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第1話

「っ」  震える手が掴み損ねたグラスが倒れかけて、慌てて両手で持ち直した。  とろい自分には珍しいことに素早く反応できて、客の前で粗相をせずにすんだことに心底ホッとしたが、その失敗を感情の読めない顔でじっと見ていた男は、冷ややかな声でボソリと呟いた。 「お前はいつもそんな風に、笑顔の一つも見せずに接客するのか?」  冷たい声音に、心臓がひやりとする。  やはり、彼はまだ自分を許していないのだ。  グラスを縋るように握りしめたままのましろは、はいともいいえとも答えられず、ただ俯くしかできなかった。  羽柴(はしば)ましろは、完全会員制高級クラブ『SHAKE THE FAKE』の人気キャストの一人だ。  まず目を引くのは濡れたような黒目がちの瞳。肌は透き通るほど白く、細く柔らかい髪は背中まであり、動きに合わせてさらさらと流れる。全体的な身体のラインは男性にしては優しく、見るものを和ませる風情があった。  『SHAKE THE FAKE』では、客は来店すると男性キャストを指名し、会話を楽しみながら酒を飲む。風俗店ではあるが、性的なサービスは一切禁止である。客はほぼ男性で、オーナーの許可した人間以外利用できないことから、嫌な思いをすることはなかった。  オープニングスタッフでもあるましろは笑顔を絶やさないおっとり癒し系のキャストとして、毎晩多くの指名をもらっている。   けれど今は、いつもどうやって笑っていたのか、思い出せない。  隣に座る、今夜ましろを指名した男……天王寺(てんのうじ)千駿(ちはや)は小学生の頃の同級生で、ただ一人、家でも学校でも浮いていたましろの友達になってくれた人だった。  当時、天王寺は頭もよく運動もできて、大人顔負けの冷静さと行動力があり、また見目も良いため同級生の中でも一目置かれる存在だったのに対し、ましろは『あいつがチームに入ると負けるから一緒にやりたくない』と言われるほどトロく、いじめにこそあっていなかったが、クラスメイトには煩わしく思われていた。  天王寺はそんな自分をいつもフォローし、優しくしてくれたが、やはり面倒になったのだろう。  最後にはましろを突き放し、卒業を間近にして転校していった。 『お前は、何にでも「はい」っていうんだな』  彼の最後の一言が、今もましろを縛っている。  あの時自分は何に対して「はい」と言ったのだったか。  天王寺は、黙っているましろをじっと見つめている。  その視線を見つめ返す勇気は、今のましろにはなかった。  そもそも天王寺は何故自分を指名したのだろう。  彼は本来客ではなく、オーナーに頼まれて仕事でこの店を訪れたのだと、他のスタッフが話していた。  ましろを見て心底驚いたような顔をしていたことからも、これは明らかに偶然の再会だ。  それが突然客としてましろを指名をして、旧交をあたためようというのならばともかく、再会を喜んでいる気配はない。  酒を飲みたいだけならば、他のキャストに替わった方が彼も気分がいいのではないか。  この席の雰囲気を他のスタッフも訝しんでいるだろう。  それを切り出すかどうかで悩んでいると、テーブルにグラスを置いた天王寺が口を開いた。 「ましろ。仕事が終わったら……、少し話せないか」  予想外の提案に、思わず顔を見る。  表情は読めないが、もしかして、偶然の再会のついでに昔話でもしたいと思ってくれているのだろうか。  嫌われてしまったのだと思っていたが、あれから時も経って、互いに大人になっている。  十四年前、自分の何が悪くて彼を怒らせたのかを聞かせてもらえたら。  天王寺は、今でもましろのヒーローだ。以前みたいに仲良くできるようになったら嬉しい。  申し出を素直に喜び、「遅くなってしまってよければ……」と、ようやく微かに戻った笑顔で頷く。  連絡先を交換しようと一瞬スマホに視線を落としたましろは、男が口元を皮肉気に歪めたことに気付かなかった。

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