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222小噺『変幻自在の猫、純白はじめてのおつかい』

「本当に一人で大丈夫か?」 「はい、任せてください」  玄関先で心配そうな顔をする天王寺に、ましろは力強く頷き返した。  本日、ましろには一人でシロを病院に連れて行くという重大なミッションがある。  もちろん、シロは健康だ。病気の診察ではなく、予防接種を受けに行くのである。  この程度のことで心配しすぎだと笑い飛ばせればよかったが、遊んであげていたつもりが、逆にシロが遊んでくれているつもりだったのでは……なんて言われてしまう己を顧みれば、天王寺の不安はもっともだ。  正直ましろも、不安がないわけではなかった。  だが、天王寺が仕事に行っている間一人で家にいることが多いましろは、今後、急病や災害時など、シロを連れて速やかに移動、という対応ができなくてはいけない。  その予行練習に、緊急性の低い予防接種はぴったりだろう。  幸い、動物病院は徒歩圏内にある。買い物などの際にも近くを通りかかるので、方向音痴なましろ一人でも確実に辿り着ける場所だ。  シロをキャリーに入れることさえできれば、後はなんとでもなる。……はず。 「大丈夫、シロを無事に病院に連れて行ってみせます」  天王寺を心配させまいと、ましろは言葉を重ねた。  さすがに心配しすぎだと思ったのか、天王寺は表情を和らげると、「何か困るようなことがあったら、すぐに連絡してくれ」と念を押して、会社に出かけて行った。  やはり……とても不安にさせてしまっているようだ。  今後は安心して任せてもらえるよう、今日は無難にやり遂げなくては。  洗濯物を干し終えたましろは、病院の予約時間が近づいてきていたので、シロを探した。  しかしつい先程までその辺にいたはずが、リビングのキャットタワーやソファ、日のあたる二階の窓際、お気に入りの段ボールの中、いつもいるような場所を全て見て回っても、その姿はない。 「シロ……?」  隠れる場所など、そうたくさんないはずなのに、一体どこに行ってしまったのか。  この時、ましろはまだ知らなかった。  病院に連れていかれる気配をいとも容易く察知できる猫の特殊能力を……。  生き物の気配が感じられず、見慣れた家が広大な迷宮に見えてくる。  掛け時計の針の音が焦燥を煽って、ましろは我知らずごくりと喉を鳴らした。 「(だ、大丈夫、まだ時間はあります……)」  食いしん坊なシロは、フードを用意すれば必ずやってくるはずだ。  何日も絶食していたかのような勢いで食べる、大好きなおやつ。  それを開ければシロは絶対に出てくる。  棚から出した小袋の中身を皿に移すと、つとめて優しい声でシロを呼んだ。 「シロ、おやつですよ」  室内は変わらず静まり返っている。  皿を持ってありとあらゆる場所を探すと、寝室のベッドの下、しかも奥の奥に蹲っているのを発見した。  らんらんと光る瞳で、じぃっとこちらを見ている。 「し、シロ……、おやつを食べませんか?」  声をかけても、警戒しているらしいシロは微動だにしない。  しばらく見合っていたが、一向に変わらぬ状況に困り果て、ましろはその場に突っ伏した。  窓から差し込んだ光がそこに降り注ぎ、意図せず聖職者が祈りを捧げているような神聖さを演出したが、そんな光景も無慈悲な猫神様の心を動かすことはできなかった。  五体投地のまま、ベッドの下にいるシロを捕獲するシミュレーションをしてみる。  手は届かないので、ベッドを手前に動かすとしよう。  動かした瞬間、シロは逃げるだろう。  ドアを閉めておけば他に行き場はないかもしれないけれど、ベッドの下を逃げ回られたら、動かす意味もない。最終的には、ベッドをひっくり返すようだろうか……。  隠れられる場所が少ない部屋にシロがいたときにドアを閉めておけばよかった、と後悔しても後の祭りだ。  普段開けっぱなしにしているドアが閉まっていたら不安になるだろうと思って、早めに閉じ込めなかったことが裏目に出た。  警戒させないように、キャリーだってまだ普段の場所に置いたままにしてあるのに、どうしてわかったのだろう。  すぐそこにいるシロが果てしなく遠い。  他にできることもなくベッドをずらすと、想像通りベッドと共に移動するシロにがっくり肩を落とし、伸ばした手をがぶりと噛まれ、それでもめげずにドタバタとシロを追った。 「つ、捕まえた……!」  シロもいい加減面倒になってきたのか、のそりと姿を現したところを、ベッドの上からはしっと掴んだ。  動作の遅いましろには奇跡に等しい。  これを逃がしたら次はないと、暴れる体をなんとか抱えたままキャリーのあるリビングへ向かう。  移動に使用しているキャリーは、天井の開くタイプだ。  天王寺がどんな風にしていたか思い出しながら、同じように上部から入れようとしたが、シロは四本の足を入り口の縁に突っ張って拒否した。 「シロ、あの、な、中に……っ、入って……っ」  こうして突っ張られると、そもそもシロを逃げないように両手を使ってしまっているましろには、突っ張った手足をどけることができない。  必死の思いでシロを片手に持ち替え、空いた手でそれぞれの足を縁からどかそうとするのだが、相手の足は四本だ。どけたそばから別の足がまた突っ張る。  時間は迫っているし、こんな攻防はシロにもストレスだろうと思えば、焦って殊更に上手くいかない。  天王寺は、難なくシロをキャリーに入れているように見えたのに。  ……おかしい。  結果的に、シロをキャリーに入れることには成功した。  正直、何をどうやったのかは、よく覚えていない……。 「す、すみません、遅くなりました……!」  捕獲に時間はかかったが、何とか予約時間ぴったりくらいに、動物病院に駆け込んだ。  出掛けの死闘のせいで、髪はボサボサだ。ことを始める前に結んでおけばよかったと思う。  シロは道中ずっと、聞いたこともないような呪わしい声で怨嗟を撒き散らしていた。 「天王寺さん、どうぞ」  診察券を出して受付を済ますと、シロを宥める間もなくすぐに呼ばれる。  ぎりぎりすぎる到着で申し訳ないと思いながらも、『天王寺』と呼ばれたのがなんだかちょっとくすぐったかった。 「今日は予防接種ということでよかったですか」 「はい、よろしくお願いします」  若い獣医師に微笑み返しながら、シロをキャリーから出そうとしたが、岩のようになっていて、一向に取り出せない。  これは本当にシロなのだろうか。間違えて漬物石をもってきてしまったのではないか。  硬すぎる上、どういうわけかキャリーの底に張り付いたようになっていて剥がれない。 「シロ、す、すみません、今出しますから」 「お手伝いしますね」 「お、お手数おかけします……」  三人がかりで、シロを診察台の上に引き摺り出した。 「最近何か変わった様子はないですか?」 「とても元気で、食事も排泄もいつも通りです」 「じゃあ、お注射しますね」  観念したのか、しぶしぶ触診をさせていたシロだったが、注射器を見た途端、軟体動物へと変化した。  ぬるり。 「ちょっとじっとしててね」  するり。  日々たくさんの動物の相手をしている獣医師の手から、シロはぬるぬると逃げ続けた。  猫は液体……などと感心している場合ではない。  ましろと看護師でダムを作り、なんとか注射することができた。  診察室を出ると、ましろは会計を待つためにソファに座る。  帰宅するまでは気が抜けないが、ひとまず予約の時間に遅れず、無事に接種を完了することはできた。  キャリーの中の様子を確認すると、シロも疲れたのか、診察室に入るまでとは打って変わって大人しい。  無表情で、キャリーの隅に縮こまっている。 「シロ、よく頑張りましたね」  普段はこちらが恐縮してしまうくらい堂々としているシロが、小さくなっている様を見ていると、なんだか可哀想になってしまった。  捕まえるのが下手くそなましろに追いかけまわされたり、疲労や不安も大きいだろう。  帰ったら、いっぱい撫でて甘やかしてあげたい。  シロを連れて無事に家に戻れると、ましろは今度こそほっと安堵の息を吐き出した。  すぐにキャリーを開け、シロを解放する。 「シロ、今日は大変でしたね」  するりと出てきたその背を撫でようとした手は空を切った。  シロはましろを無視して二階に走っていってしまう。  そっとしておいた方がいいのかもしれないが、少し心配になってその後を追った。  シロは、先程大捕物を繰り広げた寝室にいた。  室内には、カリカリ、ガフガフ、と、何かを貪り食う音が響いている。  ああ、そうか。ましろがシロをベッドから誘い出すために持って行った、大好きなおやつの乗った皿だ。  シロは皿に顔を突っ込み、一心不乱にフードを貪っている。  勢いあまってガツンと顔が皿にぶつかる音が響いた。  すぐに空になった皿を名残惜しげに舐めると、シロはましろを一顧だにせず去っていく。  猫に感傷は存在しないようであった。 ***  おまけの出勤後 「お疲れ~って、ハク、なんかめっちゃ疲れた顔してない!? 大丈夫?」 「大丈夫ですが、今日はちょっと……疲れているかもしれないです……」 「無理せず帰った方がよくない? あっ、そうだ。猫の動画でも見る? ハクは動物好きだし」 「ミドリ……、oretubeなどの動画に出てくるお行儀のいい猫ちゃんたちは、幻想上の生物なのかも……きっとそうです、そうに違いありません」 「え? ちょ、ほんとにどうしたのハク!?」  全世界全宇宙の猫ちゃんの幸せをお祈りいたします。  猫との付き合いが分かり始めてきたところで来年に続く……かも?

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