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第30話

 耳元に、頬に村田の熱い吐息が掛かる。囁くように何かを言われたけれど、その声は小さ過ぎて僕の耳には届かない。 「むら、た?」  どうして僕は村田に抱かれているんだろう。ぎゅうぎゅうと力まかせに抱きすくめられ、息ができない。 「くる……、し」  なんとかそう言うと、ようやく腕の力が緩んだ。それでも僕は、まだ真正面から抱かれたまま。村田の頭は僕の顔の真横にあって、村田がどんな表情(かお)をしているのかは(うかが)えない。 「木田は駄目だ。どこにもやらない」  今度は僕にも聞こえるようにそう言うと、(おもむろ)に腕の力が抜けた。自分の置かれた状況を上手く理解できない。 「……すまん。忘れてくれ」 「何を……「今の」  じゃあなと今度こそ手を振って帰って行く後ろ姿を、その場に立ち尽くして見送った。 (なんだったんだろ……、今の)  自分の身に何が起こったのか、すぐには理解できなかった。あんな風に僕を抱きしめた男は、ジョンに続いて二人目だ。  特に村田は特別仲が良かったわけでもないけど、小学校から一緒の唯一の友達らしい友達だ。言ってみれば村田は幼なじみのようなもので、なんであそこであんな風に抱きしめられたのか今の僕には分からなかった。  もともとが文系で、小難しいことは苦手だ。きつく抱かれていたせいか火照(ほて)る頬に手を宛て、冷たい手も少し暖まったところで階段を上った。  階段を上がったすぐ、二階の一番手前が僕と華が住まう201号室だ。ここには花苗が逝って、高校の英語教師もやめてショットバーをやらせてもらうようになってから移り住んだ。  2LDKのごく普通の間取りが気に入った。実家にも何かあればすぐに駆け付けられる距離と、何よりベランダから海が見えるところが気に入っている。  いつものように癖になっている『ただいま』を言い電気をつける。出掛ける時と全く変わらない部屋に少し安心して、リビングへ向かってソファに身を沈めた。  ソファに身を沈め、目を閉じればすぐ睡魔が襲って来る。華はもう眠ってしまったかな。考えているのはそんな()()たりなことだ。襲って来た睡魔はなかなか(すさ)まじく、油断すれば連れて行かれそうだ。  まだ眠っちゃいけない。考えなきゃいけないことが多すぎて上手く収集がつかない。眠りたくない、のに。  心地()いまどろみがどこからともなく現れて、僕を深い眠りに誘う。  眠りにつく瞬間、 『ジュン』  僕を呼ぶ、甘く優しい声が聞こえたような気がした。

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