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第42話
あの頃、天王寺の様子がおかしかったのは、自分の母親とましろとの間で板挟みになり苦しんでいたから。
喜べるような事情ではないとはいえ、明かされた事実は、ましろの心を少しだけ軽くした。
一緒にいることが苦痛だったのであれば、今も昔もましろにできることは離れることだけで、それは……とても悲しいことだ。
貪欲で、自分のことばかり考えていて申し訳ないけれど、やはりましろは彼の側にいたい。
そのために何ができるだろうと考えていたら、抱きしめた体があたたかくて、ついうとうとしてしまった。
『シロのことがあるからそろそろ戻る』と天王寺に声をかけられたのは、空が白み始めた頃で、相変わらず寝起きの悪いましろが言われた言葉の意味を考えている間に、もう彼はいなくなっていた。
何かあったら連絡してくれと言われて、頷いたのは覚えている。
天王寺は少しは元気になったのだろうか。
ぼやけた頭では彼の様子すらもおぼつかなくて、思い出そうとしながら、再び眠りに落ちた。
次に目を覚ましたのは昼過ぎだ。
アラームにも気付かずに寝こけていたのか……と、サイドテーブルを探ってはっとする。
スマートフォンがない。
昨晩、戻ってから目にした覚えがないので、あの路地裏で昏倒させられた時に落として、回収されてそのままなのではないだろうか。
ましろは一縷の望みをかけて、昨晩の路地裏を見に行った。
だが、やはりそこには何も落ちていない。
どうしよう、と青くなる。
あれは、市場に流通していない、店のスタッフに渡される特別な端末なのだ。
ロックを解除できるのは使用者であるましろと、あとはシステムを作った八重崎と月華だけなので、中を見られてしまうということはないだろうが、どんな場所からも探し出すことのできる発信機が内蔵されており、必ず回収をしなければならないものである。
彼らがあれを持っていては、昨晩のことが月華に知られてしまう。
……或いは、自分が直面している事柄について、月華や八重崎はましろ自身よりも事態を正確に把握しているかもしれない。
把握していて何も言わないのは、ましろがまだ助けを求めていないから。
それでも回収しなければならない物品が出てきてしまっては、静観を決め込むというわけにもいかなくなるだろう。
もしも……ましろが対応を誤れば、芋蔓式に天王寺まで不利益を被るかもしれない。
「(取りに行く……?でも、あの端末がないと場所も……)」
ましろは呆然と、その場に立ち尽くした。
「おはよ、ハク。……なんか、顔色悪くない?」
顔を見るなり碧井にそう指摘されて、自分でもそう思っていたましろは、曖昧に微笑んだ。
スマートフォンがないと、天王寺からの連絡も受け取ることができない。
その事実に気付いたましろは、せめて海河には話して、何とかいいように取り計らってもらうことはできないだろうかと思案した。
しかし何と説明すればいいのか……。
考えているうちに、出勤の準備をしなければならない時間が近付いて来て、慌てて支度を始めた。
そのため、食事をする時間はとれず、つまり顔色が悪いのは空腹のせいだろうが、正直に言えばまた帰って寝た方がいいと言われてしまいそうだし、詳しいことを相談するにも、開店時間が近い。
碧井は話を聞きたそうにしていたが、海河が「今日も適当に始めるぞー」と店をオープンしてしまったので、私的な会話をすることはできなくなった。
……とにかく今は、接客をしているほうが、気が紛れる。
オープン直後は指名を受けやすいましろは、常連客でも来ないかと受付の方へ足を向けた。
すると、本日も怪しい風体の海河が手招きをしているのが見え、歩速を速める。
「ちょうどいい、ハク。今おいでになった李様が、お前をご指名だそうだ」
はい、と頷き、傍らに立つ長身の男を仰ぎ見た。
歳の頃は三十代前後だろうか。
意志の強そうな、甘さのない端正な顔立ちに見覚えはなく、初来店かどうかはわからないが、指名を受けるのは初めてだ。
光沢のあるブルーのスリーピーススーツを落ち着いた雰囲気で着こなし、緩く束ねた長い髪にルーズさは微塵もなく、いかにも切れ者という印象を受ける。
一筋縄では行かない気配を感じとり、プライベートを引きずったままで応対できる相手ではないと己を戒めた。
初めてのお客様は、どんなお話を聞かせてもらえるだろうと、いつも少しだけ胸が躍る。
ましろはけぶるような笑みを浮かべ、一礼した。
「ご指名ありがとうございます。ハクと申します。李様、どうぞよろしくお願いいたします」
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