4 / 30
第4話
しまった。寝そべった。
うつらうつらと眠りが浅瀬に浮かび上がったとき、しおんが最初に考えたのはそれだった。地面に直接寝ると体温を奪われすぎるから、いつもどこかに背中を預けて眠ることにしている。だから。
しまったと思ったあとに気がついた。心なしか地面がいつもより柔らかい。
もしかして俺、死んだのか。
ずっとそれを望んでいたというのに、いざそのときを迎えてみるとなんともあっけないというのがしおん感想だった。
なんかだかふわふわ浮いているみたいだ。
なんだ。死ぬほうが生きてるよりよっぽどいいな。
ぐっすり眠ってる間にあの世とやらにきてしまったのなら、悪くはない最後だ。孤児院でくり返された天国と、浅草寺の坊主がいう極楽や地獄、自分はその中のどこに行くんだろう。 そこには俺みたいなのにも居場所があるんだろうか。
ふわふわと心地良い浮遊感に身を任せて再び意識を手放そうとしたとき、誰かの気配がした。ユウだろうか。寒がりなユウは冬になると避けても避けてもくっついてくることが多かった。その甘っちょろさで今日まで生きているのが不思議なくらいだ。
鬱陶しいと思いながら、しおんはその体を抱き寄せた。どうせあと少しで死ぬなら、そのわずかな間だ体温をわけてやっても罰は当たらないかと思ったのだ。
ユウは身じろいだようだったが、構わずにぽんぽんと頭を撫でてやる。自分はこんなこと、誰にもされたことがないけど、と思いながら。
「どういうつもりなんですか、社長」
誰かの話し声であの世から呼び戻された。というか、あの世に着いたと思ったさっきの目覚めはまだ眠りの中だったらしい。
――なんだ、俺、生きてる。
安堵より落胆の気持ちが大きい。最後の眠りは温かく心地が良かったから、あのまま魂を運ばれてしまっても構わなかったのに。
あの世でないなら、ここはいったいどこだ。
しおんは注意深く辺りを見回した。
天井が高い。高めの腰壁の上には薄い青色に銀鼠でなにか植物のような文様が刷り出されている。腰壁そのものも、孤児院の簡素なものと違って上下に植物の彫刻が入っていた。それがぐるりと張られているのだから、職人に払う手間賃は大変なものだろう。カーテンも壁紙と同じような色合いで、外から透ける光が、しっとりとした生地をうす青にも銀ねずにも感じさせていた。
光の柔らかさからいって朝だろうか。となると自分は一晩眠りこけていたことになる。
壁の一画には暖炉が埋め込まれていた。大理石をさらに彫刻で取り囲んで、上部には大きな鏡が取り付けられている。部屋が快適に温かいのはそこで火を焚いているからだろうと思ったが、炎も見えなければ薪のはぜる音もしない。よく見るとストーブのようなものが置かれていた。部屋の意匠に合った装飾が施された小造りの本体から、配管がどこかに繋がっているようだ。
ガスストーブ……?
そういうものがあると噂には聞いたことがあったが、この目で見るのは初めてだ。いったいどんな仕組みなのか、部屋の中は春先の晴れた日のように温められている。
ふかふかしていると思ったのは雲ではなく寝台で、体を支配していた痛みも、鉛のような重苦しさもいつの間にか消えていた。着ているものもいつの間にか足首まで丈のある寝間着に着替えさせられている。今頃気づいたのは、まるでなにも着ていないかのように軽くて素肌に馴染むからだ。
今まで寝台といえば孤児院の固いものしか知らなかったしおんには、文字通り雲泥の差だった。眠りから覚めてみれば、その柔らかさは逆に落ち着かない。
取り敢えず、状況を把握しよう。
獣のように伏せたまま、しおんは耳をそばだたせた。声は扉で繋がった隣の部屋から聞こえている。書斎だろうか。話しているのは昨夜劇場で見た男たちのようだ。
あの、射貫くようにまっすぐこちらを見据えていた黒い瞳をしおんは思い出した。
「同じような背格好の、楽器も出来る子で揃えるという話でしたよね?」
「当初の予定では、な。あれを一目見たとき、もっと面白い売り出し方を思いついた」
「面白いって……」
ため息は昨夜彼の横でなにごとか耳打ちしていたほうの男だろう。その様子から、黒い瞳の男――龍郷が、いつもこうして彼を困らせているのが想像できた。
「それにしたって、いきなり邸にまで連れてくるなんて」
「身元がわからないからな。逃がしたくなかった。――ただの音楽隊ならよそもやってる。先手を打たないと」
提案ではない。「もう決まり切ったことにおまえはなにを言ってるんだ?」という響き。しおんは相手が何者かもわからないまま龍郷の話し相手に同情する。と同時に、昨夜の眼差しを思い出した。
『どうした。歌わないのか』
あれも提案や質問ではなかった。
歌うだろう? 歌えるだろう?
言外ににおわせる、なんて生やさしいものではない。それ以外の選択肢がおまえにあるのか? とでも言いたげな。
その一方的な態度に反発を覚えながら従ってしまったのは、熱のせいだろうか。すっかり体の痛みもひいた今あらためて考えてみるが、よくはわからなかった。
今龍郷と話している相手も、結局は気圧されたように諦めのため息をつく。
「……まあ、おまえがそう言うなら仕方ない」
さっきは社長って呼んでたのに。
思えばふたりは年格好が近いようだった。仕事は関係なしに古くからの知り合いなのかもしれない。
「午後からは予定通りで?」
「二時間ずつずらしてくれ」
「またそんな簡単に」
「おまえならできるだろう? 野宮」
命じるときと同じくらいに「なにを言っているんだ?」という響きで言われ、男が言葉を失うのがわかった。続いた今度のため息には、さっきとは別の諦めが含まれている。
「わかりましたよ。では、後ほど、寮で」
野宮と呼ばれた男は、再び主人と仕える者という距離感の言葉に戻ると、部屋を出て行った。
見聞きした情報を繋ぎ合わせてみるに、ここは昨夜出会ったあの男、龍郷の邸なのだろう。百貨店の社長なんてものは、あの興行師と同じ、でっぷりと太ったおやじだとばかり思っていたが、龍郷はまだ二十代後半、三十も手前のように見えた。龍郷百貨店の前身となった店自体は江戸の頃からあるはずだから、龍郷は先祖が作った財産をただ生まれ落ちただけで受け継いだ、幸福なぼんぼんということになる。とはいえ百貨店は今や龍郷に止まらず、白木屋、大丸と林立しているから、ここは宣伝のため結成した音楽隊に毛色の変わった自分を入れて、よそより目立とうという腹なのだろう。
――見世物かよ。
この髪と目の色のせいで捨てられた。孤児院でも他の子供に蔑まれた。同じ親なし子だというのに、大多数と違う特徴を持っているというだけで奴らは俺を自分たちより格下扱いにしてもいいのだと判断する。
そんな理不尽にうんざりして街に逃げ出してからだって、一目で覚えられてしまうこの容姿がどんなに邪魔だったか。隠したら隠したで、あの銘酒屋の女たちのように鬱陶しくからんでくる。
しおんは自分のこの容姿にも、それを理由に自分を蔑む連中にも――要するにこの世のすべてにすでに倦いていた。十代半ばにして。
それを、金儲けのために晒し者になれって?
まだ心地良い眠りの余韻のなかにあった体が、かっと熱を帯びる。冗談じゃない。こんなとこ、一刻も早く逃げ出すに限る。しおんはがばっと布団をはぎ(それは拍子抜けするほど軽かった)、勢いよく起き上がった。
でも、どこへ行く?
ここがどこかさえわからないのに? うまいこと逃げられたとして、また十二階下に戻るのか――?
その一瞬の逡巡が失敗の元だった。
書斎らしき隣室のドアが開き、龍郷がこちらの部屋に入ってくる。あとは上着を羽織ればすぐにでも外に出られそうなシャツにベスト姿。それも遠目で見ていいものだとわかる生地だった。目利きなどできるわけもないが、自然と目にそう訴えてくるのだ。金のかかっているものにはそういう力があると、しおんは初めて知った。
龍郷は起き上がっているしおんの姿に気がつくと、たいして驚いた様子もなく口を開いた。
「目が覚めたか。あのまま死ぬかと思ったが」
「……そのほうが百倍ましだったけどな。どけよ、俺は帰る」
「帰るって、どこに?」
いら立ちに任せて思わずぶつけた言葉じりを思いがけず愉快そうにくみ上げられて、さらに怒りが増した。
「……っ!」
ここがふかふかの寝台の上だということをすっかり忘れていた。寝間着がずるずると長いのもよくない。詰め寄ろうとした足元をすくわれて、顔から床に落ちそうになる。
支えたのは龍郷だった。
「おっと。威勢がいいのはけっこうだが、気をつけろよ」
しおんの体を抱いたまま、龍郷はしおんの額に己の額をこつんとつける。
「熱は下がったようだな」
「――、は、なせ! 俺は見世物になんかならねえ!」
無様なところを見せてしまった気まずさも手伝って、しおんは龍郷をきつく睨み返した。
だが龍郷が怯む様子は微塵もない。
「そうだな。そのままじゃとてもじゃないが見られたもんじゃない」
龍郷は悪びれる様子もなくそう言うと、しおんの膝裏に手を入れて、軽々と抱き上げた。
「な……ッ!」
ともだちにシェアしよう!