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電話向こうのヨジは、今日も無感情なまったりとした声で、明太子食べれたっけ、と言った。
「……え? なに……明太子?」
『そう。明太子。博多っつったら明太子でしょ。知らんけどそう書いてあるしやたら売ってるしとんこつラーメンより明太子の方がいかしたお土産っぽくない? 箱に入ってる明太子、超アガるじゃん』
「いや、まあ、わからんでもないけど、ヨジさんいまどこにいんの? 博多物産展?」
『本物の九州だーっつの。連休貰ったでっしょーが。ほんっとやべー事以外はぜんっぜん覚える気がないんだからさぁスガちゃんはさぁー』
「えっと、そうだったっけ?」
『最近シュレディンガーにもこねーもんねースガちゃん。彼氏できてから分かりやすく付き合い悪くなっちゃってまーまー羨ましいこと』
責めるような台詞を口にしながらも、ヨジの口調は随分と朗らかだ。
辛辣な毒吐きを演じながらも、結局は優しいから菅生は彼女の事が好きだと思う。結局面と向かって好きだと言いそびれたままだが、ヨジとの関係は相変わらず良好だった。
ヨジの事は好きだが、いかんせん菅生もヨジと同じく外出中だ。路上の壁にもたれ、要件は明太子だけ? と苦笑する。
『なに、大事でしょ明太子。食べれなかったらもったいないじゃんよ、明太子。箱入りの箱だけ渡すことになっちゃうでしょ、明太子』
「好きだよ明太子、ありがたくいただきますよ明太子。今外だから、また後でゆっくり九州の愚痴と土産話聞かせてね」
『うっわーさらっと切る気だなさてはデートだなスガちゃん。なに、映画? ショッピング? アウトドアじゃないでしょあんたら』
「……美術館の隣のカフェ」
『わぁ……わー、なにそれ、すごいじゃん。夢、叶っちゃったねぇ』
無表情なヨジの声色が明確に柔らかくなったことに気が付いて、うっかり泣きそうになってしまった。
いやいやこんなとこで泣いてたらアヤちゃんに不審がられる。そう思い、ぐっと涙をのみ込んで、ヨジさんが帰ってきたらシュレディンガーに寄るよと笑って通話を切った。
軟禁された菅生をヨジと綾瀬が救出してくれたあの夜から、二週間が経っていた。付き合い始めて二週間の恋人とは、相変わらずもだもだと好意を告げあっている最中で特にこれといって進展もないが、それでも毎日単純に幸せだ。
このところヨジは、ソープランドのバイトにあまり入らない。水商売をしなくても事足りるならばそれはそれで問題ない。ヨジに会いたければ、シュレディンガーで酒を抜かれたミモザもどきを頼めばいい。
携帯をポケットに仕舞い、カフェの中に戻る。
テーブルに一人残された綾瀬は紅茶を飲みながら、先ほど買ったばかりのポストカードを眺めていた。
すべて貰い物だという彼の洋服はいつでもお洒落だ。クリーニング店で仕事しているときも、菅生の家で掃除をしているときも変わらずスタイリッシュだが、カフェの一角に座っている姿は一段と格好いい。
ごめんね、と声をかければ、ふと顔を上げた綾瀬はいつも通りの笑顔を見せた。さっぱりした好意が心地よい。ただでさえ朝から感無量状態の菅生は、綾瀬の顔を見ているだけで泣きそうになる。
生きていて良かった。そんな重い感動を一々実感している事実は、綾瀬には黙っておく事にする。
「おかえりなさい。……ヨジさん、なんだって?」
「え。なんか、明太子食えるかって。箱で買ってきてくれるらしいよ、明太子。アヤちゃんにもおすそ分け――あれ、アヤちゃん魚介とか魚卵とかいけたっけ?」
「食べ物で苦手なのはホワイトアスパラの缶詰くらいなんで他はいけますけど、あの人今どこで何してるんです……?」
「んー。なんか博多だって。何しに行ったかは聞いてないけど……あー、いやでも、ばーさんが死んだから葬式に行くとかそう言えば聞いたような聞いてないような……」
「葬式行って土産に明太子箱で買ってくんの……?」
「相変わらずよくわかんなくていいよね、ヨジさん。てかいいなぁ九州。おれ実は飛行機乗っていくような場所まで行ったことないんだよねぇ」
「あ、オレも。修学旅行で行った京都が一番遠い旅行先です。親戚も近県だし」
「沖縄とか北海道とかそこまで遠くなくてもいいけど、なんかどっか行きたいよね。……でもあれか、男二人で旅行ってちょっとあまりにもそれっぽすぎる?」
「別に、オレは気にしませんけど。そういう風に見られても、まあ事実だし、スガさんが嫌じゃなければ旅行いきたいです。温泉行きたい。……オレが仕事休めたらですけど」
「あー。ねー? アヤちゃん土日は基本仕事だしねぇ」
綾瀬クリーニング店の定休日は木曜日のみだ。時折母親が店番を代わってくれるらしいが、基本は綾瀬が一人で回している。流石に年末年始は店を閉めるらしいが、実はその時期は菅生の方が忙しい。
年末年始は休業する競合店が多く、菅生がオーナーを務める年中無休のソープはその分、かき入れ時となってしまう。
「ま、生きてりゃ三日くらい暇になるタイミングもあるでしょ。たぶん。別におれは家の浴槽に温泉の素入れただけでもお手軽に楽しくなっちゃうからね、それでもいいけどねぇ」
「……そういやずっと気になってたんですけど、なんでスガさんちの風呂、ずっと蓋がしてあるんです? 普段ずっとシャワーでしょ? なんか理由でもあんの? あの中には死体が……とまでは思ってないですけど」
もっともな疑問を急に投げつけられ、菅生は視線を彷徨わせながら少し温くなった珈琲を一口飲み込む。特別高いわけでもない普通のブレンドコーヒーだが、今日は妙に香りが気持ちよく感じる。
「あー……あれねー……えっとねー。……実は三年前くらいに、排水口から虫が這いあがってきてね? いやーびっくりして蓋しちゃって、それから怖くて開けられなくてそのまま――」
「いやいやいやいやいやいや。開けろ。そんで掃除して栓してください!」
「ねー。おれもそう思うーいつかやろうとおもってるー」
「絶対それやらないやつじゃん! もういいです今日帰ったらオレがやります。つかスガさん真冬でもシャワーのみの人?」
「え、うん。そもそもおれ行水だから。湯舟の中で本でも読めれば別だけど――」
「寧音、結構頻繁に風呂に文庫本持ち込んでますよ。長湯だっつってオカンがわりと文句言ってる」
「まじで。えーどうやって読んでんのネネちゃん、おれ絶対本濡らしちゃうから無理なんだけど……今度聞いとかなきゃ。あ、でも女子中学生に入浴の事訊くのっておっさんとしてNG?」
「おっさんとしてはNGでしょうけど本好き仲間としてならまあ、ギリギリセーフじゃないっすかね。たぶんですけど。……寧音といえば、」
姉が帰って来た、と綾瀬は口にする。
少し気まずそうに頬杖をつく様を見れば、それが切り出しにくい嫌な話題なのだろう、と見当がついた。
クララがその後どうなったのか、菅生は全く知らない。何度か店に電話があったようだが、解雇後は着信拒否していいよと事務件受付のスタッフに告げていた。部屋の清掃費を払う気がないのなら、元従業員ですらない。綾瀬萌子はただのブラックリスト入りの人間だ。
それにしてもあれだけ迷惑をかけて、二人の子供を無条件に養ってくれている家によくも堂々と顔を出せたものだ。
綾瀬に託したロッカー内の荷物を受け取ったのだろう、と思いクララそのあとどこ行ったの? とさらりと訊いた菅生だったが、なんと綾瀬はとんでもない事実を口にした。
「いや、そのままウチに居ます」
「…………は!? え、いや、え!?」
「あ、はい、そういう反応になりますよね、っつーかその反応で合ってますよね……? ちなみに昨日洗いざらい事情話した七星も、オレとスガさんのアレソレでなんか遠い目してましたけどねーちゃん帰ってきていま家にいるっつったらスガさんの怪しさ満点の職業とかバイトの経緯とかぶっ飛んだみたいです」
「えええ……それ、クララに感謝したほうがいいの……? いやでもクララまじで? まじで言ってんの? それ、なに、そのまま住むつもりなの……?」
「次の仕事と家が見つかるまでのお手軽な宿、くらいの気持ちなんじゃないですかね。なんか詳しくは聞いてないし濁されたけど、どうも心中未遂した男の家から追い出されたみたいで。まあ、それはどうでもいいんですけど、ぶっちゃけ寧音と佑光がもうすんげー毎日きつそうでえぐい」
「うっわぁ……だよねぇ……? えーと、ネネちゃんとユウくんは、クララの事知ってんだっけ? ちゃんと母親だって」
「それは知ってると思いますし、思い出がないから普通に嫌いでもないみたいなんですけど、とにかくオレのかーちゃんの方がぶち切れマックスで毎日食器が飛んでる」
「あーあーあー……駄目なやつじゃん。駄目なやつだよ。駄目なやつ……」
家庭内の怒号を想像し、思わず胃がぎゅっとしてしまう。頭を抱えてしまう菅生に対し、ため息交じりの綾瀬も額に手を当てる。
「ユウはまだマシなんです。ネネが気ぃ使って外に連れ出したり、アニメ見せたり、さっさと寝かしたりしてるんで」
「……それ、ネネちゃんきっつくない?」
「きつい。だから、またスガさんち遊びに行かせてください。ついでにユウもくっついていくと思うけど、あの二人、あの部屋大好きみたいだから。スガさんのことも嫌いじゃないっぽいし」
「うはは。スガさんが大好きじゃなくってさ、スガさんの部屋が好きってところ、なんかいいね、素直。好感度高い。いつでもおいでよ、別に何もないし、台所の窓は閉まんないし、寝室の扉は一回閉まると開かないけどね?」
結局、現場検証を終えた後も菅生はあの古いアパートに住み続けている。特にあの場所に拘る意味もなく、ただ単に引っ越す理由がないから住んでいただけだった。しかし菅生の命を救った立て付けの悪い扉に、今はなんとなく愛着がわいている。
「そのまま、クララ住み付いちゃったりしない?」
恐る恐る、怖い事を聞いてしまう。しかし綾瀬は苦笑してそれはないと思うと言い切った。
「オカンが追い出しますよ。つか今日あたりもう追い出されてるかも。もー毎日ほんっとやばくって、オレも切れそうで、そしたら寧音が気ぃつかって風呂とか洗ってくれやがるから余計にうわーってなっちゃって……昨日あんまりにも腹立ったんで、夜ね、寧音とファミレス行ってケーキ食っちゃった」
「いいんじゃないの? てか、いいね、中学生の心にグッとくるでしょそれ」
「………オレ、本当はそういうのよくないのかなって思ってたんです。子育てとかしたくてしてるわけじゃないけど、だからこそ気を遣わなきゃと思ってて、なんつーか……贔屓とか、よくないのかなって」
「うん」
「でも、スガさんが頑張ってる子にはご褒美上げたいって言ってたの思い出して、そうだよなぁ偉いねって頭撫でてやんなきゃだよなぁって思って、だからメニュー開いて好きなの頼め今日は許すってやっちゃった。……ファミレスだけど」
「あはは。それいつか言ってみたいやつだ。おれも言ってみたい。……ネネちゃん、喜んでた?」
「うん。ありがとうって。なんかじんわりしちゃって、夜のファミレスでちょっと泣いちゃいそうになって、なんてーか……スガさんに、会わなかったら、あの時間はなかったと思うし、だからええと、ありがとうございます」
オレに出会ってくれてありがとうございます。
綾瀬のセリフが耳から、ゆっくりと身体の奥に沈んでいく。
今まで笑顔で耐えていたものが一気に込みあがり、流石に目頭を押さえてしまった。
生きていて良かったな、と思う。思うだけで言わない。綾瀬が、きっと心配してしまうから。
「…………スガさんってすんげー涙もろいですよね……」
「自覚はあります……いや年取るとね、些細なことでぐっときちゃうのよ…………アヤちゃんも三十超えたらきっとわかってくれるはず……」
「その時はスガさん四十歳ですね」
「四十歳のおれでもアヤちゃんに好きって言ってもらえるかなぁ……」
「別に、歳とか関係ないでしょ。スガさんはスガさんなんだから。……あーでも、スーツが似合うダンディになってそう……」
「んー。ハードル高い予言だねぇ。おいぼれにならないようにジムの予約増やすよ……」
「家で筋トレしないんですか?」
「いやーあの家ねー立て付けってか、こう、古いからさー床がきしんでさー。クランチとかするとぎっしぎっしするんだよね……こう、音が気まずい……」
「あー…………。じゃあ、ぎっしぎししそうなことは、ホテル行かなきゃですね」
「…………………」
「……スガさん涙もろいうえにすぐ照れますよね……」
「いや今のはアヤちゃんが悪くない!? 白昼堂々びっくりだよ!」
「あんなえろいキスするくせになんでそんな純情メンズなんすか……」
「ムッツリ純情なんだよ言わせないでください」
あはは、と軽やかに綾瀬は笑う。
耳まで熱くなってしまった菅生は、軽やかな笑い声を聞きながらやっぱり少しだけ泣きそうになって、慌てて温い珈琲を飲み干した。
毎日、特別な何かがあるわけでもない。結局いつもの日々の中に、綾瀬が混ざりこんできただけだ。それでも十分に暖かいし、十分すぎるほど幸福を感じる。
菅生の夢であった『美術館を一緒に回ってカフェでチーズケーキを食べる姿を見守る事』を、すべて叶えてくれた綾瀬は、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえばピンクの象って、ダンボの奴ですかね? アニメの」
「……え、そうなの?」
「なんかこの前ふっと思い立ってググったら、ダンボのアニメのトラウマシーンだっていう話で。酔っ払ったダンボが見た幻影、って感じのやべーシーンらしいです。酔っ払った時に見る幻影の事を、『ピンクの象が踊っている』ってアメリカで言ってたみたいですよ」
「へー……初耳、だと思うけどわっかんない、もしかしたらどっかの本で読んで、そのまま頭の隅に居座っちゃったのかも。なんかこう、言葉の座りがいいでしょ? ピンクの象が踊っている、って」
「シュレディンガーの猫みたいに?」
「そうそう。シュレディンガーの猫が、頭に引っかかったヨジさんみたいにね、きっとおれの頭のどっかに、ピンクの象が引っかかったんだろうね。別に、理由なんてないんだろうな」
ヨジみたいに、とはいかずとも、もう少しシンプルになれたらいいと思う。
シュレディンガーの猫に、理由なんかなくたっていいように。
ピンクの象に、理由なんかなくたっていいように。
生きる事に、毎日を幸福に過ごす事に、難しい理由も理屈も必要ない筈だ。まだ、やはりうだうだと考えてしまう事は多いけれど。まだ、頭の中のピンクの象と完璧にはお別れはできないと思うけれど。
猫の代わりに、いつか、ピンクの象を箱に仕舞えればいいと思う。勿論半分死んで半分生きているような面倒くさい箱ではなく、それは思い出という名の単純な箱だ。
「さてー……珈琲も堪能したし帰ろっかー。てかクララいるならアヤちゃん早急に帰ったほうがよさげ?」
「あ、いや大丈夫。今日は寧音もユウも二軒先の久良木さんちのお泊りなんで。ご近所付き合いバリバリにしといてよかったってほんと実感してます。だからオレも帰りたくない。今夜は帰りたくないですスガさん」
「おん……真剣な顔で訴えかけてくる台詞としてはチョイスミスだとおもうよアヤちゃん……まあ、帰りたくない気持ちはお察しします。泊ってく?」
「うん。風呂掃除しましょ。そんで一緒に入りましょ」
「え、いや、それは、ハードルが高い。そんな幸せいきなりぶっ困れたらいままでの人生との落差のショックで心臓麻痺しそう」
「なんでスガさんちょっとガード固いんです……?」
「純情ムッツリおっさんだから」
「なんだそれ」
笑う、単純に幸せな日々が、明日も続いている事がうれしい。
もう一度生きていてよかったなーと思ってから、菅生は頭の片隅でおとなしく座っているピンクの象に、しばらくはそこにいてもいいよとねぎらいの言葉をかけた。
ピンクの象は踊らない。
その代わり、菅生の人生を、きっとそこで見守ってくれていることだろう。
思い出という箱の中に、いままでありがとうときっちりと別れを告げて仕舞う日まで。
終
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