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第11話

「……ぐ、はッ!」  息苦しさで目覚めた。飛び起きるとすぐ近くにまたぞろ龍郷の不敵に笑う顔がある。痛みと龍郷の指の形状で、鼻を摘ままれていたのだと知った。 「この――」 「よく頑張ってくれた」   怒鳴ろうとした出鼻をくじかれて、やむなく口を噤む。     学者の家をあとにして、百貨店に戻ると、両脇に龍の銅像が鎮座する正面玄関で龍郷が待っていた。 「社長サマ直々のお出迎えかよ」  やはり、逃げると思われていたんだろうか。もちろん隙があればそうするつもりだったのに、戻ってきてしまったことが今更悔やまれて放つ言葉は棘を帯びた。だが龍郷は、しおんの八つ当たりめいた言葉もさらりと受け流す。 「ああ、野々宮は電話対応に忙しくてな。ちょうど今だけ手の空いた俺が持たされた」  持たされた?  見れば、龍郷の手に握られているのは新しい包みと地図だ。 「さっきから電話や店頭での問い合わせがひっきりなしだ。うちにもあのメッセンジャーボーイで配達してくれと」  百貨店での買い物は、庶民にとっては「少し贅沢をして」するものだ。そこへ龍郷百貨店の名前がでかでかと入った自転車が配達にくれば、嫌でも近所中に「あそこは百貨店で買い物をしたんだ」と知れ渡る。それが自尊心をくすぐるのだと龍郷は言った。 「しかも乗っているのは人形のように可愛らしい少年と来てる。狙い通りだ。早速本格導入に向けて自転車と人員を増やさないと――」  龍郷はぶつぶつ呟きながら、また思考海に沈んでいく。 「おい」  うっかり取り落としそうになった荷物を反射で受け取り、受け取った以上はまた成り行きで配達に――そのくり返しで、しおんはうっかり宵の口まで配達を何件もこなしてしまった。  最後に店に戻ったときには流石に疲れ果てていたから、そのまま眠ってしまったのだろう。  「もう閉店だ。帰るぞ」  急かされて長椅子から起き上がる。配達で出入りしていた裏口へ回ろうとすると「こっちだ」と促された。反対側の、事務所から売り場へと続く廊下を抜ける。  不意に視界が橙色の光に包まれた。  ぐるりと回廊になった売り場の中央。そこが高い天井まで吹き抜けになっている。  しおんの知っている「高いところ」といえば下から見上げる十二階で、こんなふうに上下どちらにも視界が開けた経験はいまだかつてなかった。天井は硝子張りで、その向こうに夜空が見える。まるで硝子自体がそういう色なのかと思わせるが、星々がときおりちかっと光って、目に映る景色が本物なのだと知らせてくる。 「おまえに見せてやろうと思って、灯りを落とさずにいたんだ」  誘うように伸ばしてくる龍郷の腕に促されるまま、しおんはあとに続いた。そうしていなければ、中央の大きく口をあけた空間にふわりと体がさらわれてしまいそうな気がして。  こつ、こつと自信たっぷりに聞こえる高い足音を残し、龍郷は回廊を回り込む。中央の大階段から見渡す店内は、いっそう煌びやかに見えた。気圧されているのを悟られないよう、しおんも平静を装って龍郷のあとを追う。  幾何学模様に組まれた大理石の床に一足先に降り立って、龍郷は天井を振り仰いだ。つられて同じように見上げると、まだ中程の踊り場にいるのに、高低差にめまいがしそうだった。 目眩の原因はそれだけではないんだと思う。  今日一日、いろんなものを見た。  その日一日をどうやって生きるか――あるいは死ぬか――しか考えてこなかった小さな頭になだれ込んだ情報量がそうさせるのだ。  初めて雲のような寝床で目覚めた。初めて清潔な服に袖を通した。初めて目をそらさない大人たちに出会った。  ――餓鬼には因縁つけられたけど。  それでもそのあとに、この髪と瞳が 役立つことも知った。  龍郷に連れてこられてたった一日だ。  浅草と日本橋、距離にすればそう離れてもいない。路面電車に乗らずとも、歩いてだって行き来できる距離を移動しただけで、こんなにも世界は違って見えるものなんだろうか。まだ、体と心が追いつかない。それなのにだめ押しで豪勢な作りの店内を見せられて、なんだか息をするのもやっとだ。 何度目かの配達から帰ったあと、野々宮に訊ねられた。 ーーなにか不都合はない? ーー別に。 不都合といえば事の起こりがすべて不都合で、今更こんな程度の労働は、どうということもない。自転車は慣れるごとに容易に扱えるようになって、颯爽と角を曲がるとき、小さな子供たちが賞賛の眼差しを向けてくるのも悪くなかった。 ーー良かった。なにかあったらあいつがうるさいだろうから。 忙しい身らしく、それだけ言うとまた仕事に戻ってしまったが、そのときしおんは悟ったのだ。 いくら百貨店で買い物をするような裕福層だって、自分の容姿に偏見のない者ばかりということはないだろう。 そういう客を選んで配達に行かせるよう、龍郷が仕組んだのだ。 そのほうが自分も逃げ出さない、客も満足出来る。そういう計算があったことは想像に難くない。だけど、計算のほかに、気遣いもあったのだとうっかり思ってしまいそうになる。 「なあ」  現実に体を繋ぎとめておきたくて、思いついたことを問いかけると、吹き抜けに自分の声が思いのほか響く。 「ここ、なんでこんなに場所とってるんだ? 売り場にしなくていいのか?」  百貨店、というからには、品物の多さを誇るべきなのだろう。五階建ての上四階部分はぐるりと売り場と事務所になっているが、なぜ一階になにもない空間をこんなに残しているのだろう。もっと品物を置けばいいんじゃないかと考えてしまう。  龍郷は愉快そうに片眉を上げた。 「俺の店に興味が出てきたか?」 「別に。ただ無駄だと思っただけだ。もっと商品を沢山並べたほうが沢山稼げるんじゃないのか」  今日配達した品物は、食品から化粧品から布地に至るまで、多岐に渡っていた。なるほど、百貨店というのはその名の通り、百貨を扱うのだ。しおんが浅草で目にする個人の商店は、八百屋なら八百屋、金物なら金物と扱うものは決まっている。それらすべてを一度に扱えば、八百屋の客だった者も金物屋の客も得られるということなんだろう。その理屈で行けば、品数は多ければ多いほどいいということになるのに、だ。 「百貨店が売るのは物じゃない」 「は?」  こっちが世間知らずだと思ってばかにしているんだろうか。今日一日、こいつのおかげでずいぶん世界が違って見えたなどということをうっかり考えてしまっていたことを、しおんは密かに恥じた。 「あんたの目的は金儲けだろ? 物を売らなくてどうやって金を稼ぐんだよ」 「俺は子供の頃英吉利にいた。その頃はまだ政府の仕事をしていた父親の都合でな」  龍郷はしおんの言葉には応えず、そんなことを言った。いつもそうだが、こいつの話は唐突が過ぎる。あからさまにげんなりした顔をしてやっても、龍郷は気に留める様子もなくさらに続けた。 「同じ境遇の仲間もおらず、母親も大変だったと思う。そんな俺と母の心の慰めがたまにデパートに行くことだった」  母親、と口にされ、こいつにも子供の頃があったのだと、今更ながら思う。朝間に合わせで着せられた服の上等さを思えば、それは自分とはくらべものにならない幸福なものだったはずだ。そういえば、肝心の母親というものの姿を朝邸で見なかった。別邸にでも住んでいるのだろうか。  しおんが頭を巡らせている間に、龍郷の声は無人の店内にさらに響く。 「そこにはなんでもあった。常に新しい驚きと喜びがあった。日本の商品を扱って、日本からの情報をもたらしてくれるのもデパートだった。だからデパートは品物を商うのと同時に、新しくて、幸福な情報の発信地であるべきだと思っている。それこそが今の時代に求められる百貨店の扱う物、あるべき姿だ」 「幸福な、情報――?」 「わかりやすく言うなら〈わくわくするような気分〉ってところか」  その説明は、しおんにとってまったくわかりやすいものではなかった。気分を売るって、どういうことなんだ。考えていることが顔に出てしまっていたのだろう。龍郷は苦笑する。 「今日、おまえが配達する姿を見て、初めて龍郷百貨店に行ってみようと思った人もいるだろう。実際に来てくれる人がその中で何人かいて、うちの商品を見る。初めて見る物をちょっと試しに買ってみる。その商品の案配がよくて、また行ってみようと思う。そのことを考えると毎日に少し張り合いが出る。明日が来るのが少し楽しみになる。それが〈気分を売る〉だ」  ――明日が来るのが楽しみになる?  そんなことをしおんは考えたことがなかった。  今日を生きるのが精一杯だった。それだって、自分で選んだことではない。  無責任に産み落とされ、守られることもなく、かと言って死ぬこともそう簡単ではない。だから仕方なくその日その日を気怠く過ごす。  自分のことでさえそんなふうなのに、人のために気分を売るなんて。それはしおんには雲どころかどこのなにを掴んだらいいのかわからない話だ。 「今世の中は戦後恐慌からやっと上向きになってきたところだ。俺はもっとどんどん新しい、楽しい気持ちを発信したい。もっとこの国の人間に幸福で文化的な暮らしを味わって欲しいんだ」 「それ、あんたになんの得があるんだよ」 「国民全体が幸福になって生活が底上げされれば、購買意欲も増す。結局はうちのお客様になってくれる」 「気の長い話だな!」  ほとんど絵空事のように思えてつい大声になった。 「そうだ。だから変えられる物はどんどん変えていかなければならない」  叫ばれても龍郷は平然として、楽しそうに応じるのみだ。 「……父はこの店を一部の裕福層向けでいいと思っていたようだが、もうそれだけでは駄目だ。もちろん扱う物は良い物でなければならないが、誰でも少しだけ背伸びして覗いてみることが出来るような場所にしなければならない。今まで闇雲に自分たちには関係ないと敬遠していた層に来てもらわなければ」  音楽隊へのてこ入れは、その手始めだという。 「常に新しく変わっていくことだけが多くの人に悦びをもたらすんだ。隊員たちにはなぜそれが伝わらないのか……」  またぞろ顎に指を添えて、真剣に考え込む。思わず口をついて出た。 「あんた阿呆か?」 「――なに?」  罵倒などされたこともないのだろう。龍郷の瞳がすっと細められる。動じない表情を、それだけでも動かしてやったことに満足する。 「新しくて珍しいことが好きなのは、それを見物できる側にいるときだけだ。誰だって見物される側にはなりたかない。見物する側のあんたにいくらうまいこと言われたって、白々しくしか聞こえない。むかつくのもあたりまえだ」  それに寮での龍郷は、気分を売るなんて話はしていなかった。教育を受けて実績もある彼らだから、それで通じるとでも思ったのかも知れないが、明らかに言葉が足りていない。周りも見えないくらい考え込んで、新しいことを思いつくのは長所かもしれないが、出た結論だけを押しつけてしまうのはこの男の悪い癖なのかもしれないとしおんは思った。 「……彼らとは、気が合わないのかと思ったが?」 「合わねえよ。ただ無駄な衝突に巻き込まれるのは鬱陶しい。誰も得しねえし。無意味だ」 「……なるほどな。彼を言い負かしたときも思ったが、おまえは物事の本質をよく見てる」 「別に」  そうやって人の望むもの、言い換えれば人の顔色をうかがうのがいつの間にか習い性になっていた、というだけの話だ。この髪と瞳が目立たないように生きていくために。 「おまえを見ていると新しいアイデアがどんどん浮かんで――たしかに伝え方を焦っていたかもしれないな」  しおんは目をしばたいた。龍郷が――普通の大人が、自分の非を認めたことに驚いたからだ。自分なんかの言葉で。  無視されるにしろ、攻撃されるにしろ、普通の大人も子供もしおんの話に耳を傾けることなどなかった。ましてや反論めいたことを言って、殴られるのではなく受け容れられるなんて。  驚きの中にあとひとつかふたつ、他の感情がない交ぜになっている気がする。しおんがそれを拾い上げる前に、龍郷は満足げに言った。 「随分安い買い物だった」 「俺はものじゃない」  そうだ。こいつは俺を金で買った上、体を散々好きに扱った奴だった。ちょっと話を聞いてくれただけでほだされている場合じゃない。  日も暮れたことだし、どこかでもっと目立たない服を手に入れてなんとか逃げられないか――そう考えるしおんの腕を龍郷は不意に掴んだ。

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