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第8話
再び風呂に追いやられ、服を着る。わけもわからないまま急かされて乗り込んだのは、顔が映り込むほどぴかぴかに磨き上げられた自動車だった。
しおんたちの間では〈くるま〉といえばそれはだいたい人力車のことだ。まだまだ珍しい自動車を間近で見るだけでも驚きなのに、自分が乗るとなると、どうしても緊張する。それをこの男に悟られるのは癪に障る。なんでもないような顔をして乗り込んだ。
ぱりっとした制服に白手袋をはめた運転手がハンドルを握り、自動車は街へ出た。見たことのない速さで景色が後ろに流されていく。
ずっと、狭くて暗い路地裏から十二階を見上げて過ごしてきた。煉瓦造りの建物が並ぶ大通りは視界が開け過ぎていて、明るすぎて、かえってどこを見たらいいのかわからない。
「そこで停めてくれ」
不意に龍郷がそう命じる。運転手が無言で応じて停車した窓から外を覗くと、白い外壁に洋窓が並ぶ建物の前だった。窓の上には赤い庇が張り出している。
「なにをぼさっとしてる。おまえも来い」
いちいち命令口調が気に触る奴だ。だが、すぐに思い直してしおんは素直に車から降りた。
――このまま駆け出して路地裏にでも潜り込んじまえば、なまじ車な分追ってこられないだろ?
龍郷の背中をうかがいながら間合いを計る。ドアを開けるときが勝負だと思った。誰でもその瞬間は、店の内部へ注意が向く。
龍郷が真鍮のドアノブに手をかけたときを見計らい、踵を返そうとしたときだった。
――なんだ、これ。
嗅ぎ慣れない匂いが中から漂ってくる。
十二階の周りにも飯屋はあって、銘酒屋から漂う饐えたようなにおいと混ざってなんとも言えない湿度とともに漂っていたものだが、ここは違う。匂いにも明るいと暗いとがあるのなら、明らかに前者だ。
そんなことを考えている間に、女給がすぐ入り口まで出迎えにきてしまった。
「いらっしゃいませ。ああ、龍郷様」
龍郷はここの常連なのか、若い女給は華やかに微笑んだ。動きやすいようにか、袴の上に白いエプロンをつけている。髪をきっちりと結い上げてはおらず、前髪を大きく波打たせ、後ろは低い位置でゆったりまとめていた。最近流行の耳隠しというやつだ。
カフェー……とは違うのか。
近頃は銘酒屋だけでなく、そういう名で客を取る店もあると聞く。だがそういう店につきものの、昼でさえ感じられる影で影を煮染めたようなじんわりした闇の気配がここにはまったくなかった。通りに面して大きく取られた窓からは柔らかな日射しが射し込み、店内に並んだテーブルのクロスの白さを一層際立たせている。
気がつくと、女給がじっとこちらを見ていた。
しまった。
昨日から不測の事態の連続で、すっかり忘れていた。髪も目も無防備に晒したまま外にでてしまうなんて。それもこんな昼日中。
肺が砂でも詰め込まれたように、ざらっとする。これから浴びることになるだろう奇異な物を見るような眼差し、あるいは蔑むようなそれを覚悟したのに、女給はにっこりと微笑んだあと、龍郷の顔を見上げた。
「今日はずいぶん可愛らしいお供の方なんですね」
「野々宮にそう言っておこう」
「いやだ、そういう意味じゃありませんよ」
戸惑っている間に龍郷と女給は軽口を叩き合い、流されるまま中へと案内されてしまう。あまりにさらりと自然な流れでそうされたから気がつくのが遅れたが―
今、可愛いとか言われた、か?
そんなはずねえか。
確かめる間もないまま席に着く。席に着くなり龍郷は「今出来るものを順番に全部」と言い放った。
言われたほうも特に動じることなく「有り難うございます」と軽く膝を折るような仕草をしただけで店の奥へと戻る。
「説明するより全部喰わせたほうが早いだろうからな」
呆気に取られているのを悟られたのか、龍郷はからかうようにそう言った。なにか言い返そうと口を開きかけたとき、あの女給が皿を運んでくる。
「お待たせ致しました」
テーブルに置かれたのは、こんもりと皿に盛られた飯。
「これだけ……?」
もちろん、炊きたての白米だけでもしおんにはめったにお目にかかれないしろものだ。だが、龍郷のような金持ちがわざわざもったいつけて店で食するには、質素すぎるような気がした。
「さあ、どうかな」
龍郷はまるでしおんの反応がわかっていたかのように楽しげに言う。次いでテーブルの上に置かれたのは、奇妙な形の銀の器だった。中に入った汁はなんだかどろりとして、飯屋の入り口で売っている煮込みのようにも見える。だが、鼻腔をくすぐる匂いは、まったく別物だった。
「ライスカリーだ。この中のルゥをこうやって、ライスにかけて食べる」
龍郷は器に添えられた匙で汁―ルゥ、とか言ったか―をすくうと、艶良く炊かれた米の上で傾けた。瞬間、ぶわっと匂いが立ち上る。嗅ぎ慣れないそれに一瞬身構えたが、そのすぐあとに「うまそう」と正直な気持ちがわき上がってきた。なにより、常に空っぽすぎてもうどこからが空腹なのかもわからなくなっていた胃が、その存在を知らしめるようにぐうと唸る。
「……、」
たまらずかたわらのスプーンをとり、龍郷がルゥをかけた部分をすくい取った。鼻先でその香りを吸い込むと、未知のものを口に含む躊躇いは消え失せる。口に入れた瞬間は舌にぴりりと刺激を感じたが、すぐにそれを上回る旨味が襲ってきた。やわらかい米の甘みも、ルゥがあることで一層感じられる気がする。
二口、三口と立て続けに口に運び、四口めは、自分でルゥをかけた。またたく早さで白米が半分以上なくなったところで、女給が再びやってくる。
「コートレットとクロケットでございます。それからこちらはシェフの遊び心で海老を同様に揚げてみたものなんですけど、龍郷さまにお試しいただけたらと思って」
「コートレットは豚肉にしたのか?」
「はい。そのほうがうちのお客様には馴染みやすいかと思って」
龍郷は運ばれてきた薄い草履のようなものにナイフを入れた。天ぷらよりも濃いきつね色の衣に覆われたそれを口に入れた瞬間、さく、と心地良い音がする。
「うん。羊や牛肉よりこっちのほうが日本人にはいいだろう。英吉利で食べたものよりうまいよ」
「ありがとうございます! どうぞごゆっくり」
「海老をこんなふうにするのはいい考えだな。いずれはうちの食堂部でも……」
龍郷は揚げられた海老を前になにやらぶつぶつと呟いている。そうするのが癖なのか、精悍な顎に指を沿えて思案している顔は、さっきまで自分を眺めてにやにやしていた顔とはまるで別物だ。
こいつ、綺麗な顔してる。
食い物が腹に入って、人心地ついたからだろうか。しおんはふとそう思った。
銘酒屋に吸い込まれていく大人の男たちは、もっと艶のない肌をしているものだ。大人、というよりは青年と呼んだほうがいいのだろうが、龍郷はしおんが今まで関わった「大人」の中では格段に清潔で、美しい。ともすれば攻撃的にさえ見える、黒い意思の強そうな瞳が。
ついつい見つめてしまっていたらしい。龍郷がしおんの視線に気がつく。人の悪そうな笑みの形に口元を歪めた。
海老にフォークを突き立てると、添えられていたなにやら白いソースをつける。見せつけるように口に含み、歯を立てた。
サク、と軽やかな音がして、たっぷりと乗せた白いソースが口元を汚す。龍郷はそれを親指で雑に拭うと、しおんの目を見つめたままゆっくり舐め取った。
―……っ、こいつ……!
「変態……!」
「なんのことやら」
ふざけるな、と思うが、ここで「なんのこと」か口にするわけにはいかない。もちろん龍郷は、それをわかった上でからかっているのだ。
「おまえもどうだ。このソースを出せる店はまだ珍しいぞ」
理不尽な仕打ちに震えるしおんをよそに、海老を差し出してくる。
犬猫じゃあるまいし、手から餌付けなんて―そうは思うのだが、香ばしい香りが鼻先で香ると抗い切れなかった。白いソースもなんだか得体はしれないが、ライスカリーはうまかったのだ。きっとこれだって、毒じゃない。
「……」
思い切って口に入れると、さっき龍郷が奏でていたのと同じに心地良いサクっという音がした。海老の身は弾力があって、歯を立てると押し返してくるほどだ。その抵抗を感じながら噛み切るのが楽しい。
楽しい、と感じたことに自分で驚いてしまう。食事は(運良く口にできたとして)その日その日をどうにか動き回るために摂るものに過ぎない。
―楽しいか、楽しくないかなんて、考えたことなかった。
白いソースは少し酸味があって、その味はしおんがかつて味わったことのないものだった。海老の身を噛み砕くぷつっとした歯触りと、衣の香ばしさ。そこへ酸味の中にまろやかさのあるソースがからむと、思わず口にせずにはいられなかった。
「……うまい」
「そうか」
龍郷の声には笑みが含まれている。喰う物を与えたら簡単に大人しくなったとでも思われただろうか――そう思って顔を上げれば、龍郷の黒い瞳と視線がぶつかった。
きっとまた馬鹿にしたように笑ってるんだろ。
そう思っていたのに、龍郷はやわらかく微笑んでいた。
まるでうまい物を頬張っているのは自分のほうみたいに。
見つめられる度不安になる、黒い夜の水面のような瞳が細められると、龍郷の顔は思いがけずやさしい印象になった。
不意をつかれて見とれてしまっていたんだろう。いつの間にか伸びてきた龍郷の手が口元に触れた。
「ついてる」
二本の指でしおんの華奢な顎は簡単に持ち上がる。龍郷はしおんの口元についたソースを指で拭うと、そのまま鼻先にちらつかせた。無言で顎を微かにしゃくる。その一連の動きはあまりに自然すぎて、うっかり従ってしまいそうになる。
――なわけ、ねえだろ……!
すんでのところでしおんは我に返った。かといってこのままただ嫌がるのも癪に障る。
考え込んだのは一瞬。しおんはまぶたを伏せてしおらしい表情を作ると、龍郷の汚れた指を口に含んだ。
そうして思い切り歯を立てた。
「――ッ! おまえ」
「下手くそだからな」
ぶっきらぼうに告げてやる。龍郷は軽く目を見開くと、愉快そうに肩を揺らした。
「……面白い」
まだ汚れていた指を自分で口に含む。どこもかしこもまるで石から削り出したように整った男の中で、舌だけが赤く、それがどういうわけかしおんを落ち着かない気持ちにさせた。だいたい、噛むだけとはいえ一度自分が口に入れたものを、さらに口に含むなんて。
孤児院の子供たちは、しおんが触った物に触れるのも嫌がったのに。
――そういえばこいつ、朝一番にもためらいなく額に触れた。
外国暮らしでしおんの髪と目の色に抵抗がなかったとしても、あのときはまだ風呂にも入らず汚れ放題だったのに。それを言うならそもそもあの上等の寝台によく自分を入れたものだ。金を払った以上逃がしたくなかったとはいえ、普通、薄汚れた孤児に寝床を明け渡すだろうか。熱があった自分を哀れんだ? だとしたら。
「さすがにもう少し血色が良くならないと舞台で見栄えが悪いからな。どんどん喰え」
こいつ、もしかしてちょっとはいい奴……なの、か?
「代金はおまえの買値に乗せておくから、心配しなくていい」
一瞬でも「もしやいい奴?」などと思った自分のおめでたさを呪う。
食事を終えたら当然車に戻る。そのとき、今度こそ逃げ出してやる。眈々と考えを巡らせながら、しおんは海老にぶすりとフォークを突き立てた。
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