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第56話
案内されたのは、同じフロアにある別室で、他のゲストに聞かれたくない個人的な話をするための部屋なのだろうか、今は誰もいない。
ホテルの一室のようなそこは船室といえど広く、寝心地のよさそうなカウチソファなどが置かれていて、応接室というよりくつろぐための部屋のように見えた。
ソファに座るよう促され、素直に従うと李もその隣へと腰を落ち着ける。
並んで座ると、友人よりは近く、恋人ほど親密ではない距離感に、店で接客をしているような既視感を覚える。
なにか飲むかと聞かれて、サロンでも飲み物は振る舞われていたため、首を横に振った。
李が苦笑する。
「……気晴らしになればと思ったが、そう簡単に憂いは晴れないようだな」
「その……申し訳ありません。不器用で、切り替えが上手くできなくて」
ましろは厚意で誘ってくれた相手に気を遣わせてしまったことを恥じた。
うつむき加減になると、肩から流れた髪を大きな手がさらりと掬う。
「李様?」
「……無防備だな」
瞳を覗かれ、低く囁かれた言葉を疑問に思うよりも早く、とんと肩を押され、ソファに押し倒された。
やはり思った通り、このソファは寝心地がいい。
驚きのせいか呑気な感想を頭に思い浮かべてしまいながら、パチパチと目を瞬いていると、上から笑いが降った。
「こんなに簡単に誘いに乗ってくるなんて、期待されていたのかと自惚れてしまいそうだが、無自覚か?」
「え……」
どうやら李は、厚意ではなく好意でましろを誘ったようだ。
客の個人的な誘いに乗れば、こういう展開も有り得るということを、全くわかっていなかったわけではない。無論、ただの厚意ならばそちらの方が良かったが、ましろもそこまで世間知らずではなかった。
「李様は、私のことを……望んで下さるのですか?」
「何の気もない相手に親切にするほど私が優しい男に見えるか?」
彼の本当の気持ちや本当の姿は知らないが、偽悪的な言葉とは裏腹に、何度か話しただけでも優しい気遣いの出来る人だとましろは感じていた。
例えそれが、己の気に入った人間にだけ向けられるものだとしても、向けられた人間からすれば真実だ。
李のことは嫌いではない。
こうして至近で会話をしていても、髪に触れられた時も、天王寺にされるような歓びがあるわけではないが、嫌悪感はなかった。
このまま身を委ねれば、一生ではなくても、望まれているうちはそれなりに丁重に扱ってもらえるだろうと思う。
彼が飽きたと言えば月華の元に帰ればいいだけのこと。
今の苦しみから逃げ出して、いっときの安息を得るという選択は、とても簡単で楽なことだ。
あの時……羽柴の家を出たときのように。
けれど……。
「ごめんなさい。……今はそういう気持ちにはなれないです」
やはりましろは、天王寺でなくては駄目だ。
再会したことで、それがはっきりとわかった。
子供の頃とは違い、周りにはましろを大切にしてくれる人がたくさんいる。
月華はいつも先回りして、危なくないように筋道をつけ、ましろの望む結果になるよう導いてくれる。
月華と一緒にいると、気持ちは楽だ。苦しいことはなくて、毎日笑って過ごせる。
天王寺は……そういう分かりやすい優しさの示し方はしない。
いつもそっぽを向いているけれど、知らない道にましろがためらうとそっと背を押してくれる、そういう優しさだ。
どちらが正しいということではない。
ただ、そんな天王寺のそばにいて、ましろもまた、そういうものを誰かに与えられる人間になりたいと思う。
天王寺がましろ以外の人を好きなのだとしても、そのせいで辛い思いをすることになっても、認めてもらいたいのもそばにいたいのも彼一人だ。
そのことを改めて自覚し、断りの言葉を口にすると、李はすっと瞳を眇めた。
「ならば、ここで無理矢理私のものにしてしまうか」
冷たい声音。
逃げられぬよう肩を押さえつけられて、ましろは覆い被さる男を見上げた。
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