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第10話

「はい、これでおしまいかな。他に痛いところはない?」  やさしく問いかけられて、しおんはぶすっとしたまま頷く。野々宮は困ったような笑みでそれを受けると、緑色の缶の蓋を閉めた。  あのあと結局、他の少年たちも入り乱れての大乱闘になって、野々宮に無理矢理引っぺがされたしおんは再び自動車に押し込まれた。  連れてこられたのは石造り五階建ての豪奢な建物。  六区の映画館にも、洋風の作りを取り入れたものはある。だが、入り口の両側に龍の銅像が鎮座する龍郷百貨店を目にして、しおんは自分が見ていたものはすべて紛い物だったと知った。 堅牢に組み上げられた外壁の石のひとつひとつが、しおんの背丈ほどもある。出入り口や窓枠はすべてその白く輝く石を削り出した装飾で取り囲まれている。  安い芝居の看板でしか見たことのない、神殿とはこういうものだったのかと圧倒されていると、裏口の通用門に通された。そこでさえ、ふんだんに色硝子の装飾が施されていた。  圧倒されているうちに執務室に連れて来られ、乱闘でこさえた擦り傷に軟膏を塗ってもらったところだ。 「さて。どうします、社長」  飴色に磨き上げられた一枚板の執務机に陣取る龍郷の顔には、流石に笑みはない。 「なにを考えているんだおまえは」くらい言われるかと思ったのだが、それもなく、ひたすら渋い顔で何事か考え込んでいる。自分を見世物にして客を集めるという当てが外れて困っているのだろうが、そもそも自分はそんなつもりはないのだから、知ったことではない。しおんは座らされていた天鵞絨張りの椅子から勢いをつけて立ち上がった。 「俺は用無しみたいだな。もう行く。金持ちの道楽にはもう充分つき合っただろ」 「道楽?」  険しい表情のまま、龍郷がぴくりと片眉をひきつらせた。  自分が少年音楽隊に入れば、物珍しさ、怖い物見たさでやってくる客が少しはいるだろう。とにかく人を呼ぶ、という意味では間違っていないから、龍郷がそれをあてにするのもわからないではない。が、そもそもあの少年たちと仲良くするなどということが無理そうだ。  車の中で野々宮が話してくれたところによれば、彼らは龍郷の父である先代社長の頃からの隊員で、すでに一定の人気があるそうだ。そんなところに突然素性の知れない奴が現れて従来のやり方を変えると言われれば、反発が起こるのも当然のことだろうと思う。  人は、自分と違う物を、一度「普通」と決めた物以外の物を、受け容れない。面白く眺めることはしても、一緒にいたいとは思わない。しおんはそれをいやというほど知っている。 つっかかって来た少年には「言い分を聞け」などと言ってしまったが、突然思いつきだけでやり方を大きく変えようとする龍郷のやり方も賢いとは言えない。音楽隊が「餓鬼の遊び」なら、それをしかける龍郷は「所詮金持ちの道楽」だ。 「そうだろ。じゃーな」 取り敢えず、当初の思惑の半ばまではつき合たわけだし。駄目になったのは内部からの反発だったわけだし。となれば、ここは放免するしかないはずだった。  さて、どこへ行くか。  いけ好かない金持ちの道楽から解放されるのは喜ばしいが、結局そこへ立ち返るとなにもない自分を思い知る。それでも見世物になるよりはマシだ。 ……よな?  重い木の扉に手をかけたとき「待て」と身を乗り出したのは龍郷だった。 「興行師に払った分は体で支払うと言ったのはおまえだぞ」 「そんな言い方はしてねえ」  思わず足を止めて振り返ると、野々宮が「からだで……?」と青ざめている。  一方で龍郷はといえば、しおんを引き留めておきながら、立ち上がったまま再び黙り込んでいるのだった。 「龍郷?」 「ああ、」  野々宮に訊ねられて、龍郷は目をしばたいた。 「すま、」 一応は謝ろうと思ったのだろうか。口を開いた龍郷はしかし、その半ばで突然口を噤んだ。 顎に指を添えて考え込むその姿勢は、昼間洋食屋でも見た光景だ。深く思考の海に沈んで、誰の声も聞こえていないその様子。  やがて龍郷は、大真面目な顔で「そう……体でだ」と呟いた。  物思いに沈んだときと同じ唐突さで浮かび上がると、どこか高揚した様子で訊ねてくる。 「――おまえ、自転車は乗れるか?」 「じてんしゃ……?」  話の前後がまったく見えないし、かたわらの野々宮が立ったまま息を引き取りそうなのも気になる。もちろん自転車などという高価なものにしおんは乗ったことがなかった。  戸惑うふたりを置いてけぼりにして、社長様は宣う。 「すばしこいから少し練習すればいけるだろう。野々宮、こいつに例の制服を」 「良かった。まだ試作段階だったけど、君にぴったりだね」  幸い立ったままあの世に召されることはなかった野々宮はそう言って、一歩後ろに下がった。 「というか、まるで君のために誂えてあったみたい……?」  頭の先からつま先までじろじろ見られることには慣れているが、向けられるのが悪意でなくどこか賞賛めいた言葉だと、なんだか居心地が悪い。 「例の制服」とやらは白い厚手の生地で、襟と折り返した袖口、それから前立てに金モールの縫い取りのある代物だった。  飾り釦もやはり金で、よく見ると龍郷百貨店の象徴である、龍が刻印してある。それが前立ての肩から裾まで十個ずつも並んでいて、腰をきゅっと共布のベルトで締め、やはり共布で金モールの縁取りがある小さめの帽子をちょこんと頭に乗せられると、小さな兵隊といった風情だ。  龍郷はといえば、野々宮がすっかり整えてくれたそんな様子を執務机から満足げに眺めていた。  ――いや、なにひとつおまえの手柄じゃないだろ。  そもそもこれがいったい何の「制服」かといえば「メッセンジャーボーイの」だった。  要は少年の御用聞きを横文字にしたものらしい。外国の百貨店ではすでに一般的な、買ったものの自転車による配達を龍郷はどこよりも早く導入してやろうと準備を始めたところだったそうだ。  着替える前に練習させられた自転車は、初めこそふらついたものの、少しの練習であっさり乗れるようになってしまった。龍郷の思惑通りになるのは癪に障るが、実際向いていたのだろう。 「こっちの意味でも体で払ってもらうことになったわけだ」 「こっちの意味でもって、なに……?」とまた顔をひきつらせる野々宮を龍郷は手招きすると、何事かを耳打ちした。 「―わかってますよ。その辺はぬかりなく」  死にそうな顔だった野々宮の顔に生気が戻り、にっこりと微笑む。訝しんでいる間に地図と油紙に包んだ品物を渡され送り出された。  白く塗られた自転車の腹には「龍郷百貨店」の文字が入っている。そもそも自転車は役人の一ヶ月分の給料にも相当するものだ。街を走ればただでさえ人目を引く。その上特別な塗装にこの華美な格好。  逃げるにしても、どこかで着替えねえと……  そしてもちろん着替えも身を寄せる〈どこか〉も持たないしおんに、逃げ出せる道はなかった。もちろん龍郷はそれを見越しているんだろう。  なんだか離れれば離れようとするほど、奴の術中にはまっている気がする。  こうなればさっさと配達を終わらせて、次の機会を待つしかない。ペダルをぐっと踏み込むと、路面電車のために敷設された木煉瓦の上に出てしまい、後ろからチンチンと煽られた。  元来勘は悪くなかったのだろう。路面電車に煽られてふらふらしているうちに体はすっかり自転車の乗り方を覚えてしまい、気がつけば地図に記された家にたどりついていた。 「……ごめんください。龍郷百貨店の者です」  自転車を木戸の脇に立てかけて、出がけに言い含められていたように声をかける。勝手口の扉が開き、日本髪に羽織をはおった品のいい女性が出てきた。  いかにも楚々とした奥様という姿を目にして、しおんは我に返った。  ここまで、この身なりで、この目立つ白い自転車姿でやってきた。無遠慮な視線は感じたが、通り過ぎるのは一瞬だ。  だがこうして客先に着いたなら、当然まじまじと見られることになる。体が習慣で勝手に強ばるのを感じた。 「あら―」  案の定、出てきた奥方はそう一声発して目を見張る。ほらな―と思っているうちに彼女ははっとなにか思い当たったような顔になり、家の中へと声をかけた。 「あなた。あなたちょっといらして」 「なんだい、騒がしい」  奇異の目でみられることには慣れている。けれどわざわざ家の人間を呼び立てられるとは。総出で塩でもまかれるのか。  しおんの危惧に反して、奥方はにっこりと笑顔になった。 「だって、ご覧になって、ほら、可愛らしい小僧さん」 「小僧さん? なにを――ほう、これはこれは、なにやら懐かしい」 「なつか……しい?」  いったいなんのことだろう。面食らっている様子に気がついた奥方が、すまなさそうに眉尻を下げた。 「主人は英文学の研究者なの。私たち英吉利に数年行っていたのよ。あちらの子供ときたら、誰も彼もお人形さんのようでそれは可愛らしくて―あなたもあんまり可愛かったものだから、つい、主人まで呼んでしまって。ごめんなさいね」  ――可愛い。  また、言われた。それとも俺、実はまだ熱があって、聞き間違えでもしてるんだろうか。  だってそんなのは、普通の、普通に愛されてる子供が言われる言葉だろう。 「お届けご苦労様」  奥方の声に肝心の品物の存在を思い出し、しおんは包みを差し出した。ひとまず配達を終えたことに安堵してようやく辺りを見渡せば、この家は勝手口こそ日本家屋だが、表通りに面した棟は洋風の造りになっているようだった。たまに見かけるこんな家を奇妙な気持ちで見ていたものだが、なるほどこういう人種が住んでいるらしい。 「言葉がわかるようだが、君は日本生まれなのかね」 「……たぶん」 「あなた」  奥方が主人の袖をそっと引く。立ち入ったことを訊くなということだろう。  そんなふうに大人に気遣われるのも初めてのことだった。  大人はいつも俺を見ないか、物のように扱っても平気だと思っている。 「ああ、すまない。―そうだ、おまえ、あれがあったろう。頂き物の」 「ああ、はい、ちょっと待っていてね。すぐだから」  なんだかはしゃぐような様子で戻った奥方は、手にした包みをしおんに握らせた。 「ピラミッドケーキ、好きだといいんだけど」  好きもなにも、そんなものは見たこともなければ聞いたこともない。油紙に包まれた中身をのぞくと、焼き菓子のようなもので、薄い生地を重ねているのか、茶色い筋が幾重にも走っていた。  「お仕事の途中に引き止めてごめんなさいね」  そんな声を背に聞きながら、自転車まで戻った。手を空けるために包みを開いてピラミッドケーキとやらにかぶりつく。もとはどういう形状だったのか、弧を描いた一番外側はしゃりっとした砂糖衣が甘い。歯を立てると幾重にも重なった層はほどよい弾力を残してほぐれていき、卵の風味が舌の上に広がる。  うまい、と思うのに、なんだか腹の中はすでにいっぱいで、飲み下すのに時間がかかった。なんて名付けたらいいのかもわからない感情で。  ――すまない、だって。  生まれて初めて大人の男に謝られた。  奥方も俺を見ても気持ち悪がったり、邪険に扱ったりしなかった。  今まで味わったことのない、落ち着かない気持ちが胸の中がひしめき合っている。その一方で、体中から力が抜けていくような気もした。  いつもなにかに憤り、傷ついてなどやるものかと張り詰めていた。当たり前になりすぎて、いつしか纏っていたことが自分でもわからなくなっていた目に見えない帷子のようなもの。それを誰かがひょいっと取り除いてくれた、ような。 『おまえのそれは武器になる』  龍郷の言葉を思い出しながらしおんは口元についた砂糖を舐めとり、再び自転車に跨がった。  逃げたって、このナリじゃ目立つし。  でかでかと龍郷百貨店の名前が入ってるし。  今馬鹿正直に店に戻ろうとしているのは、そのせいだ。それだけのせいだと、誰に聞かれるわけでもないのに言い訳するように思った。

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