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警察が撤収した後、綾瀬クリーニング店にたどり着いた時間はすでに、深夜零時を過ぎていた。
「今年はなんか……すっごい頻繁に警察にお世話になるなぁ……」
ぐったりとした様子で灰慈の運転するバンから降り、息も絶え絶えに呟く男は菅生だ。
自宅で包丁を持った女が暴れている、という通報を受けて駆け付けた警官のお陰で、灰慈も菅生も、手伝ってくれた七星も、連行された桃木ミズキ含め誰一人かすり傷ひとつなく事件は終わった。
事件と言ってもいいものかどうか、実のところ灰慈にはよくわかっていない。
菅生の様子がおかしい。それだけを根拠に、ヨジ達を引き連れて菅生の家に押しかけた。なにかトラブルがあって落ち込んでいるのではないか、くらいの気持ちだった。まさか、ストーカーに軟禁されていたとは。思いもよらない事態過ぎて、いまだに頭の中で整理がつかない。
てきぱきと桃木をパトカーの中に押し込めた警官は、現場検証は明日しますからと言って菅生の部屋を封じてしまった。
自宅であるアパートを封鎖されてしまった菅生は、仕方なく綾瀬家に泊まる事になったわけだ。
暗い玄関に立ち、近所迷惑にならないようにゆっくりと鍵を開ける。そろそろとまるで泥棒のように家に入り込んだ二人は、二階の灰慈の部屋にたどり着くと、やっと息を吐いた。
居間に通そうか迷った。が、居間と言っても狭い家のため、母の自室のようになっている。子供たちの私物も散乱しているし、一番片付いているのは灰慈の自室だ。
「スガさん、風呂入ります? もうそんなことより早く寝たい、っていうなら布団持ってきますけど」
「あー……今からお風呂頂戴しちゃうと、風呂ン中で気絶しちゃいそうだからやめとく。お気遣いありがとう。てーか、実際アヤちゃんもお疲れでしょ。おれの事は気にせず普通に寝てください。正直普通に床の上でも気絶できるからおれは」
「いや、気絶はちょっと、怖いんで、ほんと普通に寝て……。睡眠不足とか栄養失調とかで死んだらどうすんの……」
「いやー人間寝ないと狂うかもだけど突然死したりは……するかな? するかもな。寝ないと血圧あがってくんだっけ? そういやおれ若くないんだった望まぬ徹夜に耐えきれる身体じゃないのかもなぁ、なんかふらっとするし。……ふらっとするから、アヤちゃん手繋いで」
「……別に、無理に理由つけなくたって、繋ぎますよ手くらい」
「え、そうなの? そういう事言うとね、おれはすぐに甘えちゃうよ。こちとら愛に飢えた三十路だからねー」
そんな軽口をたたくわりに、菅生は手をつなぐこと以外、特に何かをしてきたりはしない。ただ灰慈の手を握りながら、ぼんやりとカベを見つめて座っていた。
疲れたね、と菅生は笑う。
疲れましたね、と灰慈も応える。
あたりはすっかり寝静まっていて、車の走行音すら聞こえない。額の奥が重くなりそうな無音の中、菅生は息を吐く。
「はー……でも、人間ってすごいね。ほんと。アヤちゃんがこの前さ、ぱちーんってほっぺたぶっ叩かれて、ぽかーんってしちゃった気持ちちょっとわかっちゃったよ。なんか、あそこまでぶっ飛んで猪突猛進しちゃうの、やべーしこえーし理解不能でぽかーんしちゃうわ……」
「……姉も」
「うん?」
「オレの姉も、なんつーか……そういう、めっちゃ強い愛情っていうか、好きって気持ちがぶちあがりすぎて、他人と一緒に手首切っちゃったんですかね」
「……うーん。どうかな。彼女わりと、雰囲気に流されて悲劇のヒロインしちゃうとこ、あったみたいだけどね。なんにしても、好きだからとか愛してるからとか、だから何しても許してもらえるなんてことないし、普通に迷惑だし、一方的だったり救急車や警察のお世話になったりするような愛情、普通に困るなぁーとおれは思うけど。クララ、まだ病院にいんの?」
菅生の問いかけに、灰慈は『たぶん』とあいまいに頷くことしかできない。
実の姉とはいえ、もう十五年近く家にいない。とっくの昔に家族の枠組みから外れてしまった姉は、名前だけ知っている親戚のような感覚だった。
母親とは連絡を取り合っているのかもしれないが、少なくとも灰慈は姉の容態や入院状況を把握していない。
菅生をストーカー女から救い出して、一件落着万事解決、と思い込んでいた。しかしよく考えなくとも、灰慈の姉の借金問題は全く解決していない。
「あの、スガさん、オレ、えーと……また来週から、スガさんとこに掃除のバイト、行ってもいい……んです、よね?」
「え、うん。なんで……あー! おれが電話でもう来なくていいよって言ったから? あれはほら、その、目の前におれのストーカーさんがいたから、ああ言うしかなくってさ! いやもう来て、遠慮なく、来てください。おれはいたりいなかったりするし、いたとしてもアヤちゃんの掃除の戦力にはなれないけどさ」
「……押し入れの中まできれいになったら、バイトは終わり?」
流石に目は見れなかった。その代わりとばかりに繋いだ手をぎゅっぎゅと握ると、菅生が息を飲んだ気配が明確に伝わってくる。
きっとかわいい顔をしている。けれど、自分の耳が熱すぎて顔が見れない。悔しい。
「――……部屋、全部綺麗になっても、そのー……アヤちゃん、おれんち来てくれんの? 仕事の後できっつくない?」
「きつくない。別に、肉体労働してるわけじゃないし、最近面倒くさくって洗濯ものは持ち帰ってクリーニング品と一緒に洗っちゃうし。つか、ここは、びしっと、こう……ほら」
「え。言っていいの? い、いま?」
「……このまま次の機会に伸ばしちゃったら、そのー……逆に気まずくありません……?」
「う……確かに……」
もだもだとした空気の中、八歳年上のかわいい人は、意を決するように息を吸って吐いた、気配がした。耳が熱い。手も熱い。ストーブを出すにはまだ早くて、それでも空気はひしひしと冷たくて、部屋の中は肌寒いのに灰慈の身体は嫌になるほど火照っている。
早くしてくれないと心臓と身体が持たない。
そう音を上げそうになった時、おれね、と菅生の声が落ちてくる。アンダースローで柔らかく投げるような。ぽとんと頭の上から落ちてくるような。いつもの柔らかい菅生の声だった。
「おれね、なんかこう、いっつも大事な事言い忘れるのよ。どうでもいいことは几帳面なのに、肝心なとこで間抜けっていうか。救急車に携帯忘れて乗り込むし、最初に会った時も名乗り忘れるし、アヤちゃんの初バイトの日もバイト先の詳細説明したつもりになっちゃってたし。忘れるっていうか、言ったつもりになってんのかな? だからさ、言ったつもりになってなぁなぁにしないで、これはちゃんと言おうって昨日結構本気で決意したんだけどね」
「はい」
「アヤちゃん、あのね」
「……はい」
「そのー……実は結構前から滅茶苦茶好きです」
息が止まる。変な声が出そうになって、それをどうにか飲み込んで、布団の中に隠れてしまいそうな気持を抑えて、灰慈は無理に冷静になるように息をする。
「…………はい、なんか、知ってました」
「だよね? あはは。はー……なにこれはっずかし……」
「あと、あの、オレも好きです……たぶん」
「たぶん」
「だって、わっかんないですよ、オレ年上の男にどきどきすんの初めてだし、てかなんなら恋とかちゃんとしたことないし!」
「え、うそ、彼女は? いたでしょ?」
「いっないですよ!」
「うっそだー! だってアヤちゃんそんなイケメンで、優しくてさ、他人に譲れる子で、友達との付き合いもちゃんとしてて、仕事は真面目だし、自分の子供でもない甥っこと姪っこの面倒だってびっくりするくらいちゃんと見てて、掃除も洗濯もクリーニングまでできて、料理だってできるんでしょ? いやいや。いやいやいやおじさんをね、騙してもいい事なんかないよ」
「スガさんはおじさんじゃないですし、別にスガさんを騙したところでオレになんの利益もないのはわかってますし、だから騙してないです、彼女いたことないです」
「毎日何してたの……?」
「え、仕事」
「…………………」
しばらく絶句していた菅生は、急に灰慈の手を両手で握ると、改まって口を開いた。
「あのー……ええと、おれもまあ、正直自慢できるような恋愛してきてないし、経験豊富ですとも言い難いんだけど。それでも、精いっぱいアヤちゃんが毎日楽しく笑えるように、頑張るから。……だから、おれと、その、いや違うおれの? うん、ええと、おれの、コイビトに……なっ、あー……」
「……スガさんのその、最後まで頑張れないところすんげーかわいいんで駄目です」
「駄目ってなに……改まった感じ、苦手なのよ。ふわっふわ生きて来たのよ三十年……」
「だめなおとな……」
「いえす。自覚はあります」
「改まらないで、普通に言ったらいいんじゃないかと思いますけど……」
「えー難しい事言うねぇアヤちゃんてばさ。あー、じゃあ……明日もアヤちゃんに会いたい。明後日もその次の日も、来年も、ずっとアヤちゃんに会いたいな、おれ。だからおれと付き合って」
「………………」
「え、だめ? だめだった? リテイク? も、もっかいやる?」
不安そうにそわそわし始める菅生があまりにもかわいくて、灰慈は返事を忘れた。おれもすがさんにこいびとになってほしいです、と告げる時には指の先まで火照って死にそうだった。
姉も桃木ミズキも、恋だの愛だのでよくあそこまで突っ走れるよな、と冷めた気持ちで眺めていた。しかし灰慈も彼女たちの事を笑えない。
彼氏ができてしまった。八つ上で、風俗店のオーナーで、結構不憫な人生で、頭の中にピンクの象を飼っている不思議な人。
菅生泰成は不思議で変で、けれども優しくてかわいい。いつでも弱くて、そしてなだらかで、正しい。
菅生が好きだと思う。たぶん、と言ってしまったけれど、心臓が煩いから恐らくこれは恋なのだと結論づけた。
姉が心中未遂をして、かけつけた病院で全身血まみれの怪しい男に声を掛けられて、そして最終的に彼をストーカーから掬った後に恋人になった。
波乱万丈すぎて、七星に説明するときにどうしたらいいのかわからなくなりそうだ。
ただでさえ疲れていて、慣れない告白をして、菅生は疲労困憊だろう。灰慈も風呂は明日にして、今日はもう寝てしまおうと思い、手を離すタイミングを見計らっていた時。
「アヤちゃんあのね、キスしてもいい?」
……隣の菅生が、とんでもないことを言いだしたものだから、灰慈は本当に息が詰まって死ぬかと思った。
「な、に言……スガさん、あの、そういうのは、こう……口に出さないで、それっぽくスマートにやるもんじゃないの……」
「え、そうなの? でもほら、アヤちゃん彼氏できちゃうの初めてでしょ? いままで恋人居なかったっていっても、ストレートだろうし。おれはゲイだけど。だからほらーアヤちゃんの嫌な事したくないし、お伺い立てたほうが確実……」
「そりゃそうですけど。……スガさんにされて嫌なことなんか、ないです」
「………………」
「スガさん?」
「……あ、はい、大丈夫生きてるよストレートパンチ食らってぐらぐらしちゃってる、って感じだけど……いまの録音しとけばよかった、って思ってるだけ……」
「え、性癖に刺さりました?」
「ぐっさぐさ来たー……てわけで、ちゅーしていい?」
「ちゅーって言い方、ぐさぐさくる」
うはは、と笑った菅生は、流れるような動作で灰慈の顎に手を掛ける。腰を抱く腕が温かい。どこにどう手を置いたらいいかわからず、結局灰慈は菅生のシャツを弱弱しく握りしめた。
下唇が触れる。年上の男の唇は、思いのほか柔らかい。
「……アヤちゃん、嫌じゃない? 臭くない? 無理じゃない?」
せっかくムードよくキスを始めたかと思った直後に、囁くように問いかけてくる菅生はやっぱりいつもの菅生で、思わずふは、と笑ってしまった。
「嫌じゃないし無理じゃないしスガさんが臭かったことなんか一度もないですよ……てかオレ、スガさんのパンツも洗ってんですから、なんかそういうの今更じゃね? って思うんですけど……」
「パンツとキスは別でしょ。パンツ口に入れるわけじゃないんだし。あと、あのー……いま眠くってさ、理性がねーぶっ飛びがちなんだけどね……ちょっとえっちなかんじのちゅーしても怒んない?」
「……おこんない」
羞恥よりもどきどきとした期待の方が勝った。今度こそ不安を拭い去ったらしい菅生は、灰慈の腰を抱き寄せて顔を上げさせると、深く唇を合わせた。
柔らかい唇が思いのほかゆっくりと、焦らすように灰慈の唇を貪る。どうしていいかわからずに口を薄く開けた瞬間、ぬるりとした熱い舌が唇を舐めた。
「…………っ、ん……ふ……………」
「……アヤちゃん、息しないと死んじゃう死んじゃう……ほら、口あけて。……怖くないから、ほらー」
「ぁ……だって、スガさ……ん、ぁ…………その、舐めんの、だめ、ぞくぞくする……」
「……なにそれえっろい録音したい……」
「えろいのはスガさんの方……っ、ま、待っ……て、腰、触んな……っ、ひ、ぁ……!」
「嫌?」
「……いやじゃない、けど、えろい気分になる、から無理……っ、今日は無理……! スガさん寝ないと死ぬ……から……!」
「アヤちゃん素直でかんわいいなぁー……死なないよと言いきれないからうーん、理性頑張って動員するね、あーでも……かわいいうれしいしあわせでしにそうえへへへへ」
にへら、と本当に嬉しそうに笑う。かわいいはこちらのセリフだと言いたいところだが、にへにへと笑う菅生の手も唇も、相変わらず容赦なく灰慈を責めたてていた。
不覚だ。すっかり油断していた。
であった頃は『夜の街で風俗店を営むアブナイ男』だという偏見のような警戒心があった。しかし最近は不器用で駄目でかわいい人だという認識が強く、恋愛に対してそうであるように、キスや性行為にも不器用なイメージが勝手についていた。
まずい。菅生泰成はそこそこのテクニシャンだ。
このままでは告白初日に無様な格好を見せてしまう事になりかねないし、そもそも灰慈は本当に菅生の体調を心配していた。
追いかける舌から逃げきれず床に押し倒されてしまう。それでも根が優しい菅生は、灰慈が『もう無理』と訴えかけると素直に身体を退いた。
見下ろす男は本当に幸せそうな顔をしている。簡単に息を上げてしまってギブアップした自分が情けなく思える。
「……オレは別にその、嫌だったとか無理だったとかビビってるとかじゃないんですからね……素直に、単純に、菅生さんは寝た方がいいと思ったから止めたんですからね……」
「うん。知ってる。おれも寝た方がいいと思う。いま完全に感情が爆発暴走って感じでやばい。らりってるーって感じするもん何時間寝てねーのおれ……あー……四十時間、くらい? ……いやまだいけるんじゃない?」
「いけねーですってば。寝ろ」
「いやでも……朝起きてやっぱり菅生さん臭いんで昨日の話はなかったことにとか言われたらしんどいしきついし今のうちに幸せ隅々まで堪能しといたほうがいいような気が……」
「臭くないって言ってんでしょーがもー! 明日朝起きたら好きなだけキスしたらいいじゃないですか!」
「え、いいの? そんな朝から大盤振る舞いのお約束していいの? おれ本当にそういうの遠慮しないよ? めちゃくちゃちゅーしちゃうよ? いいの? ……ほんとに? やったーうへへ、じゃあ素直に寝る」
「あ、じゃあ下から布団――」
「アヤちゃん一緒に寝よう?」
「……動員した理性いきなりぶっ飛ばすのやめてください」
「だって幸せだから」
文脈が繋がっていない。へらっとしている菅生は睡魔で半分くらいおかしくなっているようだ。
ほぼ丸二日寝ていない上に、いつ危害を与えられるかわからないという状態で過ごしたのだから、無理もない。灰慈は明日も仕事だが、とりあえず開店時間までに起きることができればどうにでもなる。自宅が職場でよかったと思うのは、寝坊が許されるところだ。
この人は今日滅茶苦茶疲れているんだから仕方ない、と自分に言い訳をきっちりと与えて、仕方ないなという顔で灰慈は自らの布団を敷き、素直に菅生の腕の中に納まった。
暖かい身体に抱きしめられると妙に安心する。けれど少しだけ、くすぐったい。これは恋というよりも、幸福に近い感情なのかもしれない。
辛いとき、菅生はピンクの象を思い浮かべる、と言った。
つまりは幸せな時は、その象はお役御免となっている筈だ。
今、灰慈を抱きしめて早くも意識を飛ばしそうになっている男の頭の中に、ピンクの象がいなければいいなと、そんな事を思っているうちに灰慈もどろりとした睡魔に包まれた。
ピンクの象は、きっと何度も菅生を助けてくれた。
けれど今日はもう大丈夫だよと、灰慈は象の背中を撫でるところを想像した。
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