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第59話

 ましろの長い髪を掬うように、冷たい海風が乾いた音を立てて吹き抜ける。  それはキラキラと煌めくイルミネーションに彩られた美しい横浜の夜景とは真逆のよそよそしさで、かすめた耳や頬はキンと痛むほどだったが、今はその感覚すらも遠かった。 「ちー様……」  立ち尽くし、呆然とその名を呼ぶ。  どうして天王寺がここにいるのだろう?  この辺りは有名な観光地でありデートスポットだ。  だが、天王寺は薄手のカットソーにデニム、その上にダウンジャケットを羽織っただけ、という軽装で、レジャーに来たというふうにも見えない。  疑問符で頭をいっぱいにしていると、天王寺は険しい表情のまま、無言でましろの全身に視線を走らせる。 「あの……?」 「平気か?」 「え?」 「彼から、お前が……その、迎えが必要になるかもしれないと連絡があった」  ………………………。  何故、そんな偽情報を天王寺に?  ぱっと天王寺が示した『彼』、すなわち八重崎を見ると、さっと視線を逸らされた。 「……木凪……?」 「……さっきは……そんな風に感じたような気がしなくもなくもなくなくなくなくなくなくなかったけど……寝惚けた人が見間違えたかも……?」  白々しすぎる。  こうしてましろと天王寺が顔を合わせることで既に八重崎の目的は達成されており、隠す必要もないのかもしれないが、それにしても誤魔化し方が酷い。  思わず呆れた視線を向けたが、当然怯むような相手ではない。 「八重子……ガラスのホワイトブリムを忘れてきたから……十二時の鐘が鳴る前に……行かなくちゃ……」 「あっ……」  謎の言葉を残し、八重崎は今までに見たことのないような俊敏さで、スカートを翻し駆けていった。  これだけ多くの人を翻弄しておきながら、全て投げっぱなしで逃走とは。  あまりの自由さに、呆然と見送ることしかできない。 「……追いかけなくていいのか?」 「はい……木凪はしっかりしていますから」  偽情報でここまで来させられたというのに、彼の身を案じてくれる天王寺はいい人だ。  美少女にしか見えないあの格好のまま、深夜の繁華街をうろついたりするのは危険かもしれないが、八重崎が放っておいて欲しくとも、すぐに身内に捕獲されてしまうだろう。 「……なら、とりあえずお前を送っていく」 「あっ、………はい。お手数をおかけします」  ここから自宅まで、そう大した距離はない。  しかし、「大丈夫だから帰ってくれていい」というのも違う気がして、ましろは素直に頷くと、駐車場に向かって踵を返した天王寺に続いた。 「今日は、木凪がご迷惑をおかけして……本当に申し訳ありません」  車が走り出すと、ましろは改めて頭を下げた。  彼を呼んだのは八重崎からのましろへの厚意だったのかもしれないが、何も知らない天王寺にしてみれば、休日の夜にわざわざ横浜まで車を出すなんて、迷惑以外の何物でもなかっただろう。  ハンドルを握る天王寺は謝罪については何も言わず、チラリと一瞬ましろへ視線を投げて、別のことを聞いてきた。 「………クルーズは楽しかったのか?」  八重崎から、今夜のましろの外出の詳細について聞かされているのだろうか。 「そう……ですね。今まであまり船に乗る機会というのはなくて、新鮮でした」  天王寺の誘いを断って出かけたことで楽しかったというのも少々気まずいが、正直に答える方がいいだろうと思い、素直な感想を述べたのに、それきり天王寺が黙ってしまったので、ましろはどうしていいかわからず、窓の外を見る。  深夜とはいえまだ日付が変わらない時間ということもあってか、街には活気があり、車も多い。  賑やかな場所に近づくにつれ、渋滞して車が止まることが増えてきた。  少しでも天王寺との時間が長く続くことは嬉しかったはずなのに、今は苦しい。  沈黙が重くて、何か喋らなくてはと焦り始めると、天王寺が先に口を開いた。 「お前は……今日誘ってきた相手のことを好きだとか、付き合いたいとか、そんなふうに思っているのか?」  硬い声音での唐突な質問に、船内での李とのことを思い出して、後ろめたいことはないはずなのにヒヤリとする。 「お客様ですし、そんなふうに思ったことは、一度も」 「そういう気がないなら、個人的な誘いには乗らない方がいい」 「…………」  被せるように言われて、思わず黙った。  天王寺の言っていることは正しい。  実際に李からは自分の物になれと迫られたわけで、ましろの読みが外れ、彼が想像していたよりも愚かだったら、不幸な結末になってしまっただろう。  だから天王寺の忠告は正しく、気をつけますと一言言えばいいだけなのに、言葉が出ない。  ましろは、腹の底から沸き上がってくるような、もやもやとした気持ちをもて余した。  天王寺がましろの恋人で、嫉妬心から出た言葉なら、嬉しかったし反省もしただろう。  だが、天王寺は友人として忠告してくれているのだ。  ましろが頼りないから。  それがとても悲しくて、……情けなくて、唇を噛んだ。 「わ、……私は」  震える唇から、音が出る。  赤信号で車が止まり、天王寺がこちらを見た。  ましろは今の表情を見られたくなくて、下を向く。  何も言うなという理性の警告を、胸のもやもやが凌駕して。 「私はもう、子供ではありません。自分の行動の責任は、自分で取れます。だから、私がどこで何をしようと、自由ではないですか?」 「…………お前」  天王寺の驚いた声に、口元を押さえた。  こんなことを言うつもりはなかったのに。  咄嗟に、冗談だと笑ってなかったことにするなどという器用な真似ができるわけもなく、ましろは混乱してシートベルトを外すと、ドアに手をかけた。 「こ、ここからなら歩いてすぐなので、ここで失礼します。送っていただいて、ありがとうございました」 「ましろ!?」  ドアを開け、車から飛び出すと、ちょうど信号が青になる。  なかなか発車しない天王寺の車へのクラクションを背に、ましろはその場を走り去った。

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