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第17話
その日以来、しおんの生活は一変した。
龍郷に拾われた日から衣食住に困らなくなって、それだって大きな変化であったのに、今度は今まで自分を取り囲んでいた空気や景色ごと舞台の早変わりのようにくるりと差し替えられたような気がする。ほんの一瞬で。
他店より大人びた演出は見事に当たって、今や龍郷百貨店音楽隊はすっかり日本橋名物となっていた。
すると、音楽隊の連中がちょっかいを出してくることもなくなった。
昼夜一回ずつの公演には、買い物客はもちろん、わざわざそれだけのために足を運ぶ者もいる。飽きられないよう新しい曲をどんどん覚えなければならなくなったせいもあるだろう。
そもそも寮まで用意してみっちり仕込んだ演奏の実力は後追いでできた他店の付け焼き刃な音楽隊の非ではなく、しおんの話題につられて見物に来た買い物客が、帰りには別のお気に入りを見つけて帰るという現象も生まれていた。
そうなってしまえばもう、内部でいがみ合っているのは得策でないと少年たちも悟ったのだろう。一番つっかかっていた例の少年も、信奉者が増えるにつれてしおんにかまうことはなくなっていった。
百貨店で来客者に配る冊子の誌面を少年音楽隊が飾ったときには、発行以来最も速くなくなったそうだ。
龍郷の手元に一部だけ残ったものを見せられたが、音楽隊の特集はもちろん、それとは別に自分の頁が設けられていて「花びらのごとき紅唇と払暁(ふつぎょう)の光を持つ眸の少年天使」とかいうよくわからない文字が躍っていた。
写真というものを、屋上庭園の片隅で撮られた。用意された長椅子に不自然な姿勢のまま長いことじっとしていなければならず、あとで脇腹がつった。
しおん、という名は「紫苑」に通じるというので、専属デザイナーが紫苑の花の図案を考案して、銘仙(めいせん)に染めた着物は飛ぶように売れているらしい。
冊子には自分が孤児で、どこの誰かも、どこの外国の血が入っているかもわからないということまで書かれている。
にもかかわらず、百貨店の客はそれが気にならないらしい。
というか、そう指示して書かせた龍郷に言わせれば「むしろそれがいい」のだそうだ。
どこの誰だかわからない。だからその欠けている部分を観客はあれこれと夢想する。
実は某国の皇太子のご落胤。実は少年ではなく少女。いや、今でも東北のどこかの村にはあのように透き通る肌の一族がひっそりと暮らしているのだ、などなど。
噂が噂を呼び、人を呼ぶ。今や「天涯孤独の少年が歌う哀切の旋律」とかいう惹句を聞くだけで、涙するご婦人がいるとか、いないとか。ちなみに「少年」の部分には「カナリア」とルビが振られている。
しおんの人気が上がるのと同時に、龍郷の評判も上がっていた。「才能ある孤児を見出して教育を与えるなんて、なんて素晴らしい……!」というわけだ。
とにかく、龍郷の狙いは大当たり。手放しに褒めるのは癪に障るが、そういうことになるのだろう。
しおんは、慣れた手つきでナイフとフォークを使う目の前の男を上目遣いにうかがい見た。
「どうかしたか?」
「別に」
ここのところずっと、こいつになにか言わなければいけないような気がしている。けれどいざ本人を目の前にすると、それがなんだったのか思い出せないのだった。
正式な社長就任セレモニーを皮切りに、龍郷百貨店は大々的な宣伝攻勢をかけていた。東京駅から店までの電柱すべてに広告を出す。しおんが先駆けとなったメッセンジャーボーイの数を増やす。今や彼らが揃いの制服に身を包み、龍の銅像の置かれた正面玄関から一斉に朝一番の配達に出かけていく様子は、見物人が出るほどの名物となっていた。
龍郷の発案で、屋上に係留した気球の下に広告の垂れ幕を下げさせた「アドバルーン」は、遠く離れたところからでも店の存在を知らしめた。
それらを導入する資金繰りや商品をより充実させるための交渉はもちろんかかせない。
そのため龍郷は文字通り飛び回っていて、夜はいつの間にか同じベッドで寝ているものの、こうして顔をちゃんと合わせるのも実は久し振りのことだった。
ここのところの盛況のご褒美ということで「なんでも好きなものを喰え」と百貨店の中の食堂に連れてこられたところだった。
「この写真はいいな。物憂げなまなざしはなにを想う」
龍郷が記事の大仰な惹句を楽しげに読み上げる。
「だりーとか、腹減ったとかだよ……」
龍郷は軽く手をあげてウェイトレスを呼び止めた。二百席からなる大食堂を百貨店の中に作ったのも龍郷が初めてなら、女性従業員を大量に雇ったのも龍郷以外にいないという。いかがわしいカフェーなどと違って、ただ給仕のみをする店員は全員龍郷の家の女中のような洋装で、白いエプロンを結び、洋髪にエプロンと揃いのヘッドドレスとかいうのをつけている。それが可愛らしいと、最近では子供の服にも取り入れられているようだ
「ここにあるものをはしから全部順番にもってきてくれ」
「そんなには喰えねえよ!」
「そうか?」
出会った頃ならいざしらず、今は毎日の食事は充分足りている。龍郷の次から次へと新しい戦略を思いつく能力は素晴らしいが、他のところはところどころ抜けている。
とはいえ、入るものなら全部喰いたいというのも実のところ本音だった。洋食はうまい。
しおんは今日、オムレツライスというものを頼んでいる。朱色の飯に最初はぎょっとしたものだが、周りを包むふんわりとした卵といっしょに口に運ぶと、塩気とほんのりとした甘み、それから酸味とで手が止まらなくなった。
喰う物を断るなんて贅沢、ほんの少し前までなら考えられなかった。
生活が変わったことを最も実感する瞬間かも知れない。
「ちょっとずつ全部喰えたらいいんだけど」
「ほら、やっぱり欲しいんだろう。――いや、待てよ」
からかうように言ってから、龍郷は不意に黙った。ナイフを入れたビフテキもそのままに、なにやら考え込んでいる。
仕事に関するアイデアを閃いたとき、龍郷はこうして突然外界とのつながりをすべて断ち、思索の世界に入る。まるで、すとん、と突然鋭い刃物が外側の世界を切り落とすように。
ああ、またなにか、こいつの中で始まったんだ。
しおんはもう慣れたものだが、普通は切り離された側は面食らうし、目の前にいるのに軽んじられたようで、傷つく者もいる。社内に敵が多かったのは、そのせいもあるのだろう。だが本人も最近は結論に至った経緯を事務所に貼りだすなどして気をつけているらしい。
なによりその閃きで上がった分の売り上げを、龍郷はちゃんと従業員の給与に反映させていた。先だってはこれもまた日本で初になる「賞与」という制度を作ったらしい。なにかと生活のかかりが増える盆と正月に、月々の賃金の他に手当を出す取り決めだ。父の代からの番頭社員も、さすがにこれには態度を軟化させつつあると野々宮から聞いた。
音楽隊にしろ広告にしろ、龍郷は次々と新しい考えを生み出していく。それは素直に凄いと思う。
――――だけど、ときどき怖くなる。
いつだったか、デパート専属のデザイナーから聞いた話が頭の中にいつまでもこびりついている。
広告のイラスト用に、社内にあるアトリエでモデルを勤めながらの雑談だった。寝椅子に横たわって物憂げに宙空を見よ、という指示に応じながら。
「指を耳元の髪に添えて、顎は少しこう…見下す感じで。靴とソックス留めは片方だけ外して……ああ、いいね! 実にいい!」
そうか? と思いつつ、反論するのも面倒でため息をつく。それもまた「いいね〜!」と褒められるのだから意味がわからない。
「まあ、あんたたちがそれで稼げるってなら、なんでもいいよ……」
デザイナーは、ふと声の調子を改めた。
「社長が言ってたよ。しおんを見ていると、次から次へとアイデアが浮かぶんだって」
「……ふうん」
帝国劇場に足げく通うような奥方たちなら少年音楽隊にも興味を持つのではないかと踏んだ龍郷は、早速「今日は帝劇、明日は龍郷」というポスターを作らせた。
文言はただそれだけ。安売りの情報もなにも入らない代物だ。
だが、デザイナーによる粋な色使いのそれが街のあちこちに貼り出されると、実際に両方をはしごする客が増えた。くり返し目に入ると、人はそんなものかと思うようになるらしい。
新しい売り場を作るなどの投資をすることもなく、使ったのは印刷費だけ。実に安上がりに、言うなれば帝劇の威を借りて客足を伸ばしてしまった。
そういうやり方を自分を見ていて思いついたというのなら、正直、喜んでいいのかしおんとしては微妙なところだ。
だがポスターを手がけた当人としては得意に思いこそすれ、罪悪感はないようだった。
「さながら君は龍郷一真のミューズといったところかな」
「みゅ……?」
龍郷に拾われてから横文字にもずいぶん慣れたつもりだったが、初めて聞く言葉はまだまだある。眉根を寄せたしおんに、デザイナーは作業の手を止めてくり返した。
「ミューズ。芸術の女神だよ。僕たちは創作のひらめきを与えてくれる存在をそう呼ぶ。ほら、夢二とか」
「ああ……」
竹久夢二は男同様、日本画とデザイン両方を手がける当節人気の画家だ。しおんもその名は耳にしていた。特に憂いを帯びた女性の絵や、少女向けの叙情画で人気がある。
「だけど確かそいつって……」
「ああ、おしゃべりがすぎた。社長は締め切りには厳しいからなあ。はい、黙って、じっとして」
そう急き立てられて、しおんはやむなく口を閉じた。
夢二は、ミューズと称するモデルと関係を持った。関係が破局すれば別のモデルと付き合い、それで作風も変わるのだ。
だから、考えてしまうのだ。自分を見ていると、アイデアを続々思いつくと龍郷が言っているうちはいい。でも。
俺が、もう、目新しくなくなったら?
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