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 ピンクの象が踊っている。  瞼の裏でどすどすと、煌びやかで鮮やかなピンクの鼻を揺らす。あの目に焼き付くような甘いピンク色は、本来の皮膚の色なのだろうか。それとも人間が丁寧に塗りたくったのだろうか。踊り終わった象はあの色をきれいに落としてから眠りにつくのだろうか。それとも、目を閉じているときも、踊っていないときも、ピンク色なのだろうか。  ふ、と意識が戻りピンクの象がかき消え、視界に自室のリビングが舞い戻っても、菅生の瞼の裏ではまだピンクの象が踊っているかのような残像が見えそうだった。  いやいや。今回はきみはいらない。きみは出てこなくていい。ちょっと夢を見ていただけだから。まだきみは、踊らなくていい。  自分に言い聞かせるように、自分の中のピンクの象に言い聞かせる。  昨晩はほとんど眠れず、というか、眠る事が出来なかったせいだ。昼過ぎからは意識がふと飛び、うたたねをしてしまう。そのたびに出てこなくていいピンクの象の夢を見る。  きついときはピンクの象が踊っている様を想像する。それが習慣付いてしまっているせいで、今も気を抜くと目の前の現実がピンクの象に踏みつぶされてしまいそうになった。  ピンクの象は現実逃避だ。所詮、精神の逃避でしかない。  ピンクの象が踊っていても、現実は何も変わらない事を知っている。どうしようもない時、理不尽な現実と向き合う時、菅生はピンクの象に頼った。  けれど今は、意識を飛ばして現実を放棄するわけにはいかない。  何故なら、死ぬわけにはいかないからだ。 「……起きました? 泰成さん。……おなか、すいてません?」  ピンクの象を無理矢理追い払った菅生の耳に、軽やかな女の声が飛び込んできた。鳥の囀りのような、かなり高くてたどたどしい発音の声だった。 「…………いやー、おなかは、すいてない、かな……」 「うそー。昨日の夜からなーんにも食べてないのに。でも、泰成さん、よく夕飯抜いて朝ごはん買い忘れてそのまま昼も忘れちゃうこと、あるもんね」 「おれのこと、よく知ってるねぇ」 「えー、うふふふ。だってー、見てたから」  こういう声の子、新規のお客さんにモテるんだよなぁ、と思う。常連はさっぱりした気質の玄人泡嬢を好むが、初めてソープを利用するような客は、わかりやすく可憐な女の子を指名する。  ただし、菅生の座るソファーの向かいでしおらしく腰を下ろしている女は、菅生の店の泡嬢ではない。菅生の店の泡嬢になろうとして、菅生に面接で落とされた女だった。  残念ながら桃木ミズキという名前に、心当たりはない。  風俗の世界は入れ替わりが激しい。ヨジのようにひとつの店でだらだらと働く人間の方が珍しく、コンビニのバイトよりも短期間で人が入れ替わる。  菅生の仕事は、経営というよりも人事だ。スタッフのシフトを管理して、女の子の面接を山ほどこなす。イモ洗いのように押し寄せる女たちの、採用不採用をひたすら決める。彼女たちの職歴など必要な個所以外は見ないし、家庭環境もほとんど触れない。勝手にしゃべったとしても、菅生の方が聞くつもりがないのだからどんどん記憶から消えていく。  名前も顔も、現在採用されているソープ嬢ですら把握できているか怪しいというのに、以前面接で落とした女など覚えているわけもない。  菅生が桃木ミズキという女性を認識したのは、数日前に綾瀬のクリーニング店で彼女の腕をつかんだ時が初めてだった。  彼女は、クララと心中しようとした男の恋人を名乗り、綾瀬に暴力を振るった女だった。  クローゼットに潜んでいた彼女は、あまりにも唐突な事態に反応が遅れた菅生をスタンガンで失神させた。  バチバチ、という音を聞いたような気がするが、音よりも脇腹への痛みの方が強かった。ナイフで刺されたのだと錯覚した。目を覚ました時、脇腹の無事を確認して、ひとまず安堵の息を吐いた。  両手は手錠で拘束されていたし、その手錠は長いチェーンでベッドの足と繋がっていたが。まあ、出血多量で死ぬよりはマシだ。  ミズキは菅生のストーカーだった、らしい。  心中未遂男の恋人だというのは、嘘だろう。あれは、菅生と懇意にしている綾瀬を殴る口実に違いない。現にミズキの語る生い立ちやこれまでの話に、クララもその心中未遂男の話も、一切登場しなかった。しかしどう見ても、彼女はあの時菅生が腕を捻りあげた女だ。  彼女が狙っていたのは、綾瀬ではなく菅生だった。そういうことになるのだろう。  幸か不幸か、菅生自身は己にストーカーなどというものがついていることに気が付いてすらいなかった。  乱雑すぎる家は、多少物が動いても減っても、菅生は気が付かない。  夜の仕事をしているせいか、他人にジロジロとみられる視線にも慣れてしまっていた。  鈍感かよ、と流石に呆れる。  細やかな気配りが得意なタイプではない。スガちゃんて妙なところ大雑把で変なとこ気にするよね超AB型、とヨジにはよく笑われる。血液型に性格を当てはめるほうが大雑把でしょなどと菅生も笑ったものだが、正直今回の件については笑えない。  うかつにもほどがある。  菅生は自分の事をイケメンだともいい男だとも思っていないが、そういう風に好かれることは多い、という事実を忘れがちだった。夜の女たちは心が脆い。たった一言で激高したり腹を抱えて笑ったりする子もいる。予想外の方向にねじ曲がってしまった子もいる。自分の放った一言は。彼女たちにとって思いもよらない重さを持つこともある。  菅生はミズキの事を覚えていない。とんでもない美人か、印象に残る程の悪相でもないかぎり、面談した相手の事などすぐに忘れてしまう。ミズキはそのどちらでもない、ごく普通の『化粧をしたらそれなり』という顔立ちだ。  ただ、本人は容姿について随分と悩んでいた、らしい。  このあたりの事も、面接時にどうやら話したらしいのだが、生憎と菅生の記憶には全く残っていない。  基本的には、最低限出勤して最低限働いてくれそうな子ならば即採用を決めてしまう。逆に『これはまずいなぁ』と思えば、その場でお断りをすることも多かった。  どうせもう会うこともないだろうから、菅生はいつも適当にやんわりと断りの文句を口にする。  昼間の仕事を探してみたらとか。一度こっちの仕事始めちゃうと消えない過去になっちゃうよとか。もう少し考えてキャバ嬢とかの方当たってみたらとか。  結局は雇用のお断りなので、どんな言葉を並べようが優しい言葉ではない。うちでは雇いませんので他の仕事探してください、をマイルドに言い換えているだけだ。  そのマイルドな断り文句が、どうもミズキの琴線に触れてしまったらしい。  クローゼットの中に潜んでいたストーカー女は、泰成さんの言葉で目がさめたの、と目を潤ませた。  身体ごと後ろに引く菅生に繋がれたチェーンをしっかりとつかみながら、恋する純情な中学生のように愛を語る。  彼氏には二股をかけられて捨てられた。親友は自分を裏切った。親は毒親で何をやっても喧嘩にしかならない。仕事もパワハラとセクハラばかりで続かない。もっと美人だったならすぐに結婚できて幸せな家庭で主婦として生活できたかもしれない。地味な顔だけど胸には自信があると言った時、顔だってかわいいじゃないと言ってくれたのは泰成さんだけだった。借金がないなら無理して泡しなくても他の仕事探せる余裕はまだあるよ、と言ってくれた。嬉しかった。私の事を一番考えてくれるのはこの人だと思った。  等々と語られる彼女の愛は、菅生にとっては恐怖の言葉だ。  でもキミ実家暮らしっぽいことさっき言ってたよね? 世話してくれてんなら毒親じゃなくない? パワハラっていうけど、それ注意されただけじゃない? 借金地獄で明日十万払えないと死ぬしかないみたいな子に比べたら、随分と生ぬるくない? つかその辺の事情はまあ知らないからおいとくとして、ロックオンの理由軽くない!?  突っ込みどころは山ほどあったし、実際逐一心の中だけで盛大に突っ込んでいたが、もちろん口に出す事はない。  スタンガンこそ手放していたが、ミズキは右手にしっかりと包丁を握り閉めていた。……スタンガンならばまだ、叩き落そうとしてもみ合いになっても気絶するだけで済む。当たり所がわるければもしかしたら死ぬのかもしれないが、刃物よりは幾分かマシだ。  激高したミズキが包丁を振り回しただけで、その刃が動脈を切っただけで、菅生は簡単に死んでしまうだろう。  ミズキが手当てをする気がないのなら、救急車を呼ぶ気がないのなら、どんなささいな刺し傷であろうと命に関わる。  まだ死ねない。こんなところで殺されてたまるか、と思う。  少し前の菅生なら、これも運命かなぁと受け入れてピンクの象と心中していたかもしれない。ピンクの象は現実逃避の麻薬だ。辛い現実の痛みを、麻痺させてくれる麻薬。  ピンクの象を思い浮かべながら、好きでもない女と心中だなんて、わけのわからない現代文学よりもお粗末だ。今は、そう思う。  綾瀬に生きて再会しないといけない、と思うから。  菅生が目を覚ました時、携帯電話はすでにミズキに奪われていた。先ほど綾瀬から電話がかかって来た時も、携帯はミズキの手の中にあった。  出てください、と差し出されたので、言われたとおりに通話に出た。  言われてはいないが率先して約束は断ったし、もう来なくていいよと冷たく言い放った。キャラじゃないのでどの程度ちゃんと演じられていたか、わからない。タスケテクレと言った瞬間刺されると信じていたので、できうるかぎり菅生は声を押えて、綾瀬に訴えかけた。  違和感に気付いてほしい。警察に電話してくれとは言わないが、せめてヨジには伝えてほしい。  昨日は店を無断欠勤した。店に行く前に銀行に寄ったり、事務作業を喫茶店で行ったりするせいで、毎日真面目に顔を出さなくても連絡が来たりはしない。それでも、無断欠勤の記録は残るだろう。  菅生の無断欠勤に気が付けばヨジは身を案じるはずだ。なにしろ自分は生きることに関して、随分と信用されていない。  まさかストーカーに軟禁されている、とは思わないだろうが、もしかして自殺しているんじゃないか、くらいは思ってくれるだろう。  問題は、ヨジか綾瀬がいきなりドアチャイムを鳴らす可能性があることくらいだが。  ベッドの足に縛られているチェーンは、玄関には届かない。  知り合いが訪ねてくれば、チェーンを外して対応させられる、かもしれない。いや、思い通りにいかずとも、誰かが気づいてくれればとにかくこのまま軟禁されるよりはましなことが起こるだろう。……たぶん。  一番まずいのは綾瀬が一人で訪ねてきて、激高したミズキが彼を攻撃することだが――そうなれば、死んでも綾瀬を守るつもりでいた。  死にたくないと思うからミズキを攻撃できないだけだ。  まだ、死にたくない、と思うから。そう思えているから。  思えばこんな風に思うのは久しぶりだ。小学生の時、風呂場で兄に殺されそうになった際に強く思ったことは覚えている。その後は年を重ねる毎に生き地獄が広がっていくばかりだった。いっそ死んだ方がマシだと思うようになった頃には、兄と家族は菅生が死ぬことを許さなくなった。  兄の遺書は読んでいない。だから、何で死のうと思ったのかはわからない。わかりたくもないので、どうでもいい。  兄に殺されなくて良かったと思う。後々、死ななくて良かったなと笑いたいから、やはり菅生は慎重に息を吐くことしかできなかった。  ミズキはにこにこと楽しそうに菅生の部屋でくつろぐ。彼女がいつ合い鍵を作り、いつから勝手に出入りするようになり、いつからクローゼットの中に潜んでいたのか知らないが、タイミングからして綾瀬との会話は聞かれている。  腕時計を盗んだのも、手帳を盗んだのも、本を盗んだのも、ミズキに違いない。  ただのストーカーでは飽き足らなくなった。だから、大事なものをこっそり盗んで、自分の存在をアピールし始めた。  今は己の手の内に菅生の命がある。菅生はおとなしく、暴れることもなく、ミズキの存在を許している。おそらく彼女は幸せの絶頂なのだ。  刃物で脅していることも、手錠で拘束していることも、菅生の生活を脅かしていることも、すべて目に入らないふりをして。 「あのー……ミズキ、さん?」  また意識がとびそうになる。夜は何をされるかわからず、ほとんど眠れなかった。昼からは時々うたたねを繰り返してしまう。すぐに目を覚ますがそのたびに、体になんの異変もない事を確かめた。  眠ってしまうより、意識を保つために声を出していた方が良いような気がした。 「えー他人行儀……もっとかわいい感じで呼んでくださいよぉ……。お店の女の子のことは呼び捨てかちゃんづけなのにー」 「いや、そりゃあね、そういう風に呼んだ方が、みんな嬉しいって言うから、えーとじゃあ……ミズキちゃん」 「はーい。なんですか泰成さん」 「……いつからうちのクローゼットの中にいたの?」 「えー……えーと、いつから、かなー? ……おととい?」 「え。マジで。いや、それ、あの……食事とか、どうしてたの」 「普通に食べてましたよーだって泰成さん、昼間はだいたいいないし。トイレは我慢できなくなるとこまるからー介護用のおむつしてました! 尿瓶はちょっとハードル高くて……」  人様の家のクローゼットに無断で忍び込み生活するハードルは難なく飛び越える癖に、わけのわからないところで恥じらうように腰をくねらせる。 「あ、泰成さんもおトイレ行きたくなったら勝手に行ってくださいね。その鎖、トイレまではギリギリ行ける長さなんですよ。ちゃんと測ったんだから!」 「でも、これじゃあトイレの扉閉まらなくない?」 「えー閉めないでいいですよー。籠城されたら困るし。これから一緒に過ごすんだから、排泄音くらい我慢します! あ、でも私あんまりお掃除得意じゃないんで、汚さないようにしてくださいね」  にっこりと本人は笑ったつもりだろうが、笑顔の作り方がどうにも不気味でニタニタと笑っているようにしか見えない。ソファーに座っていなかったら、三歩くらいは後ろにさがっていただろう。  トイレから逃げることはできない。窓はちいさすぎるし、何よりチェーンを引きちぎるような工具がない。  こんなことなら、真面目にサスペンスものやミステリーの脱出ものを読んでおくべきだった。創作物の知識でどうにかなるようなことでもないのだろうが、せめてもう少し頭が良ければと思う。  これからどうするつもりなの、とは怖くて聞けなかった。  一緒にいる、というのは住むということだろうか。自分はこのまま軟禁されるのだろうか。それともクララのように、あの世でも一緒ですよという結末になるのだろうか。なんにしても、歓迎はできない。  しっかりしろ。寝ている場合ではないし、ピンクの象に助けを求めている場合でもない。考えろ。どうにかしろ。今自分は言葉を放つことしかできない。ならば言葉で、どうにかならないものか。  眠気でぐらつく頭で、菅生がどうにか解決策を考えようとした時――。  ピンポーン。  と、ドアチャイムが鳴った。 「………………」  ミズキは返事をしなかった。ただ、ぴたりと動きと息を止めた。  古い菅生のアパートには、もちろんインターフォンなどない。いま外に立ちドアチャイムを鳴らしている人間が誰なのか、菅生にもミズキにもわからない。  しかし、ドア向こうの人物は軽快に名乗りを上げた。 「こんばんはー、ヤマナカ運送ですー。お荷物の再配達に参りましたー」  残念ならがそれは、菅生の知らない男の声だった。  綾瀬かヨジかと思ったが、どうやら彼らはまだ菅生の異変に気が付いていないらしい。時刻は夜の九時半だ。宅配便の夜間配送は九時までだったが、非常識というほどの時間差ではない。  なにか頼んだっけと首を捻る。ほんの数秒考えて、そういや部屋綺麗になったしと思ってBDレコーダー注文したな夜間指定で、と思い出した。  菅生が配送品に思い当たったことを、表情で察したのだろう。ミズキは軽やかに返事をして、『今行きまぁす』と声を上げると急いで菅生を寝室に追いたてた。 「ちょっと静かにしていてくださいね、泰成さん。声とか上げたら、あとでぜったいにお仕置きなんですからね」  勿論、菅生は騒ぐつもりなどなかった。自分が騒いだせいで配達員がけがでもしたらまずい。  だから菅生は、言われた通りに寝室で両手を上げて『わかってますよ』とアピールした。ぱたぱたと、まるで玄関先に向かう新妻のような足取りでミズキが遠ざかる。実際、彼女はそのつもりなのだろう。  サインでいいですかという声を聞きながら、菅生はゆっくりと音を立てないように、最新の注意を払いながら寝室の引き戸の桟に噛ませてある置物を、抜き取った。綾瀬は『なにあの文鎮』と言っていたが、正直菅生もこの重い何かが何のためのものなのかよく覚えていない。ヨジの海外旅行の土産だったかもしれないし、誰かがロッカーに置き忘れて行ったゴミだったのかもしれない。  ドアストッパー代わりの細長い置物をそっとずらした後は、音を立てないように引き戸を閉める。ガタン、という嫌な手ごたえを感じる。  立て付けがわるいのか、なんなのか。  寝室のドアは、一度閉めたら寝室側から外さないと開かなくなる。リビング側から蹴り倒せばどうにかなるかもしれないが、ミズキの力ではどうにもならない――事を祈るしかない。  ありがとう立て付けの悪いドア。ありがとうボロアパート。  そんな風に笑ってしまうのはどうしようもなく疲れていたからで、だから自分を呼ぶ声が窓から聞こえた時、菅生は幻聴を聞いているものだと思った。  スガさん、と呼ぶ声は、綾瀬の声だ。うわぁ幻聴やべーピンクの象じゃなくってアヤちゃんの幻聴ってほんとやべーと笑った瞬間、窓をガンガンと叩かれて思わず振り返った。  そこに居たのは、幻聴でも幻影でもない、正真正銘の生身の綾瀬だった。  窓の外はベランダなどではなく、普通にカベだった筈だ。 「スガさんはやく開けてってば! はやく! つかさっさとこっち来いッ!」 「……あ、あやちゃん、え? え? いつの間に、空飛べるようになっちゃったの?」 「アホ言ってないでさっさと手出してくださいそのやべー鎖切断します! ヨジさんチェーンカッターやっぱり要る!」 「だーから言ったじゃない、投げるよ受け取れ!」 「ナイス! シュー!」 「……え、ヨジさんもいるの? なに、やっぱりおれの死に際の幻影なんじゃないのこれ……好きな子と好きな子の夢の競演じゃん……」 「あたしースガちゃんにー好きだとか言われたの初めてなんですけどぉー。そういうのー面と向かって言ってくんなぁーい?」  窓の下から聞こえる声は、確かにヨジのもので、身体を乗り出して確認した菅生は、業務用かと思われる脚立の存在を確認した。  チェーンカッターを手にした綾瀬は、慣れた様子とは言い難いがたどたどしいとも言い難い手つきで菅生の鎖をガチン、と切断する。 「……足は? 繋がれてないです?」 「大丈夫、だけど……アヤちゃん先に降りたほうが安全だと思……」  最後まで言い切る前に、寝室の引き戸がガタガタと揺れた。ミズキが寝室の籠城に気が付いてしまった。何度もガンガンと扉を蹴りつけている音がする。完全にホラーだ。思わずヒッと声が漏れたが、硬直しているわけにもいかない。  映画で死ぬ登場人物はフィクションの住人だが、菅生は実在の人間だ。これはホラー映画ではなく、残念なことに現実なのだ。  女が何か叫んでいる。だが、菅生は意図的にその言葉を遮断した。今はなによりも、自分の命が大切だ。  綾瀬が先に降りて、そのあと菅生も無事に脚立に足をかける。高所はそんなに得意じゃないと言い忘れた。それでもやはり、死ぬよりはマシなので、多少の恐怖はどうにか飲み込む。  地面に足を下ろした後、脚立を支えていた見知らぬ男性がいたことに気が付く。どう見てもその道の職人という作業着と筋骨の男性は、アパートの二階まで届く脚立を軽々と持ち上げると、横に停めていたトラックに積み込んだ。  トラックの横には、すらっとしたスーツの男性が携帯電話片手に立つ。こちらも菅生は知らない顔だ。  スーツの男性はヨジと短く言葉を交わし、作業着の男性とともにアパートの表側に走って行った。 「スガちゃんあのね、警察来るまでもうちょい時間かかるんだわ。だから玄関から逃げないように今そっち封鎖しに行ってもらった。ちなみにあれ、うちの店の常連でたまたま店に来てた鳶と行政書士」 「すげー組み合わせだな……」 「ソープランドとクリーニング店もすげー組み合わせだよ。スガちゃんが自殺するかもーって駆け付けたけど、一応他人装ってピンポンしてみてさ、普通に出てきたらまあ話を聞いて……って思ったけど見知らぬ女出てきて妻顔してたからさー慌てて窓から中覗いてもらったわけ。そしたらどう見ても軟禁。ワオ。後世に語り継ぐネタができたわ」 「さっきのお届け物配達員も、ヨジさんの手のもの……?」 「いやあれはアヤちゃんの友達の櫟七星。なんか昔配達員のバイトしてたことあんだってさ。アヤちゃんにできるだけすぐに駆け付けてくれる男手に心当たりないかって聞いたらアレが来た。くそみたいに職場が近かった。……まあ、見た目はちょっとチャラいけど、友達の彼氏の危機を救おうって気合いだけは認めてやってもいい」 「かれし」 「あ、まだ彼氏じゃなかったっけ? あーでも、そういう甘ったるい感じのアレソレはね、警察。警察来て全部終わって、わー誰も死ななかったね良かったねってなって、スガちゃんちが事故物件にならないこと確定したらどうぞごゆっくり密室とかでやってちょーだい」 「事故物件……あー、そうか、あの子、あそこで自殺とかしちゃったらやばい……」 「ま、そしたら引っ越しなさいな。wi-fi飛んでるとこなら、あたし遊びに行ってあげてもいい」  偉そうに笑うヨジに返す冗談が見当たらなくて、菅生は素直にありがとうと言った。  目を見張る。そういう表現がぴったりの顔だった。ヨジが、無表情かにやにや笑いではない瞬間を、久しぶりに見た。 「――それ、お隣のヒーローにも言いなさいよ。わりと命張ってスガちゃん救出したんだからね」 「言うよこれから。あー……あの、アヤちゃん」 「はい」 「……手、あのー」  おずおずと、菅生は左手に力を入れる。脚立から降りたあと、綾瀬はずっと菅生の左手を握っていた。もう絶対に離さないという気合を感じる程、強く握っていた。  つないだ手の事を指摘しても、綾瀬は手を離さない。  ただ、息を吸って、ゆっくりと吐いた。 「スガさんが、」  生きててよかった。  吐き出すような言葉とともに、肩口に綾瀬の額が乗る。ごめんとありがとうがごちゃ混ぜになって、言葉より先に涙が出そうになった。  ピンクの象は、今は瞼の裏にも、脳の中にもいない。  菅生は現実の世界で、綾瀬の手をしっかりと握り返した。

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