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第39話

「……たったそれだけのやりとりで、それまでの生活を捨てる決断をしたのか」  隣で静かに話を聞いていた天王寺に、驚きの表情を向けられて、ましろは苦く微笑む。 「幼かったのだと思います。子供の頃……学校の図書館で一緒に本を読んだのを覚えていますか?あのとき読んだような、児童文学によくある、ワクワクする冒険が待っているファンタジーの世界に誘われた主人公のような気持ちだったのではないでしょうか」  そうすることで、誰が何を思い、自分のためにどんな力が動くのかなんて想像もしていなくて。ただつらい現実から逃れたくて、彼の手を取った。  それでも、その決断を後悔したことは一度だってない。  楽しいお茶会が終わってしまうと、手配してくれた礼服を着せかけながら、準備ができたら迎えに行くよ、と月華は言ってくれた。  その数ヶ月後、中学の卒業式の日、本当に月華が迎えに来た。  両親とは、その日の朝出掛ける挨拶をしたのが最後で、卒業式には来ていたかもしれないが、それ以降一切連絡を取っていない。  母親とは、お互いに愛情がないわけではなかった、と思う。  だから、ましろがいなくなることに対して悲まなかったとは思わないが、なりふり構わず月華のもとへ息子を取り返しにくるほどでもなかったのだろう。  お互いに、己のいるべき場所を選んだ。  そういうことだと理解している。  迎えに来た月華は、今住んでいる黒崎の家に一緒に住むのは男所帯過ぎて心配だからと、代々大病院を営む北条という一家の屋敷にましろを連れて行った。  自分も世話になったことがあり、信頼できる人たちだからと言っていたが、医師の近くに置いたのは、当時ましろが痩せていたこともあり、恐らく虐待を受けていた可能性も考えていたのだと思う。  北条家の人たちも、月華に負けず劣らず楽しく優しい人たちで、そこから月華と同じ高校に通い、月華が世田谷に洋館を建てると今度はそちらに移った。  その間にも月華は、ましろのように家族や周囲の大人と上手く馴染めていない者を見つけてきては、懐で守り、彼らが幸福に生きていけるよう手助けをしていた。  救世主のような月華を、物理的に支えられる土岐川や城咲のような手腕はましろにはないけれど、傷ついた時、疲れた時に寄り添うことで少しくらいは役に立てていたと思う。  『SHAKE THE FAKE』ができる前、本店である『SILENT BLUE』で働かないかと誘われた時には、 「ましろと一緒にいると、ほっとする。それを他の人にも少しお裾分けしてやろうかなと」  そんな風に言われた。  月華と過ごすうちに、ましろも対話においての自分のペースというものがわかるようになっていたが、それを仕事にするというのは、最初は無理なのではないかと思った。  けれど、やってみると意外にも楽しくて、今はもう少しこのまま働いていたいと思っている。  月華との出会いからこれまでのことをざっと話すと、天王寺は真偽を確かめるようにましろの目をじっとみて、何故かほっとしたように小さく息を吐き出した。 「あの店で……無理矢理働かされているというわけではないんだな」 「月華は、私が働きたくないから一生養ってほしいと言えば、そうしてくれると思いますよ」  それがましろにとって一番幸福なことだと思えば、彼はそうする。  天王寺には、ましろが意に染まぬことを強制的にやらされているように見えていたのだろうか?  月華は敵だと思う相手には容赦をしない。そのため、悪い噂も多い。  羽柴家の人間だった自分が、突然そんな人間の経営する風俗店で働いていたら、誰でも驚くかもしれない。  ……心配してくれていたのだろうか。  天王寺はしばらくましろの話を反芻するように黙っていたが、やがてぽつりと言った。 「俺も……自分の話をしてもいいか」 「もちろんです……!……あ……その、話したいと思うところだけ聞かせてください……」  今まで聞きたくて、なかなか聞けなかった話だ。  けれど、彼にとっては楽しい話ばかりではないのだということに思い至って、食いついておいて尻すぼみになったましろが可笑しかったのか、天王寺は微かに口角をあげ、昼間『話したくない』と打ち切った話をしてくれた。

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