行きましょうか、と灰慈は提案したが、菅生は駅で待ち合わせしようと言った。  約束の時間よりも五分早く着いた灰慈は、なんとなくもう菅生は待っているものだと思って周りを探してしまった。  金曜の夜、都会とは言えない地元の駅でも人出はある。  さっと見回してみても、菅生の姿は見えない。……三十分前にはもう、着いていそうだなと思っていた。さすがにそこまで初心な乙女みたいなことはしないか、と少しだけ恥じ入る。すっかり自分は菅生のことを、恋する少女のように思ってしまっている。しかもその恋の相手は自分だと思っているのだから、恥ずかしいというよりはおこがましい。  酒を飲みながら、口説かれたりするのだろうか。そういえば菅生は下戸だが、食事は何処に行くのだろう。飲み屋ではないのだろうな、と思っているうちに、刻々と時間が過ぎていく。  そわそわと待っていた五分の後、少しずつ不安になってきた十分が過ぎ、ついに携帯を取り出したのは待ち合わせの時間から三十分が経過した時だ。  何かあったのかもしれない。急病とか、店の方で急用とか。  灰慈が真っ先に菅生の身を案じてしまったのは、彼が基本的に時間に対して厳しい人だったからだ。遅れるなら、一言あるはずだ。まさか忘れている、と言う事はないだろう。仕事に遅刻していた様子はないし、いつも余裕をもって行動しているように見える。  菅生の番号を表示させたまま、通話ボタンを押すまでまた二分程悩んだが、えいやという気合と供に電話を掛けた。  菅生は怒らない。そう思ったから、確認のために電話をかけたのだが――。 『……アヤちゃん?』  ごめん、今急に仕事が入って、と慌ただしく言い訳をするだろうと予想していたのに、実際の菅生の声は妙に落ち着いていた。 「あの……スガさん、えーと、駅に来ないから、ちょっと、心配になって……八時半に駅裏でよかった、ですよね?」 『あー……ごめん、あのね、おれ、いけなくなっちゃったんだよね』 「え、あ、……え? ああ……そう、なんですか?」  思いもよらないセリフだった。  あまりにも予想外すぎて、口から出たのは素直な感情ではなく、ただの感嘆だ。  とっさに思ったのは『何言ってんのこの人』だった。  何言ってんのこの人。だって八時半に駅っつったじゃん。オレ楽しみすぎて昨日うまく寝れてないんだけど。めちゃくちゃ急いで店閉めたんだけど。てか予定変えるなら連絡くらいしてよ。  ……と、そこまで考えてから、妙な違和感を覚えた。  菅生のテンションがどうにも、おかしい。こんなふうに、感情のないような声で話す人だっただろうか。 「あの、スガさん、具合でも悪い感じですか? オレなんか買っていきましょうか」  先ほどの一瞬の怒りは通り過ぎ、また心配が押し寄せる。それなのに電話向こうの菅生は、笑った気配もない。 『いや、そういうんじゃないから……ええとね、来なくて大丈夫。あー……ていうか、うちもほら、随分と綺麗になったでしょ? だからね、アヤちゃんもう来なくて大丈夫だよ』 「………………は?」 『いやね、バイト、もういいよって話。そもそも、病院代もそこまで多額じゃなかったし、清掃費もね、懇意の業者にまけてもらったから……正直、クララとはもう関わり合いになりたくないしさ。今日からアヤちゃんは自由の身だってこと』 「いや。いやいやいや、何言ってんの、だって押し入れの中ひっでーでしょ、てかそう言うんじゃなくて、なんか、もうそういうアレはどうでもよくて、ええと……」 『じゃあ、そう言う事だから。何かあったらお店に電話してね、ヨジさんが運よく出たら取り次いでくれると思うよ』  じゃあね、と笑いもせずに電話は切れた。一方的で、有無も言わせない言葉だけが、灰慈の耳に重く残った。 「………………いやいやいやいや」  おかしいだろ、絶対。  今の菅生は、いつもの菅生ではない。絶対に、違う。  灰慈の知っている菅生は、まずは盛大に遅刻を謝っただろう。理由が何にせよ、ごめんね本当に連絡もできなくて駄目な大人だよと灰慈がもういいと言っても謝っただろう。もうバイトに来なくていい、と一方的に突き放すような言葉を、あの人が言い放つわけがない。  いつだって言葉を柔らかく投げる人だ。ストレートの直球ではなく、アンダースローで柔らかく、優しく放り投げるように。菅生の言葉は、ぽとんと頭の上に落ちてくる。  菅生は言わない。あんな事を言うわけがない。  そう確信する。灰慈は菅生を信じているから。菅生が家の中で失せ物を探しているとき、灰慈と子供たちを信じてくれたように。  ふと耳にひっかかった菅生の言葉の中から、ヨジ、という単語を思い出した。  ヨジさん。シュレディンガーの人。灰慈が知る限り、菅生が唯一、気軽に電話をしている人。  携帯でブラウザを開き、シュレディンガーを検索する。住所と供に電話番号と営業時間が検索結果のトップに表示された。現代は便利で最高だ、と思う。宵の口だったなら営業時間外だったかもしれないが、電話は幸いにも三コールで繋がった。 『はーい、シュレディンガー。こんな閑古鳥な電話を鳴らすのはどなたー?』 「……あの、すいませんオレ綾瀬灰慈というものですが、ヨジさんは……」 『あん? 綾瀬弟? あらららどったの? ヨジって呼ばれてんのはあたしだけど、何、スガちゃんがなんかやらかした?』  だるい声で電話口に出た女性は、やはりどこかとっつきにくいテンションだったがそんな事を気にして空気を読んでいる場合ではない。  しどろもどろに非礼を詫びつつ、菅生と待ち合わせをしたものの、おかしなキャンセルの仕方をされた件を告げる。話し終える頃には、ヨジのまったりとしたテンションはすっかり消えていた。  どうやら、灰慈が思っていた以上に事態はまずいのかもしれない。 『あー……待って、いや、あたしはスガちゃんが今何してんのかとかどうなってんのかとか、正直予想もできないんだけど、アイツわりと精神ぶれっぶれで一回落ちるとドーンってノータイム自殺とかやりそうだからわりとマジでそれヤバいかも。だってデートの約束したの昨日なんでしょ? で、綾瀬弟はあれでしょ? まんざらでもねーなって感じだったんでしょ?』 「はあ、まあ、……はい…………」 『素直は美徳。三百点あげちゃおう。じゃあまずいねだってスガちゃんそれウキウキ絶頂期じゃん、綾瀬弟とのウキウキデートをドタキャンするやべー案件があるってことか。……あーそういや昨日スガちゃん、ソープの方の店に出勤してなかった、な?』 「……無断欠勤、ですか?」 『いやごめんわかんない。あたし所詮ただの泡嬢だし、オーナーが出勤して何してんのかよく知らないし、シフト把握してるわけじゃないから。でもスガちゃん見てないのは本当。元々休みだったのか無断だったのか、ちょっと今すぐ確認する。折り返すの面倒くせーわ、こっち来て』 「十五分で行きます」 『ヒュウ。かっこいーね綾瀬弟。名前なんだっけ?』 「え、灰慈、ですけど」 『あー、ハイジでクララか。おっけーじゃあハイジ、十五分後にシュレディンガーで』  ヨジは至極格好よく締めくくって電話を切った。年上の女性に急に呼び捨てにされても、やはり違和感はない。ヨジも菅生も、変で、距離感が不思議で、それなのに不快に思えない。  ぼうっとしている暇はない。急いで家に帰って車に飛び乗る必要があった。  何が起こっているのか、灰慈にはわからない。ヨジにもわからないというのだから、当然だろう。  杞憂ならそれでいい。ちょっと具合が悪いだけとか、ちょっと悲しくなって引きこもっているだけとか、それならそれでもいい。本当に急に灰慈の事がうっとうしくなったというだけなら――いや、それは嫌だからそう言われたら付きまとってでも思い直してもらうようにがんばろう、とだけ決意した。

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