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第38話

「美味しい……」  思わずこぼれたのは、随分長いこと口にしていなかった言葉で。  心がすり減るのと比例して食欲も落ちていったが、残したりすると好き嫌いかと叱られるので、もうずっと義務的な気持ちで食事をしていたことに今やっと気付いた。  驚くましろを見て、月華は嬉しそうににっこりする。 「口に合ったならよかった。こっちも美味しいよ」  それは、心からの言葉に思えた。  どんな思惑があろうと、ましろのために用意してくれたというのは本当で、ましろが美味しいと喜んだから月華も喜び、他のものを勧めてくれたのだと。  それは、多くの人には普通のことなのだと思う。  友人や家族と、そんなやりとりはいくらもあるだろう。  けれど、ましろには普通のことではない。  ましろが会話についていけないせいか、きちんと相対して話してくれる人は、今は周囲に一人もいなかった。  孤独でも、仕方がない。気付かぬうちに相手に不快な思いをさせているよりもいいと、一人でいたけれど、やはり寂しさは募っていたのかもしれない。  目の前の少年が魔性でもかまわなかった。  ましろ自身を見て話をしてくれる人と食べるお菓子は、とても美味しい。  先程まで空腹なんて感じていなかったのに、ついすぐに次の手が伸びた。 「お菓子はいいよね。僕は三食、パンとお菓子と紅茶でいいと思ってるんだけど、なかなか近くに賛同者がいなくて」 「三食お菓子だと……ちょっと栄養が偏ってしまいますね」  子供のようなことを言う月華が可笑しくて、口元が綻ぶ。  それを見て、相手が嬉しそうになるのが嬉しかった。  しばらくお茶とお菓子を楽しんだ後、雑談の続きのような調子で月華は言った。 「ねえ、僕のところに来ない?」  どういう意味だろうと首を傾げる。  今、ましろは月華の部屋に招かれて目の前にいるのに。隣に座れということだろうか? 「もう少しわかりやすく言うと、僕の家族になってくれないかなってこと。そうしたらましろは、毎日美味しいお菓子もたくさん食べられるし、いつも笑顔でいられるようになるよ」 「家族……」 「ただ、その代わり、君は今の家族と一緒にいられなくなる。それが、辛くなければ」 「でも…月華はどうしてそんなことを?」  正直、今のましろには、家族と離れて暮らせることはありがたいことですらある。  けれど、彼にとってはどんなメリットがあるのだろう?  月華はどうやら、ましろより年下のようなのに、一人で色々なことができるようだ。  パーティーにも誰かの名代として参加していた風でもないから、若くして起業でもしているのかもしれない。  ニュースや新聞で時折、小学生や中学生が起業する話を目にすることもある。  そういう才能豊かな人だとして、ましろを家族から切り離しそばに置くことが、何か役に立つのだろうか?  不思議がるましろに、「そうだね、当然の疑問だ、僕の話もしよう」……と、月華は自分のことについて話し始めた。 「僕の世界は、つい最近まで、たった一部屋で完結していて、やるべきことは、その部屋の主人の望むように振る舞うことだけだったんだ」  それは、どういう状況なのか。  想像もつかないが、月華のことを理解したくて、ましろは一生懸命話を聞いた。 「それをある人に強引に引っ張り出されてさ。でもそれまで誰かの言うとおりにしていればよかったのに、『さあ、お前は自由だ。何をしてもいいぞ』なんて突然放り出されても、何をしていいかわからないだろう?自分に何ができるかだってわからない。……だから、片っ端からやってみたいと思ったことをやってみることにしたんだ」  何をするにもまず金が必要なため、投機で資金を増やし、起業をしてみたのだという。  ましろの想像は少し当たっていたけれど、それにしても「やってみよう」で始められることではないような気がする。 「その絡みで先日ちょっと顔を出したパーティーで、暗い顔で俯いてるましろを見かけて、笑ったら可愛いだろうなって思った。可愛い子に暗い顔をさせとくなんて、世界の損失じゃないか。僕は、そういう人の心の痛みのわからない奴らを許せないんだ。それだけだよ。羽柴家に何か恨みがあるとかではなくて、もちろん慈善事業でもなくて、ただ、やってみたいことがそれだったってだけ」 「私を、笑わせることが?」 「うん。ましろがさっきみたいに笑ってくれたら、僕はすごく幸せな気持ちになるよ」  それは、とても素敵なことだと思った。  ましろにもできることがある。  しかも、今すぐにでもできることだ。  今の生活を失うことは全く怖くなかった。  ただ、もしかしたら、月華のことも天王寺のように怒らせてしまうかもしれない。  天王寺の話はしなかったが、過去に人を怒らせてしまった話をして、不安を伝えると、月華は何だそんなことと笑いとばした。 「僕は、嫌だと思ったときにはそれをちゃんとましろに伝えるよ。我慢なんかしない。それなら安心でしょ?」  その一言で、ましろは月華の手を取ることを決意した。

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