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第2話

「ねえあんた、ほどほどにしときなさいよ、そういうの」  銘酒屋の二階から降ってきた声にも構わずに、しおんはつい先刻ぶつかった男の懐から抜いたものをあらためた。使い込まれた財布に嫌な予感がする。案の定金は入っておらず、舌打ちと共に投げ捨てた。  いつもならもう少し夜が更けてから動き出すのだ。その頃にはこの辺りは酔客と呼び込みの女で溢れる。白粉と饐えたようなにおい。とうに誰も上らなくなって巨大な墓標になり果てた十二階の影が落ち、その闇は奈落にでも繋がっているような気がする。  墓標の周りにはいつしか、地中からしみ出した情念が作り出したかのように薄暗い私娼窟がみっしりひしめいていた。ついた呼び名が十二階下。酒を扱うていで店に男を呼び込む銘酒屋は、天下の公娼街吉原に向かう途中の、懐具合の心許ない客を格安で掠め取って暮らす女たちの巣窟だ。  掠め取る、という意味ではこの女も自分もやっていることは同じなのに、訳知り声で窘められるのはむかつく。  いつもより早く動き出してしまったのは、体の節という節が痛んで眠っているのもつらかったからだ。たぶん、熱がある。本来なら宵のそぞろ歩きには最適な初夏、しおんは猛烈な寒気に襲われていた。このまま眠っていれば死んでしまえる。そうは思ったのだが、こみあげる吐き気と節々の痛みがそれを許さなかった。生きながらえたいわけではないが、じっとしているよりは気が紛れる。 「ねえ、ちょっと」  窓から女の姿が消えたかと思うと、しばらくして一階の引き戸が開いた。その頃には女は三人に増えていて、それぞれだらしなく着崩した着物の襟を合わせながら、なにかの包みを差し出してくる。 「ほら、キャラメルあげるわよ」 「シベリヤのほうがいいわよね」  そうやってふたりがまくし立てる間に、もうひとりがしおんの目深に被ったハンチングを奪おうとしてくる。しおんは無言のままそれを払いのけた。 「きゃ、ちょっと――」  女の手に握られていた橙色のキャラメルの箱が、薄汚れた路地に転がる。 「なによ、生意気ね!」  女たちはそう言い捨てると再び店の中へ引き返していった。  あいつら、いつもああやって俺の顔を見ようとしてくる。……なにか感づかれるようなことしたか。  この辺りにいるのも潮時なのか。そう考えてはみるが、次の行き場所にあてがあるわけもなかった。  やりたいことはない。  行きたい場所も、行ける場所も。  ましてや、帰る場所なんて、どこにも。  やっぱりねぐらに戻って大人しく死ぬのを待とうか。自分でもどの程度本気なのかよくわからないままふらりと歩き出すと、さっき女の手から払いのけたキャラメルの箱が足に当たった。拾い上げるとからからと音がして、拍子抜けするほど軽い。開けてみると、中に入っているのはたった一粒。  ――あいつ、こんな程度で。  恵んでやったと、自分より弱い者を見出して己を慰めるつもりだったのか。もちろん一箱五銭するキャラメルは、今のしおんの身の上では簡単に手に入るものではない。たまに掏摸がうまくいって、店主から胡乱げな顔をされながらもてっとりばやく腹をふくらますために買う大福は二銭だ。  めぐまれたキャラメルをすんなり口に入れる気にもならないが、投げ捨てることもできない。いらだちのあとから哀しみが暗く十二階の影のようにのしかかるようで、その場を動けずにいたとき、場違いなほど呑気に舌足らずな声がした。 「あー、しおんー」  みなしご仲間のユウだ。しおんはキャラメルの箱を放った。 「やる」 「え、いいの?」   しおんが頷くか頷かないかのうちに、ユウは包みを解いてキャラメルを口に放り込んだ。まるでそうしなければ誰かに盗られてしまう、とでもいうように。  ま、実際そうなんだけどさ。  この辺りにたむろする孤児は山ほどいる。使いっ走りをして駄賃としてわずかな食い物をもらったり、物乞いをしたり、しおんのようにケチな掏摸をしたりして、どうにかその日を生きている。  しおんは自分の親を知らない。  物心ついたときには宣教師がやっている孤児院にいた。路上よりはいくらかましなそこを飛び出したのは、他の孤児ともめたからだ。ユウも同じ孤児院から逃げてきて、顔を合わせればなんとなくお互い気にかける関係だった。 「じゃあ、おれ、行くね」  「行くって?」  小さくていかにも弱々しいユウは、この辺りをうろついては銘酒屋の女や客に小銭や食い物を恵んでもらうのを得意としていた。つまり仕事はこれからだというのに。  まさかキャラメルひとつで満足したわけでもないだろうに――不審に思っていると、ユウの幼い顔に得意げな笑みが浮かんだ。 「あのね、龍郷百貨店が、少年音楽隊の隊員を募集してるんだって」 「少年音楽隊……?」  百貨店の名前は聞いたことがある。日本橋にあるという、石造りの大きな店。元々は呉服屋だった店が明治の頃から洋品を扱うようになり「百貨店」とか「デパート」と名前を変えた。なんでもそこへ行けば一通りのものは揃うという。 「――って、なんだ?」  訊ねると、ユウは自分で切り出しておきながら首をひねった。 「楽器を弾いたり歌ったりする……? たぶん」 「たぶんって」  要領を得ないユウの言葉をなんとかつなぎ合わせて想像するに、ヂンタのようなものだろうか。楽器を奏で、耳目を引く口上を諳んじる。賑やかさの中に哀切を帯びた旋律は、サーカスや見世物小屋に不思議と合っていた。今こうしている間にも、六区のほうから風に乗って気まぐれに聞こえてくる。  それを少年たちにやらせて店の宣伝にしようというのだろう。百貨店の担当者から浅草の興行師に話があったそうだ。とにかく、歌える子供を集めろと。その選考会が今日行われているらしい。 「選ばれたら、寮に入って歌の練習をするだけで、毎日ご飯がもらえるんだって!」  ユウの顔は今まで見たことのないほど輝いていた。 「いや、でも、それは――歌える〈普通の〉子供を集めろってことだろ」  両親が揃っていて、小綺麗な服をまとい、呑気に歌を歌っていられる普通の。  募集をかけている大人たちの想定に、自分たち孤児は含まれてはいないはずだった。なんならこの十二階下一帯がそのものが、そんな大きな店を構えるお大尽には目に入っていない可能性がある。  人はみんなそうだ。自分に都合の悪い物、理解の及ばない物からは目をそらして、なかったことにする。 「無駄だろ。俺たちみたいなのがのこのこ出て行っても、追い返されるのが関の山だ」  思わずきつい口調になると、ユウは口を尖らせた。 「なんの山だか知らないけど、おれは行くから!」 「おい――」  言うが早いか、夕暮れの中を駆け出していってしまう。元々ユウは小さくてすばしこい上、こちらは熱がある身だ。重い体を無理矢理励まして後を追った。 「待てって!」  吐き気と同時にいら立ちが胃の底からこみあげる。  百貨店なんて、そんな奴らが俺たちみたいな孤児を相手にするわけがないだろう? なぜそれがわからない。  なぜそんな無駄な望みを持つ。なんにもしないでいるよりずっと傷つくことになるのに。   どうせ落胆した小さな肩をなだめすかすことになるのだ。だったら最初から引き止めておいたほうがいい。  十二階下から六区へ走り抜けると、わずかな距離だというのに道行く人波の気配も変わる。前者が後ろめたさを抱えながら訪れる場所なら、後者は大東京一の行楽地。映画館や芝居小屋が建ち並び、文化人も訪れる。  瓢箪池の水面には辺りのガス灯りが映り込んでうす青く漂っていた。そのほとりに煌めく映画館や寄席の並ぶ中へと、ユウの姿は吸い込まれていく。 「なんだおまえら――」 「すぐ出る!」  木戸に立つ男に叩きつけるように告げて中へ入った。夜の演目の前の空き時間を利用しているのか、客席に人は数人しかいないようだった。おそらくは百貨店の関係者。そして、〈普通の〉家の親たちだろう。 「なんで、なんでだめなの」  ユウの幼い声をたよりに暗がりを抜けて、舞台袖にたどり着いた。案の定劇場の人間に捕まって、押し問答している。 「歌える子供ならいいんでしょ? おれ、歌えるよ。ら~」 「うるさい! おい、誰だこんな小僧を中まで入れたのは」   興行師らしき小太りの男がユウを捕まえようと腕を振り上げているが、ユウは調子はずれの適当な歌を歌いながら狭い舞台袖を駆け回っている。待機していた少年たちは不愉快そうに顔をしかめる者、嘲るように口の端を歪める者、いろいろだ。同じ子供同士、という親しみはそのどこにもない。異形の穢らわしいものに触れている。そんな考えだけが透けて見える〈普通の〉子供。  ――くそ、ユウの奴。  しおんは不快さをぐっと噛み殺しながら、ハンチングを目深に被りなおした。 「行くぞ、ユ」 「おい、構うことはない、バケツに水だ。早くしろ」  「は? ――」  支配人は水をかけてユウを追い払おうとしているようだった。まるで犬猫のように。  嘘だろ。  そう思ったときにはもう、とっさに駆け出していた。 「ひゃ、」  ユウが声を上げたのは、その勢いに驚いたからだ。水の大半はしおんがひっかぶっていた。      冷てえ、――  思う間もなく誰かの舌打ちが聞こえる。後ろに控えていた少年たちもとばっちりで濡れたのだ――と思ったとき、どん、とひかがみあたりを蹴りつけられた。     不意を突かれて盛大につんのめる。転がり出た先でしたたかに体を打った。 「くそ……」  吐き捨てて起き上がろうとしたそのとき、光に射貫かれた。  劇場の明かりはそれまで薄暗い道を駆けてきた目に眩しすぎる。突然右も左も上下もわからない、真っ白な荒野に放り出されたような心許なさにいら立ちは増した。外套なんて上等なものは持っていない。孤児院時代からずっと着ているシャツがびしょ濡れになり、素肌に張り付くのも不快だ。  鬱陶しい――  水の滴る前髪をかき上げて、我に返った。  帽子がない。  いつも人前で絶対に脱がないようにしているそれが。 「……っ」  たぶん、よく見えもしない辺りをとっさに見回した自分は、ひどくみっともない顔をしていたに違いない。  それを裏付けるように客席がざわめいている。  ――やだ、なに、あの子。  ――へえ、なんだいあの髪の色。とうもろこしの髭みたいな。  ――ん? 目の色も……  折り重なる囁きだけで、首を絞められたように息が詰まる。声の方向を睨みつけてやりたいのに、まだ目が慣れない。しおんのブルーグレイの瞳は、そもそも光に弱かった。 「も~しわけありません、龍郷様。今! すぐ! 片づけさせますので!!」  たっぷりと砂糖をまぶしたような声は、支配人だろう。ユウを追い払おうとしていたのと同じ人間とは思えないそれだ。  舞台がどかどかという無遠慮な足音で揺れ、誰かがしおんをつまみ出そうと近づいてくるのがわかった。今となってはこのいたたまれない空間から連れ出してくれることに有り難さすら感じる。乱暴に扱われるのは不愉快だが、ここから下がったらすぐ逃げ出せば――  不意に、そんな気持ちに待ったをかけるように声がした。客席側からだ。 「歌わないのか?」   

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