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222小噺『純白と猫、熱き闘いの記録』
ふと気付けば、すっかり日が落ちて外が暗くなっている。
カーテンを閉めようとましろが窓に近づくと、足元で何かが動いた。
そっと屈んで見れば、体長十センチ程度の生き物がいる。
まだらの細かい鱗に覆われた背中、薄べったい胴体にモミジのような手のひら、色はカナヘビにも少し似ているが、しっぽは短く、胴体もずんぐりしているのでヤモリだろう。
明るい場所に集まる虫を食べるためか、たまに窓に張り付いているのを見かけるが、どこかの隙間から家の中に入ってきてしまったのだろうか。
ましろは植物だけではなく動物もなんでも好きで、もちろん昆虫や爬虫類も例外ではない。
「こんにちは、ヤモリさん。踏んでしまうといけないので、もっと壁際にいた方がいいですよ」
近くにしゃがんで声をかけても、ヤモリはじっとしている。
ぷっくりした手やくりくりした目がかわいいいのでもっと見ていたいが、ヤモリの方はましろがいるせいで怖くて動けないのかもしれない。
それに、このまま家の中にいても、ヤモリの食べられるものは少ないだろう。
捕まえて外に逃がしてやりたいが、こんなに素早い生き物をましろが捕獲することは、やってみるまでもなく不可能だとわかっている。
上手く窓の方に誘導できないかと思案していると、さっと近づいてくる不穏な影があった。
ハッとした時には既に遅く、丸くてふわふわで普段は心を和ませてくれる可愛い手が、目にも止まらぬ凶悪な猫パンチを繰り出す。
「あっ、シロ、だ、駄目……!」
間一髪。避けたヤモリを庇うようにましろも手を出すが、バシバシ、と猛攻は止まらず、ヤモリもまたましろよりも素早い動きで、遮るものの少ない危険な方へ逃げてしまう。
シロを抑えながらなんとか誘導しようとするのだが、当たり前だが思うような方向へと逃げてくれない。
「シロ、ヤモリさんは家を守ってくれるとも言われていて、害虫も食べてくれるいい爬虫類さんで…!」
猫に説得などしても無駄である。
しかし、必死すぎてそんな当たり前のことすら考えられなくなっている。
窓を大きく開けたほうが誘導しやすいけれど、シロが出ていってしまっては大変だ。
「ヤモリさん、早く逃げて…!」
祈るような気持ちでシロを捕まえていると、それが通じたのかヤモリが窓の桟の方へ行ってくれたので、薄く窓を開けて逃がすことが出来た。
ましろはシロを解放し、ほっと息を吐く。
シロは「解せぬ」とでも言いたげな表情で、窓をじっと見つめている。
「シロ…、ヤモリさんをいじめてはいけませんよ。あ、そうだ、そろそろご飯の時間ですね。ご飯を出しますから、それでヤモリさんのことは忘れてください」
キッチンの戸棚からドライフードの袋を出しても、普段は瞬間移動でもしたのかと思うほど瞬時にカウンターの上に上がってきて、フードを皿に出すのが困難なくらい詰め寄ってくるシロが、今日はやってこないことを不思議に思った。
まだヤモリを気にしているのだろうか?
確認すると、シロは無心に壁の一点を見つめている。
「シロ…?あっ」
シロの視線の先には、動く小さなものが。
家具によく馴染むカラーリング。大豆のような胴体に、節のある八本の細い足。
家の中では定番の、クモである。
今にも惨劇が起きそうな予感に、ましろは慌てて駆け寄った。
「だ、駄目ですよ、クモさんもヤモリさんと同じ害虫を食べてくれる益虫で…あっ、く、クモさん逃げて……!」
説得も虚しく、シロがシャッと腕を伸ばす。
慌ててシロの脇を掴み、その場から引き剥がそうとしていると、そこにちょうど天王寺が帰ってきた。
必死にシロを抱えるましろを見て、何事かと駆け寄ってくる。
「ましろ、どうした?」
「ち、ちー様、助けてください…!私がシロを押さえているうちに、クモさんを……!」
「……………。なんとなく、事態は把握した」
天王寺は興奮するシロをましろから取り上げると、素早くリビングから締め出してしまった。
命拾いしたクモは、のんびりした足取りでチェストの影に隠れる。
瞬く間に事態が鎮静化してぽかんとするましろのもとに天王寺が戻ってきた。
「こういう時は、猫の方を別の部屋に移すといいぞ」
確かに、ヤモリやクモを思うように誘導するのは難しい。
考えてみれば当たり前の話で、ましろはがっくりと項垂れる。
「うう…無駄にクモさんたちを脅威に晒してしまいました…」
クモの前にもヤモリを逃がしたことを話すと、天王寺は大変だったなと気遣ってくれた。
「ヤモリもクモもお前に感謝してる…んじゃないか、恐らく」
優しいフォローに、そうだったらいいですねとましろも微笑む。
気持ちはとても嬉しいのだが、なんだかちょっと優しさが目に沁みた。
クモが安全な場所に移動したため、シロを招き入れると、リビングに入るなり何故かキッチンめがけて走っていく。
てっきりクモのいた場所を見に行くのかと思っていたが、天王寺が帰ってきたから、餌が欲しくなったのか。
そう考えかけたましろは、シロの目的に思い至ってはっとした。
「し、シロ、待っ……!」
シロは迷いなくカウンターの上に飛び乗り、皿に出そうと思って開けっ放しになっていたフードの袋に顔を突っ込み、倒してしまった。
カウンターの上に、ざらっとフードが飛び出し、散らばったものを無心に食べ始める。
「そ、そんな…」
「シロ、お前という奴は…」
シロは再び天王寺に連行されていった。
ましろは散らばったドライフードを集めながら、がっくり肩を落とす。
「シロ……手強すぎます……」
猫との暮らしとは、概ね寝ている猫を眺め、時間になったら餌をあげて、ブラッシングなどの手入れをして、時には遊んであげたり…という穏やかなものだと思っていた。
まさかこんな…猛獣使いのような日々だとは…。
戻ってきた天王寺が、いくつか床にも落ちてしまっていたフードを拾ってくれる。
天王寺は猫と暮らしていてもスマートだ。猫のことを知り尽くしているように見える。
「ちー様はすごいです。シロマスターです」
「そんなことはないが…、シロが面倒をかけるな」
「面倒なんてそんな…!私がもっとシロを理解できれば、きっと解決することなんです」
上手くいかないのは、ましろがまだまだシロについて理解できていないからだ。
理解が深まれば、当初思い描いていたような猫との生活が待っているはず。
「理解するとかそういう問題じゃ…いや、そうだな。応援してるぞ」
「はい、頑張ります…!」
励ましに輝く笑顔で応えるましろは知らなかった。
シロにとって、ましろは世話の焼ける新入りであり、仕方がないので狩りの方法などを教えようとしてくれていることを…。
すれ違ったまま来年に続く…かもしれない。
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