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第3話
歌う?
ああ、そうだ、ここは音楽隊の入隊希望者を募る場所だった。うろたえる劇場の男たちとは違う落ちついた声音は、しおんにもつかの間冷静な思考を取り戻させた。
「いや、あの子供は」
誰かが声の主を諫めている。
「大変申し訳ありません。すぐにつまみ出しますので」
「俺はそいつに訊いてるんだ。――歌わないのか?」
目はまだ光に灼かれたままで、声の主の姿は見えなかった。でもわかる。そいつが客席で足を組み、こちらを面白がって見ているのが。
人になにかを要求することに慣れた声音だ。自分のような子供に大人がそんな口のきき方をするのはよくあることだった。
――でも、
違和感を覚えて、しおんはまだ見えない目をすがめた。今まで散々受けてきた、そんな扱いとも少し違うこの感じ。
「なんでもいいぞ。とにかく声を出してみろ」
男の声がそう重なって、しおんの中で違和感の正体がやっとはっきりと形を結んだ。ただ頭から要求されているのではない。命令されているのではない。
試されている。挑まれている。
目をそらされることに慣れたこの容姿を、まっすぐに見つめてくる奴がいる。
いつもならなんでもさらりとかわして逃げたはずだった。
だって、この世はしおんにはどうにもならないことばかりでできている。この目と髪の色、どこの誰かもわからない生まれ。帰る場所もない境遇。それら自分で変えることのできないものたちは、しおんの上で常にはねのけることのできない十二階の影のように闇を落としている。
どうにもできないことに立ち向かうなんて、無駄だ。もっと深く傷つくだけだ。
でも今は、どういうわけかこの挑発から逃げたくなかった。
――この野郎。
しおんは水の滴る頭を振った。伸び放題の髪の先から水滴が飛び散り、つまみ出そうと寄ってきた劇場の人間が飛びずさる。がんがんと耳の近くで一斗缶でも殴られているような酷い頭痛と目眩がしたが、しおんは濡れそぼって顔に落ちかかる髪を乱暴にかき上げると、客席にいるのであろう声の主をその姿がはっきりと見えないままきつく睨み返した。
すう、と大きく息を吸う。
歌。歌――
頭の中を必死で引っかき回して、孤児院で毎日歌わされた曲を思い出した。嫌な思い出しかないのに癪に障るが、歌などそれしか知らないのだから仕方ない。
「ア――」
Amazinhg grace,how sweet the sound
That saved a wreck like me
I once was lost but now I'm found
Was blind but now I see
ごく短い旋律を歌い終えたとき、劇場は夜の水面のように静まりかえっていた。
この歌は、賛美歌とかいうらしい。
毎日歌わされてはいたが口まねで覚えさせられただけだから、意味までは知らない。きっと沢山の子供たちが好き勝手に喋るから、いっとき気を静めるのに使っていたのだろう。
元は奴隷商人だった人間が悔い改めて作った曲だと聞かされた気はする。そのときしおんは思ったものだ。のんきに歌なんか作って、死んだ奴隷はどっちにしろ戻らない。
つまりこれも無駄だ。無駄な曲だ。
静まりかえっているのは、そんな胸くそ悪い曲だからだろうか。この場に相応しくなかっただろうか?
――知るか。なんでもいいから声を出せと言ったのはそっちだ。
だが、やがてその静寂を破ったのもまた、あの声だった。
「そいつをもらおう」
そいつだと? 雑な扱いにむかっとする。どういうわけかそれまで大人しくしていた興行師も、はッと我に返るや否や戸惑った様子だ。
「いえ、龍郷様、こいつは――」
興行師にしてみれば、自分が推挙する者を取らせたいに決まっている。だいたい、俺だってユウを追ってきただけで、成り行きで歌っただけだ。
そう、成り行き。
なんで俺、歌なんか歌っちゃってんの。「できるかばーか」と罵って、飛び出すことだってできたはずなのに。目立つことは避けて来たのに、たとえ短い旋律を歌う間だだったとしても、髪も瞳も隠さない姿を人前にさらしてしまった。
ユウじゃあるまいし。あいつは幼さからか少し危機感が足りなくて、いつでも鼻歌を歌っては「うるせえ!」と怒鳴りつけられたりしていた。
――そうだ、ユウ。あいつを連れてさっさとここを出なければ。
帰る、なんていう言葉は使いたくなかった。強いて言うなら戻るになるのか。それも根城にしている橋の下に。
やりたいことはない。
行きたい場所も、行ける場所も。
ましてや、帰る場所なんて、どこにも。
そうは言っても、ここが自分たちのいるべき場所でないことは確かだ。
さてどうする――考えている間にようやく目が慣れてきて、客席の様子が像を結び始めた。
その真ん中、赤い天鵞絨張りの椅子の一つに腰掛けた男がこちらをまっすぐ見つめている。
深く腰掛けて組んだ膝が見えている。観客をめいっぱい入れるために前の座席との間隔が狭いせいもあるが、男の足が長いからだろう。隣りに腰掛けた、これまた身なりのいい男が支配人との間に入ってなにか耳打ちしているようだ。
だが男は煩わしげに長い足を解くと、両の手指を絡ませて、その上に顎を乗せた。
そのとき初めてしおんは男と目が合った。
距離があってもわかる。自分とは正反対の黒い髪。黒い瞳は夜の水面のようだった。なにか得体の知れないものがいるかもしれないと畏れるのに、どうしてか一度は覗かずにはいられない、ような。
その薄い唇が紡ぐ。声は支配人に向けたものだったのに、そちらをちらりと見ようともせず、まっすぐにしおんを見据えて。
「聞こえなかったのか? そいつを、もらおう」
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